‘環境’ カテゴリーのアーカイブ

今日は「原子力の日」であると同時に「フロの日」でもある

2011年10月26日 水曜日

急遽、ある会合で挨拶する必要が生じたので、下記の原稿を書いた。

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急なご指名だったので、朝ネットで「今日は何の日?」というのを調べましたら、「原子力の日」と「フロの日」というのが出てきました。

昭和38年(1963)10月26日、茨城県東海村の日本原子力研究所で日本初の原子力発電に成功しました(JPDR)。昔、ちょっとこの辺りの取材をしたことがあったのですが、祝賀会場に電球を飾り、その電球に原子力で起こした電気が通じて、明るく灯がともった瞬間、会場に参加していた関係者が皆拍手と歓声で大喜びしたというような、目に浮かぶような話を、当時第一線でこのプロジェクトに関わっていた責任者から聞いたことがあります。

何度か車で東海村に通って、当時の責任者の話を聞くという行脚活動を続けていたのですが、話を聞いていて一番印象に残ったのは、原子力開発の初期の頃は、原子力も日本の経済や社会も、極めて低い、貧しいレベルにあったのですが、それでもここに関わっている人たちが皆生き生きとして、明るい希望を持って、前進していたことです。「昨日よりも今日、今日よりも明日」、自分たちの生活も原子力も必ず良くなっていくんだという、みんなが底抜けに明るい信念をもって突き進んでいた時代でした。

今からでは想像もつかないと思いますが、新幹線が当時「夢の超特急」と呼ばれたように、原子力の分野でもいろいろなものに「夢の」という枕詞がついて語られていました(夢の高速増殖炉など)。

その原子力が、3月11日の大震災と東電福島原発の事故によって、いまやほとんど将来への展望など語れない状況にいるわけです。

東電の事故は、まだ収束への途中段階にあるので、もちろん将来の展望どころの話ではないのはわかりますが、同じようにもう原子力はダメだから、一気に再生可能エネルギーに突き進もうというような風潮にも、危うさを感じます。原子力がダメだとしても、これまで日本の電力の3割以上を供給してきた原子力に代わりうるエネルギー源がそう簡単に開発されるとは思えませんし、ムリにことを進めると、市場原理を無視した、国民生活に大きな負担を強いる結果にもなりかねません。

最近、私は「ごく微量の放射線は、むしろ人間の健康に良い」という説を、大量のデータとともに発表し続けている、ある学者の活動に注目しています。

われわれ素人でも、ラドン温泉の効用やCTスキャンの威力は知っていますし、たしかに微量放射線のお世話にはなっているわけです。

たまたま今日は「原子力の日」であると同時に「フロの日」でもあるので、この際、もう一度原子力、放射線を「危険」「悪魔」という見方から、われわれがそこから受けてきた「恩恵」という側面をも見ながら、バランスのとれた長期的なエネルギー政策の方向を考えていったらどうかと思います。

もう一つの「バランス」として、「脱原発」を主張するのなら、日本だけでなく、中国が進めようとしている大量の原発建設計画にも強く反対し、そのような国際世論を沸き起こしていくべきだと思います。あのような高速(および地下鉄)鉄道事故を起こし、あのような事故処理をする国が大量の原発を建設するなど、まさに狂気(凶器?)の沙汰としいうほかありません。

いくら日本で国内の原発のすべてを運転停止させたとしても、中国で事故が起これば、放射能が偏西風に乗って、あるいは黄砂に含まれて、わが国土にも流れてくる可能性が大きい(現に、中国が何度も地上核実験を行っていた頃、黄砂にはかなりの放射能が含まれていたといわれます)。一度原発で事故が起きた後の事故処理だって、国際的な常識からは想像もできないような杜撰で、はた迷惑なことが行われるのではないでしょうか。

今、東電を頂点とする日本の原発推進体制全体が非難の矢面に立たされていますが、今も原発の構内で危険を顧みず頑張っている技術者や作業員、初期の頃活躍した自衛隊、消防なども含めて、日本の原発推進体制、それに関わる人たちのモラルや組織的な訓練度などは、やはり世界最高だと思います。それでも、あれだけ困難、大変さが伴ったのです。これが、あの鉄道事故を起こした中国で、同じような事故が起きたら、どんな事態になるか、想像するだに恐ろしい。

「脱原発」を主張する人たちは、中国に向かっても声高にそれを言うべきです。国会や東電にデモをかけるのと同時に、中国大使館前でも大きな怒りと懸念の声を揚げるべきでしょう。

鯨の仇は牛肉で

2011年2月20日 日曜日

反捕鯨団体「シー・シェパード(SS)」の危険で悪質な妨害活動により、日本の調査捕鯨が中止に追い込まれた。

この事態に、オーストラリアのラッド外相とバーク環境相は、SSの犯罪行為に「遺憾の意」を表するでもなく、逆に「国際社会には日本の調査捕鯨に対する懸念が広がっている」との見解を示し、日本の調査捕鯨の中止を求めて昨年、国際司法裁判所(オランダ・ハーグ)に起こした訴えを取り下げない(捕鯨の一時中止ではなく、正式に捕鯨が終了しない限り法的措置を取り続ける)方針を明らかにしたという。

バカは死ななきゃ直らないというか、何だかんだ言っても結局白人というのは、骨の髄から人種差別主義なのだ、自分たち以外の宗教や文化や生活慣習は劣ったものであり、自分たちが「正してやらなければならない」という、的はずれで思い上がった使命感に凝り固まったファシストなのだと断定せざるをえない。

今更言うまでもなく、鯨を貴重な資源として大切に利用するのは、われわれ日本人が祖先から受け継いできた文化であり、たまたま鯨を食糧として考えない文化を持った人たちから一方的に反対されたり、干渉される謂われはないのである。

以前、「牛肉文明への挑戦」という本を読んだ。細かい部分は忘れてしまったが、印象に残っているのは、ギリシャ・ローマ時代から西欧人たちを駆り立ててきたのは「うまい牛肉」への飽くなき欲望だったという、強烈な基本テーマに貫かれた本だった。

・ヨーロッパから新大陸アメリカに移住した人たちにとって、ここは何よりも「うまい牛肉」を大量に生産できる格好の大地だった。そこに住んでいた野生のバッファローを極めて短期間のうちに根こそぎ絶滅させることで、バッファローを生活の糧としていた原住民(インディアン)が生活できなくさせるとともに、彼らが長年住んできた土地を次々に奪っていった。

・人類初のオートメーション技術というのは、牛の屠殺場で働く労働者たちが「良心の呵責を感じることなく」大量の肉牛を効率的に屠殺することを目的に開発され、後にこの技術がフォードの自動車生産工場へと受け継がれた。

こういうエピソードを知ると、オーストラリアやニュージーランドの反捕鯨団体ばかりでなく、政府の要人に至るまで、捕鯨についてどうのこうの言う資格など、欠片もないことがよくわかる。

しかし、感情むき出しになって反捕鯨を叫ぶバカ、もとい人種差別主義者たちに〝つける薬はない〟。何を言ってもムダである。

であれば、われわれが執りうる最も効果的な対抗策は、「オーストラリア産牛肉の不買運動」、これしかないと思う。

SSが保有する高速船以上の性能を持った船を買って、SS船に体当たりしてやる、あるいはオーストラリア大使館前で豪首相の顔写真に火をつけて、館内に糞尿弾を投げ込むなどというのも悪くはないが、ヘタをするとこちら側に犠牲者が出るおそれがあるし、相手に与えるダメージもさほどではない。

それよりも、反捕鯨団体やそれを擁護(養護)する反捕鯨国との商取引において、はっきりとわれわれの嫌悪感を突きつける方がより効果的だと思う。

特定国からの特定の商品の不買運動なら、誰にでも、いつでも、どこでもできる。輸出した方は、不買運動の広がりは何よりも恐ろしいだろう。牛肉など、別にオーストラリアの世話にならなくたって、アメリカからでもどこからでも買える。なるべくバカみたいに反捕鯨を叫ばない国からだけ輸入すればいいし、だいいち和牛は世界最高の品質を誇るのだから、多少高くてもこのさい国産和牛のすき焼きをもっと楽しんだらいい。

日本人の多くが、オーストラリア産の牛肉を食べなくなり、遂にはオーストラリアから日本への牛肉の輸出がストップするような事態になれば、牧畜業者と反捕鯨グループとの間で争いが生まれるだろう。牧畜業者に反捕鯨グループ狩りをやらせるのが一番賢い、一番効果的な戦法だ。

オーストラリアの牧畜業者たちよ、よく聞け。

あなたたちの祖先が原住民を追い出した大地に牛を放牧させ、必死の思いで築き上げてきた、あなたたちの誇りある牧畜産業が、この地上に自分たちと異なった食文化があることを認めない、愚かなファシストたちによって、今危殆に瀕しているのだ。SSは、日本人のではなく、オーストラリアの牧畜業者たち、あなたたちの敵なのだ。敵は、容赦なく殲滅せよ。それが、あなたたちの祖先がやってきた、あなたたちへ伝授してきた生き方の基本なのだ。

焚き火のけむり(3)

2010年5月13日 木曜日

このブログは、別にダイオキシン騒ぎのせいで焚き火ができなくなったことに恨み辛みを述べる目的で立ち上げたものではありません。

焚き火に限らず、ある一つの危険性、健康や環境への悪影響といった問題だけ取り上げ、ひとつの社会運動あるいは熱狂的な風潮にまで盛り上げる最近の傾向が、別の意味で非常に危うい側面を見せ、社会全体の劣化を招いているのではないかという危惧を感じています。

一例を挙げるならば、「喫煙」に対する世間の態度です。最近、公共施設の多くが「分煙」から「全面禁煙」へと向かい、また自治体によっては、管内のすべての公共施設や飲食店などを「全面禁煙」とする条例を施行するなどの動きが出ています。

私自身は、10年くらい前にそれまでのヘビースモーカー状態から、タバコとは完全に縁を切り、いまでは近くでタバコを吸われると、やはり苦痛を感じるようになりました。だから、タバコ吸いと同じ部屋で過ごすのはご免ですが、それでも「分煙」、どこか少し離れたところで吸ってもらう分には全く意に介しません。健康に悪いといっても、本人が承知で吸っているのだし、生涯片時もタバコを手放さず、それで長寿を全うした人もいるのだから、個人差もあるのでしょう。

何よりも、最近の「全面禁煙」風潮には、世間には自分と違う、いろいろな人が生きていることへの理解度、寛容度が、社会全体として著しく劣化してきているように思えます。自分はタバコを吸わないから、タバコを吸う人のことなど考える必要はない。専門家が、タバコは健康に悪いと言っているのだから、世界中の人すべてが禁煙するのが理想であり、それ以外のことを考える必要はない、といった風潮が強まっているのではないか。

こうした風潮は、おそらく1970年代頃から盛り上がりをみせるようになった「シングル・イシュー・ムーブメント」の影響が強く働いているのではないかと思われます。原子力発電所は危険ということで、反原発運動が世界各地で盛り上がったり、地域社会の中でもゴミ処理場、火葬場その他の「迷惑施設」ができそうになると、一斉に反対運動が起こる。「シングル・イシュー」(特定の問題)に絞ってそれを葬り去ることだけを目的にした、反対運動や政治運動を繰り広げる傾向は、一面では住民の権利意識や自治意識の現れという肯定的な評価を与えられますが、一方では「シングル・イシュー」だけが最優先課題として取り上げられ、それ以外の問題が置き去りにされるきらいがあります。

危険な原発は作らせない、その限りでの危険性はなくなったが、ではますます需要が高まるエネルギー源をどう確保するのか、社会の生産活動、快適な生活環境、治安等々はどう確保されるのかという問題が置き去りにされるならば、社会全体としてはだんだん悪い方向へ落ち込んでいく可能性があると思います。

最近の「禁煙」志向にしても、たしかにそれによってタバコによる健康被害は相当程度減じることができるかもしれないが、一方で過度の「禁煙」志向によって、社会全体で見れば失われてきているものも相当多いように思います。

焚き火のけむり(2)

2010年5月12日 水曜日

ダイオキシン騒ぎの後、焚き火が何となく白い目で見られるようになったのは、非常に曖昧なことが根拠となって、一つの趣味とか風習が社会的に葬り去られてしまう(それも、行き過ぎた形で)、最近の風潮を象徴しているような話だと思います。

印西牧の原駅圏が今のように大型商業施設で賑わうようになる前、このあたりは一面の草原で、人の背丈よりも高い草が生い茂り、見通しの悪さから治安にも悪影響が心配されるほどでした。その頃都市公団(UR)の人に「もう少し草を伐採できないのか」聞いたことがあります。URの説明では、草を刈った後、以前ならそこで適当に燃やして処理できたのが、ダイオキシン騒ぎ以来これができなくなり、草を刈るコスト以上に、苅った後の草を処理するコストの方が大変なので、予算の関係でなかなか草を刈れないとのことでした。

火を燃やすと、ダイオキシンが発生するというのは確かなのでしょうが、発生したダイオキシンがどんな悪影響を人体や環境に及ぼすのかは、大騒ぎしていた当時もよくわかっていなかったではなかったかと思います。火を燃やす→ダイオキシンが発生する→発ガンなどの危険が高まるという因果関係がそれほどはっきり存在するのであれば、昔から人類は囲炉裏や暖炉、あるいは煮炊きなどに、現代人以上に盛んに火を燃やし、火のそばで生活してきた、それでも人類のほとんどがガンで死んできたわけではないことをどう説明するのか。

当時、ある専門家から、ダイオキシンが人体に及ぼした影響で、科学的にはっきりしているのは、ある被験者の顔にニキビができたことだけだという話も聞きました。マスコミなどが騒ぐことによってダイオキシン=危険物質というイメージがどんどんふくらんでいることの悪影響の方がはるかに大きいというのが、この専門家の見立てだったように記憶しています。

ダイオキシンの害として、どんなものがどの程度危険なのか、そうでないのか、私にはわかりませんが、危険性についてさまざまな議論、見立てがある中で、一方の議論、見立てだけに沿って、火を燃やすこと自体が白眼視されてきたのは、全体のバランスを欠いた風潮だと思います。こうした風潮は、焚き火だけにとどまらず、最近ではこのような行き過ぎた議論、特定のものを白眼視し、排斥してしまう傾向はこわいと思います。

焚き火のけむり

2010年5月11日 火曜日

このHPのリニューアルで全面的にお世話になっている「dachs飼主」さんに、ブログの開設でもお世話になりましたが、おかげさまで本日新規投稿ができることとなりました。dachs飼主さん、本当にありがとうございます。

このブログでは、本紙の補完機能というか、本紙では紙面の制約その他でなかなか書ききれないことや、紙面で取り上げる話題をちょっと別の角度からみたり、あるいはいずれ紙面でとりあげるまでの「習作」「下書き」のような形等々、いろいろと書いていきたいと思っています。

ブログのタイトルとして「焚き火のけむり」を考えています。

私は焚き火が好きで、薪が燃えて真っ赤に熾った炭、それを背景に火がちょろちょろと燃えているのをみると、何ともいえず心が温まる感じがして、いつまでも火のそばを離れようとはしません。

しかし、最近では、ダイオキシン騒動やら、灰や煙が流れるのをご近所の奥様方から嫌われるなど、焚き火もまた、文明社会での「嫌われ者」、住宅地ではもちろん、ニュータウンの外の里山のようなところを歩いていても、以前と比べて焚き火を目にすることは少なくなりました。

以前、東京で働いていた頃、職場の同僚に「焚き火が好きだ、火がチロチロと燃えるのをみていると気が休まる」と言ったら、「放火犯のDNAがあるのでは?」と混ぜっ返されたことがあります。焚き火と火事の火とでは、同じ火といっても、天と地ほどの違いがあるのですが、そんなことは同僚の関心の外だったようです。

これから、このブログで、「焚き火」を一つのキーワードにして、環境問題への関心その他、いろいろな社会的事象について、自分なりの切り口で取り上げていきたいと思っています。