昨年8月17日、われわれは以下の点を訴えて、国を相手取って北総線の運賃引き下げを目的とした行政訴訟を起こした。
1)平成22年2月19日付で国が認可した「京成と北総間」および「京成と千葉ニュータウン鉄道間」の線路使用料認可の取消
→京成は北総の営業区間(高砂~印旛日医大間)の運賃・特急料金収入相当額を線路使用料として北総に支払うこと。北総は、成田新高速鉄道線の運行に要した経費を京成に支払うこと)。
2)平成10年9月4日付で国が北総に行った旅客運賃変更認可処分の無効確認
→国は、北総の旅客運賃額を適正原価・適正利潤の原則に基づく上限運賃の額に変更することを命ぜよ。
3)京成・成田空港線にかかわる上限運賃認可処分(平成22年2月19日)の取消。
国を相手取っての裁判ということもあってか、周囲のこちらを見る目が変わったことをいろいろな場面で感じさせられることが多くなった。
いちばん多く遭遇するのが、「大変なことを始めましたねぇ」という、一般的な好奇の目、感想である。私の周囲にいる(私自身もそうだが)普通の生活者からみると、国を相手に裁判を起こすなどという人間は、「大変なことをおっぱじめた」ということになるようだ。
その一方で、一般人とは違う、何らかの利害関係のあると思われるグループの、こちらを見る目が変わったと思わせる場面にも時々遭遇する。こちらは、行政や地域政治に関わっている人たちであり、彼らにとっては、①地域のリーダーとして自分(たち)が取り組んでいる(ふりをしている)テーマ(北総線の高運賃是正)に、ワキから素人が、自分たちよりも目立つ形でしゃしゃり出てくるのが気にくわない、②北総線の高運賃是正のために、自分たちは何とか北総や京成のご機嫌をとりながら、コトを丸くおさめつつ問題を解決しようとしているのに、裁判沙汰に訴えるとは何事か、自分たちの努力を台無しにしかねないではないかという苛立ち、などなどの気配が強く感じられる。
こちらとしては、そういう地域のリーダーたちが営々と交渉を重ねても一向にラチが開かないようだから、いっそ裁判に訴え、公開の場で白黒をつけようという理屈だが、リーダーたちにとっては、こういう行動にわれわれが出ることによって、自分たちの存在理由を揺るがせられることを心配する気持ちが先に立つようだ。本当は、住民が裁判にまで訴えているということを、相手との交渉での一種の「追い風」として利用し、「ほら、京成さん、住民もこんなに怒っているのだから、少しは考えたらどうですか」と、交渉相手にプレッシャーをかけるくらいのハラがないと、交渉もうまくいかないのだが。
ということで、ここではカネも力もない住民が行政訴訟を起こして問題の解決に取り組むということはどういうことなのか、考えていきたい。
最初に、率直な感想というか、最も基本的な考え方を言っておくと、私自身は、住民が国などの統治機関を訴えて裁判を起こすことを、それほど「大変なこと」などと思っていない。また、これが身近な首長や議会といった地域のリーダーの「カオ」をつぶすことだとも思っていない。
「裁判に訴えることは、法治国家である日本国民としての最も重要な権利の一つ」ということを、非常に素直に、言葉通りに受け止めている。
そう、裁判はわれわれ国民一人ひとりに「普通に」認められている権利なのであって、特別なことでも何でもないのだ。自分や家族、自分の住むコミュニティなどにとって重要なことで、どうしても納得できない矛盾のようなものが存在したら、それを取り除くために裁判を起こすことは、権利として公式に認められているのである。
もちろん、権利として認められているのは、裁判ばかりではない。自分の意見をいろいろな場で表明する権利、それを議員や首長、行政機関などに訴えたり、陳情する権利、自分と同じ考え方の人を集めて、社会的な運動や活動を展開する権利等々、さまざまなやり方が、社会の秩序とか公序良俗を乱さない限り認められているのであり、裁判を起こすのは、それらのうちの一つにすぎない。
それらのうちの一つにすぎないが、裁判はそれらの中でも、最も重要な、基本的な権利、最も尊重されるべき権利だと思う。
なぜならば、上記にあげたさまざまな権利の場合、それを行使する方法、形はさまざまなバリエーションや創意工夫の余地があり、ルールは必ずしも一定でない。行使のしかたによっては副作用というか、社会的に好ましくない影響や反作用を引き起こす場合がある。
これに対して、裁判というのは終始厳しいルールが存在する。訴える方も、訴えられる方も、そして両者の訴えを裁く側も、厳格なルールに則って、最大限自分の考えや利益を主張する。もちろん、結果は自分にとって好ましいものとなるとは限らないが、大事なことは、裁判が終始厳格なルールに基づいて運営されるということである。
厳格なルールに則って運営される国民の権利という点でいえば、裁判によく似たケースとして、選挙があげられる。また、選挙で選ばれた首長などが住民の信を失った場合に行われるリコールも「もう一つの選挙」という点で、裁判に似ている。
そして、私は今回の北総線値下げ裁判に関わる直前、本埜村長のリコールに関わっていた。
リコールも、裁判も、「普通の」人たちからすると、「大変なこと」「すごいこと」の極致にみえるらしいが、考えてみると、どちらも民主主義社会、法治国家で、国民(有権者)に認められた「最後にして神聖な権利」にほかならない。
本埜村でのリコールを間近に観察し、折にふれて自分の主宰する新聞でリコールの動きを紹介し、論評していく中で、私はこの「神聖な権利」ということを身をもって感得した(同リコールの顛末については「村政暴走もとの」を参照)。
当時、本埜村では印西市、印旛村との合併協議が本格化するなかで、「早期合併」の公約を掲げて当選した村長が、合併に否定的な言動を繰り返し、遂には村民と議会の信を完全に失い、議会は不信任、村民はリコール運動を展開していった。こうした動きに、村長は不信任決議が採択されるのを避けるために議会の召集を拒否するなど、さまざまなルール違反、村政の空白状態を招いた。
小紙は、こうした状況の中での不信任、リコールの動きを支持し、村長批判の論陣を張っていたが、当初は、これだけのルール違反、不規則言動を繰り返す村長に対しては、いくら何でも国や県が何とかするのだろうと考えていた。あるいは、いざとなれば住民訴訟などで村長に対抗する方法があるのだろうと漠然と思っていた。
しかし、いろいろな勉強をしたり、情報を集めてみると、このような異常事態の中で、首長の異常言動を止めたり、正常化に向けて首長を領導することは、国も県もできない、国などができるのはせいぜいが「勧告」程度の話であり、首長が拒否したり、無視すれば、どうにもできないということがわかってきた。住民が村長を訴えて裁判を起こすとしても、首長を裁く判決が出るまでに時間がかかり、その間に合併協議のタイムリミットが来てしまい、合併は破綻、結果として村長の思う壺になるだけ。
いざとなると、首長は絶大な権力をもつ。明確な刑事事件でも起こさない限り、首長の行動に強制的な枠をはめることは国にも県にもできない。本人が辞めると言わない限り、誰も彼をその職から引きずりおろすことはできない。
そこまでいって初めてわかったのは、首長がそんな強力な権力をもっていて、誰からも制約を受けないのは、彼が選挙で選ばれた存在だからだということだった。民主主義では、選挙が最も重要な意味をもつ。いったん選挙で選ばれた首長の行動に、国も県もタガをはめられないのは、まさに民主主義の原理原則に基づいているのである。
選挙で選ばれた首長が、選んだ住民(有権者)の意思に背き、住民の信を失った場合、彼を諫め、権力の座から引きずりおろすことができるのは、かつて彼を選んだ住民(有権者)だけなのだ。選挙で選ばれた権力者に対抗できる権力を、選んだ有権者にだけ与えている、それが、民主主義の最も基本的で本質的な原理なのだということを、多くの本埜村民は(そして私も)、あの大混乱の中で思い知るのである。
リコールに立ち上がった本埜村民は、公職選挙と同様、リコールを規定するさまざまな厳格なルールに直面するが、それを一つ一つクリアし、見事村長失職にまでこぎつける。
住民(有権者)が選んだ権力者の首を取ることができるのは、住民(有権者)だけという、選挙権およびリコール権は、まことに住民に与えられている「最後の神聖な権利」だということ、そして「神聖」なだけに、この権利を行使するには、厳格なルールという巨大な壁があり、それを乗り越えなければこの権利は行使できない、それゆえに「神聖」なのだということを、本埜村長リコールの一部始終を観察して実感させてもらった。
裁判もリコールも、われわれ一般の国民に与えられた「最後の神聖な権利」であるが、神聖ではあっても、それは特別なものではない。それは、民主主義、法治主義の基礎であって、これが揺らぐとき、われわれの社会は崩壊する。