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北総線値下げ裁判のこと(2)―裁判も首長リコールも最も基本的な住民の権利

2011年10月20日 木曜日

前項(10月12日)で、私自身が過去3年程度の間に相次いで経験した2つの出来事―首長リコールと住民訴訟―の共通項から、住民が国を相手取って裁判を起こすことは何ら特別なことではなく、住民運動がとりうる戦術としては最も「レギュラー」(正統的)なものであることを主張した。

首長リコールにしろ住民訴訟にしろ、憲法や地方自治法に明文化された住民(国民)の権利であり、現代の代議制民主主義の根幹を成す基本プロセス、手続きなのであって、これを特別視するのは、民主主義以前の封建主義的な思想の残滓を引きずっているにすぎない。

憲法や地方自治法といった、最も基幹的な法律に明文化されているということは、現代の民主主義社会の設計者が、十分そのような事態を想定し、その上でそれを遂行するに当たってのプロセスやルールもまた、かなり厳格に規定していることを意味する。

民主主義だろうと何主義だろうと、社会、共同体、国家というものは、必ず何らかの「統治」のシステムを必要とする。統治する者と統治される者との間の緊張関係をどのように管理し、規定していくかによって、その社会の性格や有り様が決まってくる。

首長のリコールに関して言えば、ひとたび選挙によって選ばれた首長は、その職にある限り、できるだけ他(の行政機関、司法等)からの干渉を受けない、独自の権力の保持と行使を保証される。首長が誤った権力の行使をしていると判断された場合は、彼を選挙で選んだ有権者が、彼をその職から放逐するしかない。最終的に首長の権力に対抗しうるのは、首長を選挙で選んだ住民(有権者)だけ―これが民主主義の根本原理なのだ。

行政裁判も同じである。

住民の生活や基本的な社会的権利に関して、行政のあり方が十分でない、あるいは不当に生活等を侵害していると考えた住民は、司法の場で行政のあり方を正面から問う、基本的な権利がある。行政のあり方は、日常的には行政同士の連絡や協議によって、不断に調整されているはずであるが、住民からみて、それが耐え難く不満足なものである場合には、住民自らがチェックや調整に乗り出すことが認められているのである。

但し、首長リコールも、住民訴訟も、極めて厳格な(ある意味では窮屈で面妖な)ルール、手続きが定められており、これらの手段行使に立ち上がった住民にとっては、権利の行使が思い通りに進められるわけではない。

民主主義社会は、住民(国民)に「反抗権」「(行政等への)対抗権力の行使」を認めているが、住民の権力と行政や首長の権力とがぶつかり合う「土俵」においては、相互の立ち居振る舞い、ルールを厳しく設定していて、それらはしばしば住民側にとって不利であったり、ルールの運用のところで不利に働いたりする。

しかし、厳格なルールが存在することで、行政や首長の権力と住民の権力とのバランスをとろうとする、どちらの権力にとっても、権力行使の行き過ぎや副作用を防ごうとする、民主主義社会の設計者の意図を読みとるべきだろう。どんな社会も完璧な社会というものはなく、現代の民主主義社会もその例外ではないが、少なくともこのような住民の「反抗権」「(行政等への)対抗権力の行使」が組み込まれていることを、われわれはきちんと評価し、時に応じてそうしたものを活用していくのが正しいのではないだろうか。