2010年5月 のアーカイブ

北総線裁判で記者会見

2010年5月26日 水曜日

本日午後3時から印西市中央公民館で北総線運賃値下げ裁判の記者会見を開きました。会見には、10社を超える報道機関と、裁判闘争に参加する意思をもつ地元の議員、住民ら約20名が参加、これまでの経緯、裁判で主張する点、裁判を含む今後の取り組みについてご説明しました。

訴訟でわれわれは、①「事業の適正な運営」(鉄道事業法15条3項)が確保された線路使用料を京成電鉄が支払うことになっているのか、②成田空港線の運賃が「適正原価、適正利潤」(同16条2項」になっているのか、③北総線の運賃が「特定の旅客に対し不当な差別的取り扱いをしていないか(同16条5項1号)などを問うていくものです。

より具体的には、今年2月に国土交通省が行った「線路使用料」および「新型スカイライナー運賃」についての認可は違法なのではないか、また北総鉄道の運賃の値下げを求める「変更命令」を国に求めることなどが主なものになると思います。

本日の記者会見では、こうした裁判の主な争点とともに、北総線の高運賃がこの地域のまちづくりを阻害し、大きなネックとなっている現状、今回のスカイライナー運賃の決め方がきわめて理不尽なものであること等が、同席した議員や住民から口々に表明されました。

今後、6月19日に白井、NT中央、牧の原の各駅圏で住民への説明と参加を呼びかける集会を開催し、原告を募集、またこの裁判闘争への参加、協力を訴えていきます。

提訴は、スカイライナーが一番電車を走らせる7月17日の前日、16日に行い、成田新高速鉄道の開業がこの地域の住民の声を無視した、この地域として必ずしも心から祝福することができない、見切り発車であることを、強くアピールする形で、裁判闘争が始まることとなります。

北総線運賃問題で訴訟を

2010年5月24日 月曜日

今朝の朝日新聞「ちば」版に載っていますが、いよいよ北総線の高額運賃問題が法廷の場で争われます。

本紙に「北総線高額運賃の研究」なる記事を書いていく中で、「これは裁判で決着するしかない問題ではないか」と感じ続けてきました。もちろん、裁判には裁判の限界というか、何もかも法廷ですっきりいくというものでもないでしょうが、要するに北総鉄道の問題は現在、国、県、京成、北総という、一種の「利益共同体」の中で処理されてしまい、沿線地域の人たちの苦しみ、高運賃ゆえに進まないまちづくりといった問題がほとんど顧みられることなく、今回の「5%値下げ合意」に見られるように、一見「解決」らしい提案も、彼らの利害に抵触しない範囲で考えられているに過ぎない、そのような現状だと思います。

北総鉄道はこれまで、運賃値下げを求める沿線住民に対して、「2期線など、過去に投じた線路敷設費に伴う巨額負債があるので、一切値下げなどできない」と繰り返してきたのに、親会社が運行する成田新高速鉄道については、その巨額負債が残っている線路を「タダ乗り」させる、つまり巨額負債の返済は、沿線住民の払う高額運賃だけでこれからもやっていく方針を明確にしています。県が印西、白井など沿線6市に押し付けてきている「5%値下げ合意」なるものは、まさにこうした方針を永続化させるものであり、北総の抱える負債は沿線住民が払う高額運賃か、さもなければ沿線自治体による補助金(税金投入)で消化していく、京成は一切の負担から解放され、成田新高速(都心と成田空港を36分で結ぶとともに、成田と羽田を直通させ、途中品川でJR東海とも結ばれる)という将来性のある事業に邁進させるというシナリオどおりに、「決着」を試みたのが「5%値下げ合意」であると考えられます。

裁判となると、これから長い時間、多くの人たちの参加、費用負担も大変なことを覚悟しなければなりませんが、それでもこの問題を、国交省、千葉県、京成、北総という「身内」だけの好き勝手に任せておくわけにはいきません。京成、北総という会社の役員構成をみると、①京成と北総は完全に一体の組織であり、都合の悪い時だけ、あたかも別個の独立した企業であるかのごとく装っている、②両者には、旧運輸省およびその外郭団体等からの「天下り」役員が多くみられる、といったことがわかります。

国、県、京成、北総という「惑星直列による重力の均衡」状態に対して、法廷という別の「天体」をぶつけることによって、重力の均衡をぶっ壊し、新しい「宇宙空間」を創り出す必要があります。

北総線の高額運賃問題は、「ちばにう」地域のまちづくりにとって最大のネック、隘路となっています。平成25年度に千葉ニュータウン事業が収束した後、印西や白井が本当にこの高度に整備されたインフラを維持し、さらなる発展したまちづくりを進めていけるかは、現時点で北総運賃問題をどのように扱い、どのように独自の取り組みができるかが「試金石」となると思います。

白井市議会が「5%値下げ合意」を破棄した、けしからんなどといって、「井戸の中のどぶさらい」をしている場合ではない。これまで行政や議会がどんなポンツクでも、まちづくりのほとんどはURがやってくれましたが、これからはそうはいかないのです。運賃問題に独自の取り組みができない行政や議会、首長や議員には早々に退場してもらった方がよいと思います。

焚き火のけむり(3)

2010年5月13日 木曜日

このブログは、別にダイオキシン騒ぎのせいで焚き火ができなくなったことに恨み辛みを述べる目的で立ち上げたものではありません。

焚き火に限らず、ある一つの危険性、健康や環境への悪影響といった問題だけ取り上げ、ひとつの社会運動あるいは熱狂的な風潮にまで盛り上げる最近の傾向が、別の意味で非常に危うい側面を見せ、社会全体の劣化を招いているのではないかという危惧を感じています。

一例を挙げるならば、「喫煙」に対する世間の態度です。最近、公共施設の多くが「分煙」から「全面禁煙」へと向かい、また自治体によっては、管内のすべての公共施設や飲食店などを「全面禁煙」とする条例を施行するなどの動きが出ています。

私自身は、10年くらい前にそれまでのヘビースモーカー状態から、タバコとは完全に縁を切り、いまでは近くでタバコを吸われると、やはり苦痛を感じるようになりました。だから、タバコ吸いと同じ部屋で過ごすのはご免ですが、それでも「分煙」、どこか少し離れたところで吸ってもらう分には全く意に介しません。健康に悪いといっても、本人が承知で吸っているのだし、生涯片時もタバコを手放さず、それで長寿を全うした人もいるのだから、個人差もあるのでしょう。

何よりも、最近の「全面禁煙」風潮には、世間には自分と違う、いろいろな人が生きていることへの理解度、寛容度が、社会全体として著しく劣化してきているように思えます。自分はタバコを吸わないから、タバコを吸う人のことなど考える必要はない。専門家が、タバコは健康に悪いと言っているのだから、世界中の人すべてが禁煙するのが理想であり、それ以外のことを考える必要はない、といった風潮が強まっているのではないか。

こうした風潮は、おそらく1970年代頃から盛り上がりをみせるようになった「シングル・イシュー・ムーブメント」の影響が強く働いているのではないかと思われます。原子力発電所は危険ということで、反原発運動が世界各地で盛り上がったり、地域社会の中でもゴミ処理場、火葬場その他の「迷惑施設」ができそうになると、一斉に反対運動が起こる。「シングル・イシュー」(特定の問題)に絞ってそれを葬り去ることだけを目的にした、反対運動や政治運動を繰り広げる傾向は、一面では住民の権利意識や自治意識の現れという肯定的な評価を与えられますが、一方では「シングル・イシュー」だけが最優先課題として取り上げられ、それ以外の問題が置き去りにされるきらいがあります。

危険な原発は作らせない、その限りでの危険性はなくなったが、ではますます需要が高まるエネルギー源をどう確保するのか、社会の生産活動、快適な生活環境、治安等々はどう確保されるのかという問題が置き去りにされるならば、社会全体としてはだんだん悪い方向へ落ち込んでいく可能性があると思います。

最近の「禁煙」志向にしても、たしかにそれによってタバコによる健康被害は相当程度減じることができるかもしれないが、一方で過度の「禁煙」志向によって、社会全体で見れば失われてきているものも相当多いように思います。

焚き火のけむり(2)

2010年5月12日 水曜日

ダイオキシン騒ぎの後、焚き火が何となく白い目で見られるようになったのは、非常に曖昧なことが根拠となって、一つの趣味とか風習が社会的に葬り去られてしまう(それも、行き過ぎた形で)、最近の風潮を象徴しているような話だと思います。

印西牧の原駅圏が今のように大型商業施設で賑わうようになる前、このあたりは一面の草原で、人の背丈よりも高い草が生い茂り、見通しの悪さから治安にも悪影響が心配されるほどでした。その頃都市公団(UR)の人に「もう少し草を伐採できないのか」聞いたことがあります。URの説明では、草を刈った後、以前ならそこで適当に燃やして処理できたのが、ダイオキシン騒ぎ以来これができなくなり、草を刈るコスト以上に、苅った後の草を処理するコストの方が大変なので、予算の関係でなかなか草を刈れないとのことでした。

火を燃やすと、ダイオキシンが発生するというのは確かなのでしょうが、発生したダイオキシンがどんな悪影響を人体や環境に及ぼすのかは、大騒ぎしていた当時もよくわかっていなかったではなかったかと思います。火を燃やす→ダイオキシンが発生する→発ガンなどの危険が高まるという因果関係がそれほどはっきり存在するのであれば、昔から人類は囲炉裏や暖炉、あるいは煮炊きなどに、現代人以上に盛んに火を燃やし、火のそばで生活してきた、それでも人類のほとんどがガンで死んできたわけではないことをどう説明するのか。

当時、ある専門家から、ダイオキシンが人体に及ぼした影響で、科学的にはっきりしているのは、ある被験者の顔にニキビができたことだけだという話も聞きました。マスコミなどが騒ぐことによってダイオキシン=危険物質というイメージがどんどんふくらんでいることの悪影響の方がはるかに大きいというのが、この専門家の見立てだったように記憶しています。

ダイオキシンの害として、どんなものがどの程度危険なのか、そうでないのか、私にはわかりませんが、危険性についてさまざまな議論、見立てがある中で、一方の議論、見立てだけに沿って、火を燃やすこと自体が白眼視されてきたのは、全体のバランスを欠いた風潮だと思います。こうした風潮は、焚き火だけにとどまらず、最近ではこのような行き過ぎた議論、特定のものを白眼視し、排斥してしまう傾向はこわいと思います。

焚き火のけむり

2010年5月11日 火曜日

このHPのリニューアルで全面的にお世話になっている「dachs飼主」さんに、ブログの開設でもお世話になりましたが、おかげさまで本日新規投稿ができることとなりました。dachs飼主さん、本当にありがとうございます。

このブログでは、本紙の補完機能というか、本紙では紙面の制約その他でなかなか書ききれないことや、紙面で取り上げる話題をちょっと別の角度からみたり、あるいはいずれ紙面でとりあげるまでの「習作」「下書き」のような形等々、いろいろと書いていきたいと思っています。

ブログのタイトルとして「焚き火のけむり」を考えています。

私は焚き火が好きで、薪が燃えて真っ赤に熾った炭、それを背景に火がちょろちょろと燃えているのをみると、何ともいえず心が温まる感じがして、いつまでも火のそばを離れようとはしません。

しかし、最近では、ダイオキシン騒動やら、灰や煙が流れるのをご近所の奥様方から嫌われるなど、焚き火もまた、文明社会での「嫌われ者」、住宅地ではもちろん、ニュータウンの外の里山のようなところを歩いていても、以前と比べて焚き火を目にすることは少なくなりました。

以前、東京で働いていた頃、職場の同僚に「焚き火が好きだ、火がチロチロと燃えるのをみていると気が休まる」と言ったら、「放火犯のDNAがあるのでは?」と混ぜっ返されたことがあります。焚き火と火事の火とでは、同じ火といっても、天と地ほどの違いがあるのですが、そんなことは同僚の関心の外だったようです。

これから、このブログで、「焚き火」を一つのキーワードにして、環境問題への関心その他、いろいろな社会的事象について、自分なりの切り口で取り上げていきたいと思っています。