民主主義の基本中の基本は、「国民(有権者)には、選挙権がある(首長や地方および国政の議員を選ぶことができる)」「選ばれた議員や首長は、国民に代わって政治を運営することができる」ということにつきる。要するに、「選挙」があらゆる議論の出発点であり、ゴールだということだ。
選挙によって選ばれた者は、予め定められた「任期」が来るまで、国民の代表として、国民に代わって政治を行い(権力を行使し)、その持てる権力の行使について制限を受けない。
もちろん、首長は議会からチェックされ、議会の同意なしには政策を実施できないし、有権者にあまりに不人気な政策を実施、もしくは多数の有権者が熱心に求める政策を不実施すると、次の選挙で選ばれなくなる可能性があるから、議会や有権者に理解してもらうための「妥協」はありうる。
しかし、不人気をものともしない首長が、国民の利益を損なう政策や行為を行った場合、この首長を止められる者は誰もいない。
本埜村の場合、選挙で合併を公約した村長が、合併よりも自分の身分(村長)の保全を優先していることが、時間の経過とともに明らかになった。それに対して、議会は村長の辞職勧告決議を可決するが、法的な強制力のない決議を、当然のこととして村長は無視する。その後世論の高まりにつれて、村民の間でリコールの動きが出てくるとともに、議会は不信任決議で村長を辞めさせようとする。と、村長は議会を開会しないという挙に出た。
議会の開会を求める議員や住民の動きに対して、議会を開けば不信任を突きつけられることを知っている村長は、議会を開かないという違法行為で対抗したわけだ。もちろん、これに対して県からは議会を開会するよう「勧告」が出されるが、これにも法的強制力はない。
ひとたび選挙で選ばれた首長は、かくも明確で強大な権力を保証され、その権力は何人からも制約を受けることはないのである。それが、民主主義の骨格なのである。
こうした経過の中で、一つはっきりしたことがある。
首長にこのような強大な権力を与えているのは、住民(有権者)から選ばれたという事実であり、したがって首長の権力に対抗できるのは、唯一住民(有権者)だけだということ、しかもその住民の権力は選挙権(リコール権)を行使することによってのみ発揮できるという冷厳な事実であった。
かくして始まった住民のリコール要求は、法律で定められたいくつかの厳しい条件をクリアしながら、粛々と進められ、ついに村長から一切の権力を剥奪することに成功した。
民主主義の原則は、首長に明確で強大な権力を与えている。しかし、それは住民(有権者)が彼を首長に選んだという事実が唯一の根拠となっているのであって、首長の「剥き出しの権力」に対抗できるのは、国民(有権者)がリコール権という「剥き出しの権力」を行使することによってのみなのである。
民主主義の骨格は、選挙で選ばれた者に保証される強大な権力と、選挙権を行使することができる住民(有権者)の権力とでバランスさせる、いざという時には二つの権力が互いに全力で戦って決着をつける形を想定しているのである。
本埜村長リコール運動の直前、合併を求める住民の圧倒的な意思を「署名」で集めて、それを村長に突きつけるという運動も出てきた。しかし、案の定、住民の8割以上が署名した訴えを突きつけられても、村長はびくともしなかった。こうした状況において、署名だの請願、陳情といった、聞く耳を持たない相手との「交渉」は一切役に立たない。
世間体、不動人気を気にせず、剥き出しの権力を行使している相手に対しては、彼を権力者として選んだ者が、こちらも剥き出しの権力を使って、引きずりおろすしか手はないのである。それだけが、民主主義の冷厳な原則なのである。
* 本埜村長リコール運動の下で進められた印西市、印旛村、本埜村の合併については、こちら(http://chiba-newtown.jp/Gappei/Gappei2ndDX.htm)を参照のこと。