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首長リコールから行政訴訟へ

2011年12月24日 土曜日

本埜村長リコールからしばらくして、北総線高運賃をめぐる行政訴訟が提訴され、ひょんなことから裁判の会の代表を務めることになった。

首長のリコール運動を間近で観察してから、行政訴訟を自分で手がけるようになる中で、ふだん平気で使っている「住民」とか「利用者」(消費者)といった言葉の深い意味(それらの言葉に込められた社会的な仕組みや有り様)が意識されるようになった。

村長リコールの時は、自分への不信任案がかかることが確実となった議会の開催を拒否し続ける村長に対して、当初「いくら何でも、地方自治法に明記されている議会の開催を首長が拒否した場合には、国とか県が乗り出して何とかするのだろう」とか「そうした状態には、住民が首長を訴えることも可能なのでは」といったことを皆が考えた。

しかし、ことはそう簡単ではなかった。

地方自治法に明記してある議会の開催義務を首長が拒否するというのは、明確な法律違反状態ではあるが、これに対して国や県が何ができるかといえば、「勧告」程度のことにとどまり、首長に対して強制的に議会を開かせる等の力は国も県ももっていないのである。

首長といえば、住民から直接選挙で選ばれ、任期中はよほどのことがない限り、住民から託された職務を(他から邪魔されずに)遂行する権限、権力をもっている。これが、民主主義の大原則であり、これに国や県が介入するのは、この民主主義の大原則に反するものであり、選挙で選ばれてもいない国や県の官僚などにできる道理がない。

考えてみれば、当然のことである。

また、住民が首長を訴えるといっても、住民とは誰のことなのか、訴えた住民と異なった意見をもった住民は住民ではないのかなど、直ちに難しい問題が起こる。

結局、首長のこの強大にして侵すべからざる権力は何に基づいているかといえば、住民(有権者)が彼を選挙で選んだという事実に遡る。

だとすれば、首長が法に背いて議会の開会を拒否し続けるという行為を辞めさせることができるのは、彼を首長に選んだ有権者が、彼を首長の座から引きずり下ろす(リコール)以外にない。

首長に権力を与えるのも、首長から権力を奪うのも、有権者以外にないのである。

以上のことを経験した後で、北総線の高運賃をめぐる行政訴訟に関わるようになってみると、再び「住民」の立場について、かなり突き詰めて考えざるをえない状況に置かれていることに気づく。

行政訴訟では、住民(鉄道の利用者)は、まず原告の適格性を問われる。

被告である国の主張では、鉄道事業法というのは、鉄道事業者が適切な事業運営を行っていく環境づくりについて規制しているもので、そこでは個々の利用者の利益についてまで考慮しない。一般的な利用者の利益については、鉄道事業者が適切な事業運営を行うならば、そこから「反射的利益」が得られるという意味合いにとどまるということのようだ。

鉄道の利用者(乗客)が高運賃の是正を求めて、国に対して鉄道事業者間の不適切な契約をチェックするよう要求したり、自分たちの納得のいく運賃体系を求めて裁判に訴えるといった行為の正当性をそもそも認めていないらしい。

これは、主として乱訴を防ぐという意味で、それなりの根拠、正当性は認めざるを得ない面がある。鉄道の利用者、あるいは商品やサービスの消費者が、ちょっとしたことで不利益を蒙ったと感じ、その度に裁判に訴えていたら、そしてそのような訴える権利を一々認めなければならないとしたら、裁判合戦のような有様になってしまう。だから、ある特定の案件で裁判を起こした者が、裁判の結果どのような利益(不利益)を受けるか、その案件で利害関係者といえるかどうかの「原告適格性」が問われることになる。

だから、「原告適格」のハードルが存在すること自体は、法治国家に住む一員として認めなければならない。

しかし、北総線の高運賃問題においては、訴状等でわれわれが訴えているとおり、沿線住民がずっと高運賃を強いられ、北総線という鉄道自体が、沿線の利用者が払ってきた高運賃で維持されてきた経緯、そして昨年7月の成田スカイライナーの開通によっても、この高運賃は下がらなかったばかりか、高運賃で維持されている線路の上を、京成はスカイライナーを「ただ乗り」同然で走らせているという状況の不当さを訴えた沿線の利用者が「利害関係者」であることを否定されたり、原告の適格性を疑問視される事態に対しては、こちらも大きなエネルギーを傾けて抵抗せざるを得ない 。

首長リコールの際には、住民(有権者)だけが首長に権力を与えることも、奪うこともできる存在であったのに対して、行政訴訟の分野では住民(鉄道の利用者)は何とも頼りない、浮き草のような存在に位置づけられている、というか、そもそも鉄道事業法では個々の利用者は如何様にも位置づけられていない、ただただ鉄道事業者が適切な鉄道事業の運営を行った後に、快適な鉄道サービスを享受する客体(どこぞの馬の骨)でしかないことになる。

それならそれでこちらも言い方を変えねばならない。

鉄道の利用者が単なる馬の骨だというなら、馬の骨に迷惑をかけないように鉄道事業者はもっと高いモラルと責任感をもって、完璧な鉄道事業をやってもらいたい。どこぞの馬の骨などに発言権はないと言うのなら、ではその馬の骨が支払う高額運賃でずっと会社を支えてきてもらったのはどこのどいつだ。馬の骨が支えてきた北総線の線路を使って、成田スカイライナーを走らせている(しかもただ乗りで)のは、どこの貴族、いやどこの盗っ人だ。