(平成14年掲載分)

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<1>オコト(獅子舞) <2>龍湖寺の絵馬 <3>幻の掩体壕 <4>天王さま <5>大馬鹿まがり道 <6>印西の旧石器人 <7>秋祭り・神楽 <8>木下貝層 <9>除夜の鐘


第一回 オコト(獅子舞)

 オコトは「御事始め」が詰まった言葉で、稲作を生業とする農村で最も大事な御事は種を蒔く事、田に稲苗を植える事に由来する。

 「神武天皇祭」と習合して四月三日にオコトを祝う村落は籾蒔きに豊穣を願い、四月の終わりから五月初めにオコトを催す村落は田植の作業に豊作を託した。

 村人は鎮守の社に集い、「御事始め」に始まる一年の農作業の平穏な展開を祈願し、饗宴をともにした。

 この春祭「オコト」に獅子舞を奉納する神事を今に伝えている神社がある。

 本埜村中根の八幡神社(四月第三日曜日)と印西市平岡の鳥見神社(五月三日)である。

 写真は平岡鳥見神社の獅子舞であるが、獅子(古来、鹿、猪などのけもの、あるいはその肉をシシ=獅子と言った)の頭(かしら・仮面)を鳥の羽で飾りたて上半身は黒、下半身は赤、青、黄色等の原色の布で着飾ったジジ(親獅子)、カカ(母獅子)、セナ(若獅子)の三頭が腹に抱えた小太鼓を叩きながら、笛に合わせて勇壮に乱舞し、祭りに馳せ参じた近郷近在の人々の心を鼓舞するのである。

 日本の農村の最も近い森に棲息した鹿を精霊化したジジ、カカ、セナの三頭の舞は五穀豊穣の祈りだけでなく、その所作から生殖・子孫繁栄の願いも込められていることがわかる。

(月刊 千葉ニュータウン2002.4.13)


第2回 龍湖寺の絵馬

 小林牧場の事務所の前から真っ直ぐ東に向かって凡そ十五分歩き坂を下ると、左手に「少林山龍湖寺」が現れる(本埜村物木)。

 「龍湖寺」は寺伝に「賛元禅師が救世安民のため、安産子育の大請願を起こし、建久二年(一一九一)に創建された」とある古刹で、古くから安産・子育に霊験ある寺院として近郷近在の信仰を集めた。

 本堂左側の「開山堂」に写真のような十枚の大絵馬が掛けられている。何れも賛元禅師に向かって手を合わせ祈っている女性の姿が描かれ、奉納した信者の名前が書かれている。

 「女人講中二十人」とあれば二十人の名前と二十人の女性の姿が描かれ、十七人とあれば十七人の名前と女性が描かれている。

 奉納された時代は文政十二年(一八二九)から明治二十二年の間である。また講中は我孫子市、印西市、本埜村、印旛村、成田市、栄町に及び、信仰の広がりを示している。

 特記されることは、絵師が信者をモデルとして記念写真風に描いていることである。例えば河岸場として町場化していた「安食村出嶋町女人中」が奉納した絵馬(写真)の女性は髪形、着物、顔つきまで、明らかに他の絵馬に描かれた農村の女性に比べて「あか抜け」しているのである。

 江戸時代末期の農村の風俗と信仰の形を今日に伝える、貴重な資料である。

(月刊 千葉ニュータウン2002.5.11)


第3回 幻の掩体壕(えんたいごう)

 千葉ニュータウンの印西市西の原地区南側の直線道路に並行する「生活道路」を真っ直ぐ東に向かうと草原に行き当たり、「立入禁止」の標識と条柵に行く手を阻まれる。

 目を凝らすと正面凡そ一〇〇b前方に、幅三〇b、高さ二〜三bの小高い盛り土がみえる。さらによく見ると、底部三bくらいの幅の馬蹄型の土手である。

 これは太平洋戦争末期に戦闘機を米軍の攻撃から隠すために使われた施設「掩体壕」である。土手の上に木や竹を、枝や葉を付けたまま立てて覆い上空から偵察されないように考えられた軍事施設であった。

 いま西の原中学校のある辺りは、太平洋戦争の終盤首都を守るために設置された「印旛飛行場」の中心となる施設が建てられていた。

 当初は逓信省の所管となる「航空機乗員養成所」として発足した小規模な飛行場であったが、太平洋戦争の激化によって軍の飛行場に組み入れられ、昭和一八年から始まった拡張工事により、最終的には二〇〇〇bの滑走路三面、兵員三〇〇〇名、戦闘機二〇〇機を配置する大軍事施設となったが、当時の面影を残すのはこの掩体壕だけである。印西町石造物調査会がニュータウン造成に先立って行った調査によると、三六基が確認され、本埜村にも一〇基ほどあったといわれている。

(月刊 千葉ニュータウン2002.6.8)


第四回 天王さま

 七月十七日から京都では豪華絢爛な八坂神社の祭礼、祇園祭が繰り広げられるが、印西地方でも祇園祭が行われている。

 「祇園(ぎおん)」と呼ぶ土地もあるが、多くは「オタチ」や「天王さま」と呼ばれる行事である。「オタチ(お太刀」は、長さ三bから五b程の杉や松の木で造られ、太い注連縄を巻かれている。

 七月初めから中旬にかけて子供たちに担がれた太刀は八坂神社を出発して集落内の家々を廻り、庭で激しく揉み上げ、あるいは土間に打ちつけて悪霊や病魔を追い払う所作を繰りかえす。ワッショイ、ワッショイの掛け声とともに次のような歌が唄われた。

 「今年しゃ豊年穂に穂が咲いて、道の小草に米がなる、福の神舞い込め、福の神舞い込め」。

 京都八坂神社の祇園会が悪疫調伏を柱としているのに対して下総農村が「天王さま」によせる願いは豊年満作である。

 では、なぜ太刀を引回し、「天王さま」と言うのであろうか。「八坂神社」祭神は素盞鳴命(スサノウノミコト)である。その粗暴な性格の故に高天原を追われたが、出雲の国では八岐大蛇を退治して腹中から「天叢雲剣」を取り出し、農業神、暴風神、英雄神として信仰されてきた。

 素盞鳴命は別の名を「午頭天王」と言う。荒ぶれた神の象徴の太刀の力で悪霊、悪疫を追い払い、太地を清めて豊作を祈る夏祭が「天王さま」である。かつては印旛、手賀沼沿いの集落と利根川対岸の相馬郡、稲敷郡でも行われていたが、昔ながらの様式を伝えているのは龍腹寺八坂神社(七月十四日)と、印西市古新田(七月二十一日)の「天王さま」だけである。

(月刊 千葉ニュータウン2002.7.13)


第五回 大馬鹿まがり道

 有りそうで無い話、無さそうで有る話、いずれにしてもたわいのない、馬鹿々々しい作り話が、馬鹿噺とか民話として各地に伝えられている。

 今回は印西の「馬鹿噺」。

 馬鹿噺に登場する主人公は落語の世界で言うならちょっと足りない「与太郎」。

 さて、印西の与太郎、ある日主人から「鎌刈村(かまがり・印旛村)」へ使いに出された。道程は主人から念入りに教えられていたが、そこが与太郎、一時間もしないうちにすっかり忘れてしまった。畑仕事をしている人を見かけたので、鎌刈村への道を尋ねたところ「一丁ほど行ったところに庚申塔がある。鎌刈へ行く方角は石に書いてある」と教えられた。ところが、十分もしないうちに与太郎が舞い戻ってきて言った。

 「をうばかまがり道、と書いてあったが、私は大馬鹿ではないので、鎌刈へ行く他の道があったら教えてください。」と大真面目。

 「庚申塔(こうしんとう・これについては項を更めて述べる)」の多くは道標を兼ね、地名は平仮名のことが多い。この噺のモデルとなった庚申塔兼道標は実在していた。印西市高花から総武カントリークラブに通じる道をたどり、クラブハウス前から千二百メートル先の某家の屋敷裏にひっそりと建っている。 「をうばヨリかまがり道」と方角が刻まれているが、年古りて、写真でも拓本でもお目にかけられないのは残念である。「をうばヨリかまがり道」を漢字にすると「大馬鹿曲がり道」ではなく、「大廻(おおば・印旛村)ヨリ鎌刈道」である。

 「ヨリ」は彫りが浅く判読が難しいのは与太郎さんが見た時と今も同じである。

(月刊 千葉ニュータウン2002.8.10)


第六回 印西の旧石器人

 二○○○年十一月まで、日本列島には約六十万年前に旧石器を使用した原人が住んでいたと信じられていた。しかし、それを裏付ける遺跡の発掘調査が、考古学マニアの捏造であったことが発覚し、歴史が書き換えられた。

 旧石器時代はひとことで言うなら、打製石器を主に使い、狩猟・採集による生活をした時代で、日本では縄文時代が始まる約一万三千年前から三万五千年前を後期旧石器時代、それから凡そ十三万年前迄を中期旧石器時代、それ以前を前期旧石器時代と区分している。

 前期旧石器時代に日本列島に原人が生息していたことは否定されたが、中期旧石器時代以降の原人の存在は認められつつある。

 印西地方の台地に人類が姿を現したのは、海底の沈降や隆起が治まり、台地が安定した三万年程前のことと言われる。白井市復山谷、印西市木刈など数カ所から同時代の石器が発掘されている。平成十二年、本埜村滝の龍水寺裏の畑の中からほぼ同時代の重要な遺跡が姿を現した。ここからは約六百点の打製石器を中心とする旧石器が発掘されたが、約二万八千年前に造られた特徴を持っ「局部磨製石器」が含まれていて年代判定の鍵となった(写真左下)

 特筆されることは、これらの石器が二つの直径二十メートルもの「環状」となって発見されたことである。復山谷、木刈遺跡などは獲物を追って移動する家族単位のキャンプ地であると推定されているが、龍水寺裏遺跡は、数十人単位の旧石器人が集まり、輪になって石器を作り、狩りの作戦を練った場所であったのではないかと推定されている。

 数十人が集まって狩りをする対象は、絶滅期を迎えていた「ナウマンゾウ」説が有力である。

(月刊 千葉ニュータウン2002.9.14)


第七回秋祭り・神楽

 印西地方の秋祭りは十月十五日前後に行われる。十月は神無月で、村々の鎮守の神々は出雲へ出張中で、留守のうちに祭りとは不可解なことであるが、旧暦を踏襲して秋の収穫が一段落する十月中旬が選ばれたのであろう。天皇がその年の新穀を伊勢神宮に奉る祭り・神嘗祭の行われる十月十七日を秋祭りとする村落が多いのも、収穫の豊穣を喜び、感謝する祭りの意義に合致する。

 家々では新米で甘酒を作り、赤飯を炊いて氏神に捧げ、村の鎮守に集まって神事を行い酒食を共にする。

 この日、神に奉納するとともに、里人が一年の勤労の疲れを癒す芸能、獅子舞や神楽が演じられる。昔は多くの鎮守の森から聞こえてきたであろう笛や太鼓の音も、今残っているのは僅かなものになってしまった。

☆十月九日 八千代市村上・七百余所神社

☆十月十七日 沼南町塚崎・神明社、印西市浦部・鳥見神社、本埜村中根・鳥見神社

☆十一月三日 白井市富塚・鳥見神社

 いずれも十二演目からなる里神楽で、浦部の神楽が村上から伝えられたという伝承と、中根の神楽に用いられている面が宝暦元年(一七五一)の作であること以外、確かなことは不明である。

 演目や所作に多少の相違があるが、内容的にはほぼ同じであるといって良い。浦部・鳥見神社を例にとると、

巫女の舞 翁の舞 神明の舞
鈿女の舞 恵比寿の舞 鍛冶の舞
榊葉の舞 二匹天狐の舞 玉取りの舞
大蛇の舞 天の岩戸の舞 火男の舞

 いずれも神話に題材をとり、農耕生活を反映した祈りと感謝を込めた、ある舞である。

(月刊 千葉ニュータウン2002.10.12)


第八回 木下貝層

 印旛高等学校の入口右側の崖にある千葉県指定天然記念物「木下貝層」が平成十四年三月、国指定天然記念物に指定替えされた。

この貝層について、印西市教育委員会は次のような説明板を立てている。

 「この貝層は、印西市木下で最初に調べられたのでこの名前があります。千葉県北部から茨城県南部あたりに広く分布しています。木下貝層は約十二〜十三万年前の地層です。その頃の関東平野は、「古東京湾」と呼ばれる大きな海が広がっていました。

印西市周辺も古東京湾の一部で、その海の波や潮の流れによって貝殻が集められ地層となったのが木下貝層です。ここに見られる貝化石で多いものは、バカガイ、ヒメアサリ、クサビザラガイ、タマキガイ、マメウラシマガイ、カシパンウニなどです。

これらの貝は今でも海岸や海岸よりちょっと沖合にみられるものです。したがって浅い海であったことがわかります。その後、古東京湾は、海面が下がったり陸地が上昇したりして、現在のような台地となっています。」

今では砂利採集や土地開発などによって、大森、発作、和泉、本埜村中根など多くの場所で観察できるが、この地点は古くから木下層を形成する貝層として研究・観察が行われてきた地質学上著名なものである。

 貝の蓄積の密度の高く固まったものは切り取られ、大森上宿では古墳の石室として使われ、小林道作などでは石棺に用いられている。そのほか石垣や灯籠、石祠になっているものもある。

 自然保護や土砂崩落による事故防止のため、観察の際は、教育委員会や土地所有者の指示を受けることが望まれる。

(月刊 千葉ニュータウン2005.11.9)


第九回 除夜の鐘

 大晦日最後のテレビ番組「行く年来る年」の定番は「除夜の鐘」である。

 「除夜の鐘」は、大晦日の十二時から寺院で梵鐘を一○八回撞くことで、仏教でいう一○八の煩悩を払い、新しい気持ちで新年を迎えようとする行事である。奈良や京の大寺院、有名寺院の鐘だけが除夜の鐘ではない。今年は耳を澄まして地元の鐘の音を聞き、あるいは鐘撞きに参加しては如何。

 今回は印西地方の名鐘案内。

龍水寺梵鐘(本埜村滝)
 千葉県指定有形文化財。建武五年(一三三八)八月八日に奉納された、県内でも屈指の古鐘である。この紀年銘によって、南北朝時代印西地方は北朝の支配下にあったことが確認できる。民衆の生活が平穏に続き、仏法の加護が遍く平等に行き亘ることを願うという趣旨の銘文が刻まれている。

長楽寺梵鐘(印西市大森)
 千葉県指定有形文化財。南北朝時代の応安二年(一三六九)に作られた。銘文の一部に「埴生西」とあり、当時印西地方は埴生郡の一部であったことが判る。表面に大きな疵があり、鐘に潜んだ妖怪を退治する時にできた疵だという伝承がある。

龍腹寺梵鐘(本埜村龍腹寺)
 千葉県指定有形文化財。印西荘龍腹寺の銘文があるが制作年代は書かれていない。しかし形式から南北朝期の制作と鑑定されている。
 第二次世界大戦末期、軍需物資調達のため江戸時代以降に制作の梵鐘は徴用されて鋳潰されてしまった。

 本埜村角田栄福寺、物木龍湖寺には鐘楼だけが寂しく残っている。戦後信者によって復興された、印旛村松虫寺、白井市七次長楽寺の鐘は新しいだけに豪快な音の響きと余韻が美しい。

(月刊 千葉ニュータウン2002.12.14)