印西風土記

(平成15年掲載分)

五十嵐行男

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<10>印西の節分 <11>乳房絵馬 <12>印西大師 <13>一人静・二人静 <14>五榜の掲示−最後の高札 <15>利根川圖志 <16>ヤハライボ <17>卜杭(ボックイ) <18>「印西」の歴史と地域 <19>風景入日付印 <20>今井の水塚


第十回 印西の節分

 芸能人やスポーッ選手が参加して行われる大寺院の「節分会」の豆まきは毎年賑やかに報道されるが、印西地方では古来伝承された「節分会」がひっそりと執り行われている。

 日本の四季は暦の上では立春、立夏、立秋、立冬と区切られ、それぞれの前日を「節分」としている。春の節分は「大寒」の日から数えて十五日日にあたる二月三日で、「冬」最後の日でもあり、「年越し」と呼んで、蕎麦を打って食べる家もある。農業に生きる者にとっての新春は暦の上での元旦ではなく、草木の芽が色づきはじめる二月初頭の節分であり、田畑の作業の始まることを意識する日であって、立夏など他の節分とは格別の祀られ方をされ ていたのである。

 この日大豆を焙烙(ホウロク、素焼きの大皿)で煎り、神棚に供え、日没のころ一家の主人や長男が、「福はうち、鬼はそと」と唱えながら家中の部屋と、氏神や屋敷神に撒いて歩く。家によって村の鎮守にお参りすることもある。そして無病息災を祈って年の数だけ豆を食べる。

 また、家の軒先や門に、目籠を竹竿に逆さに吊るして高く掲げ、柱には大豆の殻、イワシの頭、柊の葉(またはグミの枝)などを束ねておく。籠はたくさん目のある怪獣がいる、と鬼がびっくりして近づかないとも、かぶせて捕らえるぞ、という脅しのためとも言われている。イワシの頭は悪臭を放ち、柊やグミは刺があるために鬼が家に入れないだろう、というまじないであると言い伝えられている。

 籠や悪臭に逃げ出す意気地のない、かわいい鬼であるが、鬼は「福」と対極にある「悪霊」「悪疫」 「悪天」など、家や村落の平穏を脅かすシンボルと思われていたのである。

(写真)左・ひいらぎ・まめがら・イワシ、右・目籠

(月刊 千葉ニュータウン2003.1.11)


第十一回 乳房絵馬

 医学の発達していない昔、人々は何につけても神仏に祈るほかはなかった。

 病は言うまでもなく、懐妊、出産、子育て。とくに女たちはひたすら祈りつづけた。その一つが絵馬として残されている。子供が無事に生まれても乳が出なければ、乳飲み子を育てることは至難の事であった。知人などから貰い乳をするか、粥を薄くといた重湯に頼るほかはなかった。

 写真・左は印西市浦部観音寺仁王門に奉納された絵馬である。乳房の形の彫物に白く彩色して杉板に張りつけ、「奉納 乳無仁王尊昭和六十年五月三日 船橋市 野田○○」と書かれている。「印西名所図会」によると、観音寺の仁王尊は、「乳なし仁王尊」と呼ばれ、鎌倉時代の著名な仏師運慶ゆかりの彫刻で、厄除け仁王尊として信仰されてきた。妻を乳ガンで亡くした運慶は冥福を祈るとともに妻への思いをこめて、乳首の無い仁王尊の祖型を作った。観音寺の仁王尊はその型を基にして作られた。

 以来、産婦が乳が出ないときこの仁王尊に祈ると、乳が出るようになると言い伝えられて信仰をあつめた。この絵馬は明らかに乳が出ることを願った絵馬である。

 乳首のない仁王尊に祈ると乳が出ると言うのは不可解な話であるが、全く同じ話が本埜村龍腹寺の仁王尊にも伝えられていて(龍腹寺縁起)、同じような絵馬が奉納されている。仁王尊のない印西市宗甫の観音堂などにも多数所蔵されていることから考えると、仁王尊と乳が特に縁が深いとは考え難いが、如何であろう。

 宗甫・観音堂の絵馬百点のうち十八点が手作りの立体的乳房絵馬であるという。

写真・右は乳がほとばしり出る願いをこめた「乳搾り絵馬」である。

(月刊 千葉ニュータウン2003.2.8)


第十二回 印西大師

 印西地方に春を告げる行事のひとつに「印西大師」と呼ばれる巡行がある。

 毎年四月一日から九日まで、「南無大師遍照金剛」と書かれた幟と弘法大師の御影を先頭に、善男善女が「ナムダイシヘンジョウコンゴウ」の御題目を唱えながら札所を参拝巡行する、「四国八十カ所」巡りの写しである。

 「印西大師」は江戸時代享保六年(一七二一)に始まったと言われ、北総地方で行われている巡行およそ十五講のうちでは最も古く、盛大に行われていた。

 笠神村南陽院の僧臨唱は印西地方農村の困窮を救うには、弘法大師の霊力に縋るほかはないと発心し、四国八十八カ所を遍路して霊砂を収め、印西に「新四国霊場」を勧請することを計画した。そしてこの構想を本寺小倉村泉倉寺貫主演順、平賀村来福寺頼如、師戸村広福寺宥伝に伝え、賛同を得て実現するに至った。

 当時印西地方の天台宗の本山であった、泉倉寺に一番札所を建立し、他は四国の霊場の寺の名、本尊、景観などを斟酌して構成した。従って、巡行は一番から順番に行うのではなく、南陽院、来福寺、広福寺を交互に発心寺・結願寺として、印西市三十四、白井市十二、本埜村十三、印旛村三十二札所、合わせて八十九札所、他に番外七十一カ所を巡行する。八十八より数が多いのは、信仰の高まりによって巡行路に沿った個人や集落が札所を設置したためである。

 昼食や宿は信者の接待で賄われることが多く、遊山講の性格も帯びていて、田植え前の大事な季節に数百人の群衆の巡行に危倶を抱いた幕府や藩は、幾度か取締まりの触れを出しているが止むことはなかった。

 信仰の多様化した今も、連綿と続けられている。

(月刊 千葉ニュータウン2003.3.8)


第十三回 一人静・二人静

 ヒトリシズカは印西の里山の照葉樹林の木漏れ日をうけて四月なかばころ、まだ林の下草がすっかり目を覚ます前に、白い優雅な花を賑やかに咲かせる。

 「一人静」が賑やかに咲く? 三十年程前、この花に初めて出会ったときの戸惑いを今も鮮明に覚えている。林のなかに一本だけ、楚々と白い花を咲かせて風に身を振るわせている、そんな私の期待は見事に破られて、ヒトリシズカは十本から二十本、それ以上の株となって点在していた。

 しかし一つ一つをよく見ると茶色の茎の上に白い花糸をつけた姿はまさに春の天使である。このように優雅な名前を付けた風流人は誰か。その由来は?

 同じセンリョウ科の植物に「フタリシズカ」がある。葉のあいだから二本の花茎(三・四本のこともある)立っており、その花を源義経を偲んで舞う静御前と彼女に取りついた幽霊の二人に見立てて「二人静」と命名されたという。その一方ヒトリシズカの花茎は一本である。つまり二人静に対置する植物として命名されたのである。

 眉目秀麗、頭脳明晰な美女も(たいへん古い表現で恥ずかしい)三人寄れば姦しくなるそうであるから、一人静が賑やかに咲き揃っても一向に構わないであろう。

 フタリシズカは里山の一帯がすっかり緑になった頃に花を付けるので、ヒトリシズカより一回り大きな植物でありながら注目されないのは不運な気がするが、別の名を「早乙女花(サオトメグサ)」と言い、清楚な花の姿を表している。

(写真)左・ヒトリシズカ、右・フタリシズカ

(月刊 千葉ニュータウン2003.4.12)


第十四回 五榜の掲示−最後の高札

 高札(こうさつ)は幕府や藩が、法令や禁令を墨書した木札で、町や村の辻や役人宅の前など人目に付きやすい所に設置された。

 奈良時代末期からあったと言うが江戸時代に最盛期を迎えた。内容は、親孝行・博奕の禁止・忠孝の奨励・精勤・賛沢の禁止など、町人や農民の生活の規範とするもの、キリシタン、鉄砲、徒党の禁止、新田開発の奨励など多岐にわたった。

 今回取り上げた高札は、「五傍の掲示」と言われているものである。写真@・Aは本埜村・旧酒直ト杭新田名主・小久保治家、Bは同家から寄贈された本埜第二小学校に保存されている。

 @は「定 一、人たるもの五倫の道を正しくすへき事。一、鰥寡孤獨廃疾之ものをあはれむへき事。一、人を殺し家を焼財を盗む等乃悪業あるましき事。慶応四年三月 太政官」と、人倫の道を説いている。

 Aは徒党、強訴、逃散などの手段を使って目的を遂げようとするのは悪業であると述べ、Bはキリスト教など邪宗門徒となることはこれまでどおり禁制であると書かれている。この他に「外国人に危害を加えることの禁止」「士民の本国脱走の禁止」を加えて「五傍(ごぼう・五つの立て札)の掲示」と言われているものである。

 五本のうち写真の三本のみ残っていたのは、三本は「永年掲示」と指定され、他の二本は「沙汰有るまで掲示」とされたため後に廃棄されたものと思われる。内容は江戸時代を通じて幾度となく公布されたものと同じであるが、慶応三年から四年(明治元年)にわたる動乱のなかにあって、新政権の誕生を宣言し(高札の署名が奉行から太政官に代わっている)、一揆や騒動の頻発する世相を沈静させるために、慶応四年三月十五日に出されたもので、同じ日、これまでの高札はすべて廃止された。

 明治と改元されたのは、九月八日のことである。

月刊 千葉ニュータウン2003.5.10)


第十五回 利根川圖志

 印西地方の昔を尋ねるとき、安政時代に布川村の医師赤松宗旦によって書かれた「利根川圖志」の存在を無視することはできない。

 しかし、多くの資料に引用されているにも関わらず「利根川圖志」の初版本は云うに及ばず、復刻された活字本を読んだ人も意外に少ないように思われる。

 赤松宗旦・義知(幼名定次郎)は文化三年(一八〇六)に下総国相馬郡布川村(利根町布川)の医師赤松宗旦・恵と母ひさの間に生まれた。

 八歳の時父が死去したため、母の生家である吉高村(印旛村吉高)に移り、十一歳から同村の医師前田宗aのもとで医学や漢学などを十五年にわたって学び、天保二年二十五歳から八年間は江戸など各地を歴訪して医術や地学などを学んだ。布川に帰って医業の傍ら漢学等の指南を始めたのは宗旦三十三歳の時であった。

 「利根川圖志」編纂の構想を立てたのは父の宗旦・恵で、多くの資料が二代宗旦・義知に遺されていた。

 それらの典籍を基にして、宗旦が「利根川圖志」の編纂執筆に取りかかったのは安政元年、彼が四十九歳のときである。

 当初の構想は、利根川の源流から銚子に至る流域の、神社・仏閣・名所・旧跡・物産などを網羅した博物誌、地誌を書くことであった。

 しかし冒頭に精細な地図を掲げているものの、本文の叙述にあたっては上利根川は遠方で十分調査ができなかったとし、赤堀川・権現堂川(今の栗橋辺り)から下流の中利根川・下利根川を重点的に記載している。なかでも居住地の布川を中心とする相馬郡、青年期を過ごした吉高を中心とした印西地方の叙述は精彩を放っている。

 内容については、本欄で随時紹介することにしたい。

 印西市立図書館には、柳田国男校訂「利根川図志」(岩波文庫)、阿部正路訳「口訳・利根川図志」(崙書房)、津本信博訳「現代訳・利根川図志」(教育社)が閲覧に供されている。

(月刊 千葉ニュータウン2003.6.14)


第十六回 ヤハライボ

 前回紹介した赤松宗旦著「利根川圖志」にヤハライボという鳥のことが書かれている(第五巻)。

谷原(ヤハラ)イボ

 この鳥、昼ハ人目にかゝらず故に、見る人稀なり、大さ羽色とも鳶に似て黄を多く帯たり、五月頃より昏夜芦中にて、スー(細く)ボウイ(大声)スーボウイと鳴く声螺(ほら)に似たり

 谷原は湿地の芦原、そこに生息するイボ(斑点)の多い鳥を表す名であろう。

 しかし、鳥類図鑑や動物図鑑などで「ヤハライボ」で検索しても出てこない。

 多くのバードウォッチャーがこの鳥の正体を解きあかそうと努力した結果、赤松宗旦の示した特徴を持つこの鳥の学名が「サンカノゴイ」(山家五位)であることが突き止められた。

 「日本国語大辞典」(小学館)の記述は次のようになっている(要旨)。

 サギ科の大形の鳥。全長約七0センチ。体は黄褐色で、背面に黒色の斑点。のどから胸にかけて褐色の縦斑がある。頭上部は黒い。湿地の葦原にすみ、おもに夜間に活動し、魚や小動物を食べる。ユーラシア大陸に広く分布する。日本の各地にも見られるが、数は少ない。

 宗旦はいまから一五0年も前にこの鳥の珍重さに注目し博物学的な観察図を残している。

 現在、この鳥は環境省のレッドデータブツクで絶滅危倶種に指定されている。

 危険が迫ると首を垂直に伸ばし、周囲の葦に擬体して身を守る葦原の忍者は、かろうじて印旛沼岸の葦原に生息していることが確認されている。驚かさないように注意して、あなたもそっとウオッチングしてみませんか。

(月刊 千葉ニュータウン2003.7.12)


第十七回 卜杭(ボックイ)

 本埜村に「酒直卜杭(サカナオボックイ)」「安食卜杭(アジキボックイ」という集落がある。いずれも本埜村東端の印旛沼に面している。明治四十三年迄は酒直卜杭新田・安食卜杭新田と云われていたが、行政事務の簡素化のために新田の二字が削除された。

 「卜杭」はなにを意味するのであろうか。卜は漢字のボクであり、片仮名のトではない。

 しかしこの卜に杭(くい)を付けて「卜杭」となると、読み、意味ともに難解である。私もかって、棒杭あるいは木杭と解釈し、酒直・安食(ともに現在は栄町)両村の農民が村下の印旛沼付きの埜原を開発するために境界に杭を打ち込んだ名残りでもあろうかと考えていた。

 ある時、何気なく読んでいた「天明六年・安食村御差出明細帳」に、「安食卜杭新田は安食村卜杭野を開発した新田である。」と書かれていることを知った。 卜杭は新田開発以前からあった地名だったのである。

 「卜」は「ボク」、または「ウラナウ」と読んで、「卜人」は占いをする人。

 酒直・安食村と印旛沼の間に広がる葦原に、村人はその年の豊凶を占い、或いは豊作や平安を祈る依り所として巨きな杭をたて「卜杭野」と呼んでいたのではないだろうか。そこはまた印旛沼に面し、悪霊、病魔、或いは幸せも出入りする村界でもあった。

 この話を印西市木刈在住の河邉久男氏に話したところ、「その杭は単に占うだけでなく、天体の観測にも使われ、暦の作成や占星術に用いられたのでは」との示唆を受けた。古来そのような学問に習熟していたのは僧侶や神官であったろうとの説が付け加えられた。

 「卜杭」の地名が他にもあった。茨城県東町大字卜杭である。昔は下総国香取郡のうち、八筋川右岸の低湿地。安食・酒直卜杭と同じ見通しの良い茫洋とした葦原であったであろう。前者は龍角寺と麻賀多神社、後者は香取神宮という巨大な宗教勢力の中にあった、という共通点がある。

(月刊 千葉ニュータウン2003.8.9)

(追記)その後の調査により安食卜杭新田と酒直卜杭新田は寛文二年(一六六二)に新田村として成立したことが判明した。


第十八回 「印西」の歴史と地域

 本埜村に生まれ、本埜村で育った筆者であるが、何となく印西地方の人間であるとの潜在意識をもって生活をしていることに気付くことがある。何故であろうか。そんな疑問を解くために、今回は「印西の歴史と地域」を考察してみたい。

 「印西」は印旛沼の西に位置し、印旛郡の西部であることに発祥した呼称であることに異議をはさむ人は無いであろう。

 ではその「印旛」と云う地名はいつのころから使われていたのであろうか。

 九世紀後半頃に書かれた「国造本紀」には、律令制度のもと(八世紀初頭まで)「印波国造」(こくぞう、又はくにのみやつこ)が置かれていたことが記されている。成田市の公津原古墳群(古い古墳は六世紀に遡る)には「印波国造・伊都許利命」の墳墓と伝承される古墳がある。また隣り合う栄町龍角寺古墳群は七世紀の古墳を主体とした関東有数の古墳群である。何れも印旛沼一帯を掌握した豪族の存在を抜きにしては考えられない。「印波」は遅くとも七世紀には定着した地名であったと云って良い。

 奈良県平城京(七一〇年〜七八四年の都)跡から出土した木簡に「下総国印波郡」の文字があり、七〇八年〜七一四年の間に編纂された「常陸風土記」には、「下総国印波」の記事がある。このことは八世紀初頭には「印波国造」の支配地から「印波郡」に改変されていたことがわかる。この時代「印波」と書いて「いなみ」と読まれていたようであるが、やがて「印播」「印幡」「稲庭」「印判」などの字が当てられ、読みもインバの他にインハ、インハンと振り仮名を付けた文書も知られている。

 平安時代末期から、「印旛郡」の呼称はあまり用いられなくなり、印東庄と印西庄(印西郷、印西条とも)埴生西条等に分割され、のち鎌倉時代にはその一部が印西内郷、印西外郷各々八郷と呼ばれて円覚寺の領地になっていたことが確認されている。中世に庄・荘の字が使われている事例を幾つか書き出してみよう。

○白井市名内東光院地蔵菩薩立像胎内墨書銘(元亀二年・一五七一)「印西庄平塚郷名内村」

○本埜村龍腹寺梵鐘銘文(南北朝時代)「下総国印西荘龍腹寺」

○印西市長楽寺梵鐘銘文(応安二年・一三六九)「下総埴生西大森郷」

○成田市薬師寺梵鐘銘文(応長元年・一三一一)「下州印東庄八代郷船方」

 次に印西庄の範囲を探ってみよう。印西地方の多くの村々は慶長七年の検地によって村の範囲と石高(土地の生産高)が定められた。その際に作られた水帳(検地帳)に書かれた表紙の村名を幾つか挙げてみよう(冒頭の下総国を省く)。

@印西庄大廻村(現・印旛村)A印西庄中祢郷(本埜村)G印判郡印西庄龍腹寺(本埜村)

C臼井領印西庄竹袋郷(印西市)D印判の郡印西庄小林郷(印西市)E印西庄外郷白井郷之内橋本之郷(白井市)F印西庄外郷白井郷之内富塚之村(白井市)

 残存資料が少なく、原本あり写しあり、検地役人により村や郷が使われ、郡が記載されたり無かったりと様々であるが、共通していることは「印西庄」の村々である事である。

 以上のことで判明するのは、「印西」という地域名は遅くとも鎌倉時代から用いられ、大まかではあるが現在の白井市、印西市、本埜村、印旛村の市・村域と一致する、と言うことである。

 しかし江戸時代の早い時期から「印旛郡」が使われるようになり、「印西」の呼称は「印西牧」を開発した「印西新田」や「印西大師講」など僅かな例を残すだけとなった。 「印西」が復活するのは昭和二九年に木下町、大森町、船穂村、永治村の一部、が合併して、印西町が発足した時である。

(月刊 千葉ニュータウン2003.9.13)


第十九回 風景入日付印

 封書や葉書等を差出す場合、料金に見合った額面の郵便切手を貼ってポストに投函することになっている。

 郵便局では適正な切手が貼付されていることを確認し、その切手が再使用されないことと引受確認のために、引受局名、引受年月日、引受時間帯が刻字されたスタンプ、「通信日付印」を押印する。

 明治四年の郵便創業から暫くの間は、局名と「検査済」「検」だけのもの、局の記番号(例えば木下局はハ一五号)だけのものなどが使用されたことが知られているが、次第に整備され、現在では通常の通信日付印の他に、外国郵便用の「欧文日付印」、凹凸のある郵便物の消印に用いられる「消印困難郵便物日付印」などがあり、消印機械用の日付印などもある。

 この他に、特殊切手や記念切手の発行や記念行事の際に使用される「小型記念通信日付印」「特殊通信日付印」、土地の名所旧跡や民俗行事などを紹介する、「風景入通信日付印」などがある。

 今回紹介するのは、印西地方の郵便局で使用されている「風景入通信日付印」である。 印西郵便局の風景印は、一九八一年十月一日から使用されているもので、図柄は、「重要文化財・宝珠院観音堂(光堂)」と「浦部・十二座神楽」である。

 白井郵便局の風景印は、二〇〇一年四月一日から使用され、「重要文化財・滝田家住宅」、「北総鉄道」と「梨」が描かれている。

 印旛郵便局の風景印は、一九八七年八月一日から使用された。「重要文化財・薬師如来座像(松虫寺)」と捷水路工事現場から出土した「ナウマン象」、「山田橋」を描いている。

 本埜郵便局の風景印は、一九九七年十二月一目に改正された二代目で「中根の三頭獅子舞」と「白鳥」、県浄水場脇の「龍腹寺橋」を題材としている。 これらの風景印は郵便物を窓口へ持参して「風景印押印」と伝えれば無料で取り扱ってくれる。

 あなたの住む街の姿を全国に発信するために是非利用して下さい、とPRの下手な郵便局に代わってお勧めします。

(月刊 千葉ニュータウン2003.10.11)


第二十回 今井の水塚(みずか)

 白井工業団地から沼南町に向かって北上し、名内橋の手前から印西に向かって右折すると、街道沿いの北側に十数個の集落があり、南側に「白井市指定有形民俗文化財・今井の水塚」の案内板が建てられている。

 水塚について簡潔に要領よく説明されているので、白井市教育委員会の許しを得て引用させていただくことにする。

今井の水塚

 水塚とは、河川や湖沼の氾濫による洪水から自分たちの生活や財産を守ることを目的として屋敷内に築かれた土盛や、その上に設けられた建造物を総称していう。

 水塚と同様の機能をもつ建造物は大きな河川の流域に数多く確認されており、例えば木曽川流域では水屋や水倉などと呼称されている。千葉県内では関宿町、印西市、栄町、本埜村など利根川の下流域にみられ、このことから利根川や印旛沼、手賀沼が頻繁に洪水を起こしていたことが理解できる。

 白井市の水塚は金山落に沿った今井地区に十一箇所が現存している。いずれも屋敷の四隅の一箇所に土盛りをし、その上に蔵などを構築している。起源については資料が残されていないため詳細は不明であるが、今井新田が開発された近世まで遡るものとされる。近年では大正十年、昭和十三年、昭和十六年に手賀沼が大きな氾濫を起こしたが、その際には避難場所として大きな威力を発揮したという。

 今井の水塚は、手賀沼の洪水から自分たちの生活を守るために考え出された、人々の工夫を示す資料として非常に重要である。

 写真は今井の増田家の水塚である。水に土を浚われないように一メートルほどの高さの塚の回りを大谷石で固めた間口三間半もある強固な作りである。普段は蔵として使われ、屋根裏には大切な家財が収納されていたのであろう。 隣り合う七件の水塚はみなそれぞれよく手入れがなされており、集落としても貴重な遺産である。

(月刊 千葉ニュータウン2003.12.13)