印西風土記

(平成16年掲載分)

五十嵐行男

Home 14年版 15年版 17年版 18年版

<21>野馬除土手 <22>庚申塔 <23>辻切り <24>香取秀真 生誕百三十年 <25>鳥見神社と「鳥見の丘」 <26>最上徳内曾孫 平松基の墓誌 <27>人形送り <28>オニバス <29>ホンキノコ「初茸」 <30>五の神 <31>栄福寺薬師堂 <32>印旛象 
第二十一回 野馬除土手(のまよけどて)

 江戸時代の下総台地には佐倉牧、小金牧と呼ばれた幕府直営の広大な馬の放牧場がおかれていた。

 小金牧は当初七つの牧があったが、統合や整理によって幕末期には中野牧、下野牧、高田台牧、上野牧、印西牧の小金五牧として経営されていた。

 このうち印西地方に深く関わったのは、中野牧と印西牧である。とくに印西牧は延宝四年と享保十五年における新田の開発以前は、現在の印西市のうち小林、平岡、宗甫、別所、大森、鹿黒、和泉、小倉、浦部、浦幡、多々羅田、結縁寺、松崎、船穂、安養寺、武西、白井市のうち神々廻、清戸、名内、平塚、谷田、印旛村のうち吉田、岩戸、造谷、本埜村のうち角田、荒野、竜腹寺、滝などの集落に囲まれた広大な規模を持ち、農村の生産活動を規制するものであった。

 徳川の平和な時代が続き、軍用馬の需要の減退と、幕府財政の建て直しのため、これらの村々に接する土地は農地として開発された。

 牧場が縮小されたといっても、境界を馬が分かるわけがない。せっかく開墾され、植え付けされた耕作地に馬は遠慮なく進入し、これまで食べていた雑草より数等旨い餌を手に入れて農民を悩ませた。

 また、広大な原野には鹿や猪なども生息していた。

 これらの食害を防ぐためと、馬の捕捉を容易にするために考え出されたのが、「野馬除土手(のまよけどて)」(ところによっては「野馬土手(のまどて)」)である。また、農村の飼い犬や野良犬が牧場に進入して馬に危害を加えることを防ぐ役割ももっていた。

 野馬除土手は牧場と村の境界に沿って造られた。

 いま、その多くは自然崩壊や開発によって僅かに残るだけであり、全容を知る術がないが、印西地方に残るいくつかの遺構から推定すると、牧場と村の境界に堀を掘り、その土で牧場側に一〜二米の土手を、村側に二〜三米の土手を築いているようである。もちろんこれは標準的なものであって、地形により、一重から四重のものまで観察されている。

 前掲の村々は牧付きの村として、土手の構築や修復、牧場内の日陰となる木立や水飲み場の管理、捕馬などのために動員され、農村に大きな負担となった。

 写真は、白井市冨士に残る中野牧の野馬除土手の遺構で、印西地方では唯一史跡(白井市指定)に指定されているものである(西白井駅から鎌ヶ谷行きバスで「白井ロジュマン」下車)。

 印西市にもいくつかの遺構が残っており、整備保存がなされることを期待したい。

(月刊 千葉ニュータウン2004.1.10)


第二十二回 庚申塔

 二〇〇四年は「申」年である。「申」は「さる」と読んで「猿」と同義語であるとされているが、その訳を明快に説明している漢字辞典はない。筆者も正直のところよく分からないが、申年に因んで我々の最も身近にいる「さる」について考えてみたい。

 道端や寺社の境内に「庚申塔」「青面金剛」「猿田彦命」の文字や憤怒の形相をした神を彫刻した石像を容易に見ることができる。

 これらはみな「庚申塔」と呼ばれるもので、江戸時代に建立された石碑のうちでは墓石を除いては最多の数量である(印西市・白井市・印旛村・本埜村の調査による)。

 「庚申信仰」とは中国の道教で説く、「三尸(さんし)」説を基とし、仏教や神道、日本の雑多な信仰や習俗が合体してできた民間信仰である。

 「三尸説」とは、人の体内には三尸という虫が棲んでいて、何時も人の犯す罪科を監視していて、六〇日に一度くる「庚申(かのえさる)」の夜、人が寝静まった隙に身体から抜け出して天に昇り、天帝にその人の罪科を告げる。天帝は罪の深い人の命を奪う。三尸は宿り主の命が絶えると天に昇り神となることができるのである。

 人は庚申の夜に徹夜をしていれば、三尸は人の体内から抜け出すことができないから、身を慎んで夜明かしをすれば長生きができる。また、庚申の夜は肉食や性交は忌避とされた。このため人々は講を結んで神社や寺院、あるいは講中の家々に集まり、題目や庚申像の描かれた掛け軸を掛け、お経や呪文を唱えた。

 日本では、平安時代に貴族階級から信仰が始まったと言われているが、江戸時代には庶民の間にも広がり盛行することになる。やがて、眠気覚ましのために双六や花札賭博、酒を飲んだり、歌を歌ったりするようにもなったようで、信仰の普及を助けたであろう。

 庚申講の記念や礼拝の対象として建てられたのが前記の様々な石碑である。

 写真は白井市富ヶ沢、光明寺の青面金剛像である。青色大金剛薬叉神ともいい、庚申信仰の本尊である。

 もともとは口を大きくはり、犬歯を剥き、三つの目をもつ憤怒の相で、逆立つ髪に髑髏を抱き体に蛇を巻きつけ、人の精気を奪い血肉を食らい、鬼病を流行させる神であったが、後に改心して善神になったという。庚申信仰はこの神の魔力に縋って身を守ろうとしたのである。

 三匹の猿が彫られている。見ざる、聞かざる、言わざるの三猿である。人の犯す罪を見ないで、聞かないで、告げないで下さい、との願いを表現している。「青面金剛」「庚申」などの文字石碑は経費節約のためであったろう。「申」は「猿」に通じ「猿田彦命」に姿を変えて庚申信仰の一部を担い、天照大神の降臨を先導した故事から、道祖神とも集合し、道中安全の守り神ともなった。多くは方角を示す道標として、交差点などに建てられている。

(月刊 千葉ニュータウン2004.2.14)


第二十三回 辻切り(つじきり)

 「辻切り」と云う行事は全国的に行われている慣習である。年の初めに人々は村の神社や寺に集まり「辻切り」の祈りごとをした。

 今も印西に残る二つの「辻切り」をとおして信仰の姿を探ってみよう。

富ヶ沢(白井市)

 富ヶ沢地区は白井市の南端、五メートルほどの橋の向こうは船橋市大久保町という、戸数二〇戸ほどの集落である。

 毎年一月二十五日、村の人々は香取神社の集会所に集まり「辻切り」をする。

 直径五センチくらい、長さ150センチほどの竹の先端を割り、香取神社の護符を挟む。その上に御幣としめ縄、杉の葉が括り付けられる。さらに写真のような札が下げられる。

 この札には下のような呪文が書かれている。

「急々如律令」は「きゅうきゅうにょりつりょう」と読む。

 これは中国漢代の古文書の本文の後に「この趣旨を心得て、急いで律令の如くに行え」と云う意味で書き添えられた言葉で、のちに陰陽道の祈祷僧などが呪いの言葉の最後に用いたもので「悪魔は速やかに立ち去れ」との意味に用いられたと云われている。

 三つの鬼は災害・悪霊・病魔・盗賊など村民の安穏な生活を脅かす鬼を表すのであろう。この幣束は四本作られ、村外れの辻々(村の外れであると同時に入り口)に建てられ、村の境界を主張するものでもある。

龍腹寺(本埜村)

 龍腹寺の「辻切り」は一月八日に行われる「綱打ち」である。富ヶ沢の「辻切り」が神道の行事として行われるのとは対照的に、こちらは仏教の祀りである。龍腹寺に集まった村人によって直径十センチ、長さ十メートルもあろうかという巨大な注連縄(しめなわ)が作られる。

 縄の中央には「龍腹寺」の「牛王法印」(ごおうのほういん・災難除けの御札)をヌルデの枝にはさみ、榊の葉、篠竹、区内安穏・五穀豊穣と書かれた札とともに挿される。

 この綱は三本作られ、村外れにある道祖神の傍らの樹に張り渡されて、村の一年間の安穏を守ることを託される。

 正月に行われる二つの「辻切り」を紹介したが、千葉県下には、巨大な藁人形や大蛇を村境に建てて悪魔払いをする村、逆に貧相な生活用具を藁で作り、「私の村には何もありませんよ、泥棒さん、こないで下さい」と訴える村など、ユニークな「辻切り」があちこちに知られている。

 注)「辻」は道の交差する所のほか、道端、村はずれなどの意味をもつ。栄町の「房総のむら」には各地の「辻切り」の実物がいくつか展示されている。

(月刊 千葉ニュータウン2004.3.13)


第二十四回 香取秀真 生誕百三十年

 今年は印西市出身の鋳金家で文化勲章受賞者「香取秀真」の生誕百三十年・没後五十年にあたる。

 香取秀真(かとり ほづま)は、明治七年一月一日印旛郡船尾村(現・印西市船尾)の香取秀晴・たま夫妻の次男として生まれた。幼名は秀治郎。七才のとき親戚にあたる佐倉・麻賀多神社宮司郡司秀綱の養子となり(入籍はのち)佐倉鹿山小学校、佐倉集成学校などに学び、少年期の十七年を佐倉で過ごした。

 秀真が郡司家に入籍したのは明治二十一年のことであるが、同三十年には香取家に復籍している。明治二十五年、十九歳で東京美術学校に首席で合格し、同三十年東京美術学校鋳金本科を卒業したが、この間の学資は養家郡司家の庇護に依るものであった。神官にするつもりで養子にした秀真が芸術の道を志したことについては両者とも大きな葛藤があったと思われるが、郡司家は秀真の良き理解者であった。

 卒業一年後の明治三十一年には早くも日本美術協会展に獅子置物を出品して褒状一等賞を受賞した。その後、東京鋳金会などで多くの作品を発表して声価を高めた。またその傍ら、日本古来の金属工芸品や仏像などについての研究に携わり、母校である東京美術学校(後の東京芸術大学)で鋳金史、彫金史などの講義をし、昭和八年には教授となった。「日本金工史」「金工史談」など多くの著書がある。

 秀真の作品は日本の伝統的な技術を駆使し、古典的な格調高いものとして評価され、昭和二十八年には工芸家として初の文化勲章を受賞した。

 また正岡子規門下の歌人としても優れた歌を残し、昭和二十九年一月十二日の宮中新年歌会始に召人として招かれ次の歌を奏上した。

  したくさの くちはのいろの あかるきに 
       ならはやしひは あたたか尓富類

 宮中から帰って間もなく、秀真は風邪をこじらせ一月三十一日、八十一歳の生涯を東京世田谷の自宅で閉じた。

香取正彦

 正彦は秀真の長男として明治三十二年に生まれ。東京美術学校鋳金科を卒業後、父と同じ道を歩み多くの作品を発表するとともに、奈良薬師寺薬師三尊、鎌倉長谷大仏などの文化財の修理に携わった。昭和五十二年には「人間国宝」に指定され、昭和六十二年には日本芸術院会員に推挙された。正彦は梵鐘の復元にカを入れたことで知られ、父秀真と共名の「平和・喜の鐘」は二三口を数える。父没後は、「平和・余韻の鐘」として一五二口の梵鐘を制作した。そのうちの一つが印西市役所のロビーに展示されている「平和の鐘」である。昭和六十三年死去。

 今年は香取秀真生誕一三〇年・没後五〇年にあたり、各地で記念行事が企画されている。その嚆矢が印旛村吉高の「メタルアート・ミュージアム・光の谷」で開かれている「香取秀真・香取正彦父子展」(六月二十七日まで)。

 「メタルアート・ミュージアム・光の谷」は佐倉市在住の実業家であり、美術史研究家である北詰栄男氏が私財を投じて建立した美術館である。

 佐倉市に関わりの深い香取秀真、津田信夫(国会議事堂の玄関扉の制作などで著名)の作品を中心としたコレクションを展示するとともに、作品発表の機会に恵まれない新進の金属工芸家の育成に力をいれ、作品展を催している(問合せ・電話〇四七六-九八-三一五一)。

(月刊 千葉ニュータウン2004.4.10)


第二十五回 鳥見神社と「鳥見の丘」

 日本には八百万(やおよろず)の神々が祀られているといわれている。印西地方にもおそらく数百の神々が祀られていると思われるが、そのなかで異彩を放っているのが、印旛・手賀沼に臨む村々だけに祀られた鳥見神社である。八幡神社や香取神社、諏訪神杜などが全国的に分布する、いわばブランド神社であるのに対して、鳥見神社はローカルな神社であるが、神社の立地場所といい、建物の風格といい、伝承されている民俗行事など、いずれも大神杜に引けをとらない名刹である。

 鳥見神社を祀る村落は、白井市神々廻・富塚・名内・橋本・平塚・復、印西市大森・浦部・小倉・和泉・小林・平岡、印旛村萩原、本埜村中根・笠神・萩原・長門屋、沼南町泉・布施・金山の村々である。古代の印旛地方では、宗像一三社、麻賀多一八社と拮抗する、宗教のみでなく政治的にも一大勢力を担っていた。

古代豪族物部氏の先祖を祀る

 鳥見神社の祭神は饒速日命(ニギハヤヒノミコト)、御炊屋姫命(ミカシキヤヒメノミコト)、宇麻志麻治命(ウマシマジノミコト)である(一部では御炊屋姫命、宇麻志麻治命を祀るのを忘れた?神社もあるらしいが) 。

 饒速日命は「古事記」によれば「天つ神の御子が天降りなされたとお聞きし、後を追って天より下ってきた」という神である。彼は登美に住む、豪勇をもって知られる長脛彦(ナガスネヒコ、のちトミビコ)の妹トミヤビメを妻とし、生まれた子が宇麻志麻治命である。

 この「トミヤビメ」こそ誰あろう、御炊屋姫命の別の名である。「鳥見神社」は「トミヤビメ」の名を起源とするトミ一族の神社であったのである。古代豪族「物部氏」の先祖である。

鳥見の丘は何処か

 和銅年間(七〇八〜七一四)に書かれた「常陸国風土記」に次のような記載がある。

 古き伝えに曰へらく、大足日子の天皇、下総の国の印波の鳥見の丘に登りまして留連り遥望み給ひ、東を顧みて侍臣に勅り給ひしく、海は青波浩く行き陸は丹霞空に朦き、国、その中に在りて朕が目に見ゆ、と宣り給ひき。時の人、是に由りて霞の里といひき。

 大足日子(景行天皇)が鳥見の丘に行幸されたことを述べている。ことの真偽はおくとして、古来、ここに述べられている「鳥見の丘」は何処か、について多くの議論がなされてきた。「霞の里」(霞が浦)を東に望見することの出来る「鳥見の丘」は中根、小林の鳥見神社に絞られた。

 ここ二〇年ほどの土地開発盛行による遺跡発掘調査は私達に多くの判断材料を提供してくれた。なかでも、本埜スポーツプラザ、小林小学校運動場拡張工事に伴う発掘調査は中根・小林両鳥見神社に隣接するだけにその成果が注目された。

 双方に共通することは、古墳時代末期の住居跡が急増していることであった。

 それは五八七年、仏教の受容を巡る対立で、物部守屋が蘇我馬子に殺され、物部一族が中央政界から失脚した時代と重なる。彼らの一部は下総に勢力を築いていた一族を頼って逃れてきたことが考えられる。

 小林鳥見神社の隣接地からは中央の貴族階級だけが着用できる帯金具や畿内産の土師器が出土している(小林公民館に展示されている)。

 印西地方最古の鳥見神社、小林牧場に隣接する「道作古墳群」の存在はこの地域が古代印西地方の要衝、「鳥見の丘」であったことを物語ってはいないだろうか。

(月刊 千葉ニュータウン2004.5.8)


第二十六回 最上徳内曾孫 平松基の墓誌

 本埜村竜腹寺地蔵堂裏に共同墓地があり、筆者の家の墓石に並んで、写真のような墓誌が建っている。もともと彫りが浅く、苔むして、写真も拓本取りも困難であるが、銘文は二三〇余文字からなる漢文体で、次のような内容である。

 『媼(おうな〕の名は基(もと)という。徳川幕府の幕臣最上徳内の孫串戸氏の二女である。十八歳にして平松某に嫁いだが夫は早逝した。もとは固く節を守り一生独身を通した。世間との交わりを絶って多くのことを勉強した。特に「富国」に関心を持ち、その傍ら医学をも学んだ。明治維新に際しては家族とともに静岡に移り住んだが、もとの博識を知って教えを望む者が多く授業をした。後に東京に帰ったが、縁があって北総別所村で私塾を開いていた浅野家に身を寄せた。また竜腹寺村の五十嵐氏の招きに応じて同家に移り授業をして晩年を過ごし、同家で終焉した。

 もとの性質は、慎み深く厳かで、立居振舞は物静かで優雅であり、何時も一室に正座し、門人に親孝行や目上の人を敬うことを熱心に説いていた。もとの様な媼をこそ真に女丈夫と云うべきである。

 明治十五年十二月、病により逝去した。享年六十八歳で、「章盒院基本妙子大姉」の諡(おくりな)が贈られた。

 そこで門人が相談して碑を建てることになった。媼の薫陶をうけた私(石井濱之助)が撰文をする事になり、十分に意を尽くすことが出来なかったが、時代が変わっても媼の功績が忘れ去られることがないように認めた。

 明治十六年十二月廿一日 石井濱之助』

 もとの曾祖父、最上徳内は周知のとおり幕末期を代表する北方探検家である。天明六年(一七八六〕に幕府の蝦夷地調査隊の一人として国後島・択捉島・得撫島を調査し、「蝦夷草紙」を著して蝦夷地の重要性を説いて幕府普請役となり、後には西蝦夷地交易御用、樺太検分を命じられ、北方交易の公正化を図ってアイヌにも歓迎されるなど、蝦夷地開拓に尽くした人である。

 その曾孫(ひまご)がどの様な経緯で印西の地を踏んだかは明らかではないが、東京からもとを呼び寄せた別所の浅野家は、明治十五年に没した隼衛氏が私塾を開いていたことが知られている。

 「平松媼之墓志」建立の発起人は、竜腹寺村の五十嵐慶一郎、萩原村の石井濱之助、別所村浅野保の三名である。この浅野保は浅野隼衛の長男である。

 萩原村の石井濱之助については幾つかの消息が残っている。慶応元年三月に生まれた濱之助は竜腹寺村の「五十嵐稽古所」で幼時平松もとの教えを受けたのち、萩原村の林多一郎が明治十五年に創立した私立印旛学校で中等教育を受け、同十七年六月千葉師範学校初等師範学科を卒業し、十九歳で中根(本埜村)小学校訓導に就任した俊英である。この墓誌は濱之助十八歳の時に撰文したものである。

 言い伝えによると、もとは近隣の女子に裁縫や育児、礼儀作法などを教えることが多かったと言われるが、墓誌にあるように女性でありながら、「富国」を考え、医術を独学するなどまさに「女丈夫」であり、田舎に埋もれていたが、明治期女子教育者の先駆けであった。北方開拓に意を注ぎ、開国前後のロシアなど列強との国交について献策した最上徳内の血を引くに相応しい女性であった。

(月刊 千葉ニュータウン2004.6.12)


第二十七回 人形送り

 この写真は昭和五十年代に本埜村龍腹寺で撮影したもので「人形送り」という行事に立てられた「藁人形」である。

 今はもうすっかり忘れられている行事であるが、かっては印西地方の多くの集落で行われていたようである。

 「印旛村史」(平成二年刊行)にはこの行事を概ね次のように紹介されている。

 「ワラ人形を辻や村境に立てて疫病神を送る行事である。五月二十七日に平賀や吉田では子供たちが団子を包んだ藁を人形にして竹の先端に刺し、「香取・鹿島大明神」と書いた紙と木の枝などで作った刀を付けさせ人形塚と呼ばれる場所に集まった。

 互いに人形をぶつけ合って戦いをした後は、鉦・太鼓を鳴らしながらムラ境まで送り道端に人形を立てた。岩戸村では念仏講衆が風邪をひかないようにと三月に人形送りを行った。印旛沼に注ぐ師戸川の橋まで、「オクド(送るぞ)、オクド」と唱えながら歩いた。

 「千葉県の歴史・民俗編」によると、人形送りの行事は小見川・佐原・神崎・大栄・下総・成田・酒々井・佐倉・四街道・八千代・印旛・本埜・印西の市町村で行われていたようである。

 印旛村の例を挙げたが各地それぞれの伝承を持っている。人形の素材が稲藁であったり麦藁であうたりと地方色を示している。

 五月二十七日、二十八日に行なうところが多かったようであるが、香取地方では七月頃に行なわれる例が多く、龍腹寺でもかっては七月三十一日に行なわれていた。

 五月に行なわれたのは「ソーリ」といって田植えを始めてよい日の行事として行なわれた村落があり、田植え時期の安全や豊穣を祈るものであったと思われる。

 七月は田畑に病害虫が発生し、権雨期で人々が食中毒などの疫病にかかかりやすい季節でもあった。

 茨域県鹿島町に祀られる鹿島神宮は伊勢神宮、呑取神宮とともに古代から「神社」とは別格の「神宮」を名乗ることが許された由緒を持ち、武甕槌神(たけみかづちのかみ)を祭神としている。

 武甕槌神は神代の昔、天照大御神の命をうけて国土を平定し、神武天皇東征の折には神剣を天皇に献じて従ったという伝承を持つ武神である。

 下総の人々はその武勇にあやかり、力を借りて病害虫や疫病、悪霊から村を守ろうとしたのであろう。

 村外れに立てられたのは、諸々の悪を村外へ背負って行ってもらったと伝えている村、村の外から進入する悪を追い払うためと伝えている村など諸説がある。いま私達はこの人形送りの習俗を容易に見ることは出来ない。唯一?残っている所を紹介しよう。印西から成田に向かって甚兵衛大橋を渡り、谷養魚場を過ぎ三百メートルほど行くと、左折する登り坂がある。その坂の麓の印旛沼に注ぐ江川の川岸に立てられている。

 他に残っている所があったら教えてくださるようお願いします。

(月刊 千葉ニュータウン2004.7.17)


第二十八回 よみがえった「オニバス」

 「オニバス」というと、南米アマゾンの湖沼に繁殖し、大きな浮葉に子供が乗って遊んでいる写真を思いだすが、今回紹介するのは、日本の関東甲信越地方を北限とし、中国(台湾を含む)、インドにかけて分布する、スイレン科の水草である。

 「オニバス」(鬼蓮)の名の由来は、棘バス(京都)、針バス(三重県)などの方言が示しているように、浮葉、葉柄、花柄、萼(ガク・花の蕾を保護する外皮)など全身に鋭い刺(トゲ)があり、あたかも鬼が持っている鉄棒を連想させることにあろうと思われる。

 毎年四月から五月にかけて水中の泥のなかで休眠していた種が発芽するが、気象条件などによって二・三年後に発芽するものもあり、神崎町の例では三十年以上も埋もれていた種子が発芽したことが観察されている。

 六月から七月頃に葉を水面に浮かべはじめ、八月末から九月にかけて開花する。鶏頭状の萼が割れて赤紫の鮮やかな花びらが姿を現す。しかし、なかには萼を完全に開かず自家受粉によって種子を形成し終わるものがある。

 種子は大きいものは径一センチ程になり成熟すると萼や花床の部分は裂けて種子を放出する。種子はゼリー状の薄い種皮に包まれており、これが浮袋の役を勤め、水の流れに乗って繁殖圏を拡大し、数日後に種皮が腐食すると水底に沈んで冬を越す。

 かつては印旛沼や利根川周辺の河川や池沼に普段に生育していたオニバスであるが、水質、水深など繁殖の条件が十分に解明されないまま、自然の状態での繁殖は絶滅の危機に瀕している。

 一九六七年印旛村萩原の溜め池が千葉県の天然記念物に指定され保護活動や研究が行なわれたが、一九七〇年を最後に繁殖が観察されなくなった。

 一九七三年の観察では、本埜村の外甚兵衛沼、内甚兵衛沼や将監の太左衛門堀に繁殖が確認され、一九七七年三月に印旛村萩原の指定地が解除され、本埜村将監の太左衛門堀が千葉県の天然記念物発生地に指定された。太左衛門堀はJR成田線と国道三五六号線に挟まれた、小林駅と安食駅の中間点の水田に囲まれた水溜まりである。ここでは一九六八年までは「池全体をおおっていた」、一九七二年には「一〇〇株近くが池の三分の一ほどを占め」ていたとの記録がされているが、一九八二年に数枚の葉が観察されたのを最後に再び観察されることはなかった。復活のため種々の研究や実験が行なわれたが徒労に終わり、いま、太左衛門堀は、何時かは発芽するのではないかという期待を込められ、天然記念物発生地に指定のまま汚水溜まりの状態となっている。

 本埜村内の有志は前記の神崎町などから種子を貰い受け、庭先や学校に水槽を作って栽培し開花させることに成功した。ふたたび野性に返すことを夢見て栽培技術の情報交換に励んでいる。

 今年も八月下旬には必ず何処かで可憐な花が咲く筈です。ご覧になりたい方は、本埜村教育委員会生涯学習課(電話0476(97)2011)へお問合せください。

(月刊 千葉ニュータウン2004.8.14)


第二十九回 ホンキノコ「初茸」

 「キノコ」というと皆さんは何を思うでしょうか。松茸? シメジ? それともスーパーで売られているマイタケやエノキダケ、椎茸ですか。

 私たち下総台地に永く生きて来た者にとっての茸は「ハツタケ(初茸)」なのです。なにしろ「ハツタケ」というより「ホンキノコ」といったほうが良く通じるほどなのですから。

 ベニタケ科の茸で、傘は淡い赤褐色、中央が窪んだ丸形で直径は五〜十センチ、中央部分の厚さは一センチ位になる。表面には地色をやや濃くした同心円状の模様がある。秋十月ころ、稲刈りが終わり、庭に木犀(モクセイ)の花が香るころ、里山のアカ松、クロ松の林に発生する。

 五十年ほど前まで、里山が良く利用されていた時代は大量に発生したが、農村に燃料革命がおこり、松林が放置されるにしたがってめっきり数が減ってしまうた。

 松林に発生するが、樹齢十〜二十年位の林に好んで発生する。今私たちがハツタケを目にすることができるのは、新規道路工事によって開削された斜面に自生した松の下や、庭木の下である。

 砂糖醤油で煮たり、炊き込みご飯にして賞味されることが多かった。香り、舌触り、歯触りを良く兼ね備えた名品であった。

 昔食べた味が忘れられず、九十九里海岸の砂防林まで遠出した人も多かったが、下総台地のホンキノコとは微妙に味が違ったようである。

 また富士山麓の樅林に良く似た茸があると聞いて遠征した人もいた。私も御馳走になったことがあるが、まあまあの味であった。それほどまでしてハツタケの味を求めたのは、遠い先祖から引き継がれた食文化の遺産であろう。

 今を去る百六十年前の天保十四年、龍腹寺村の要蔵はその日記に

 九月廿日 村方分例年の通り初たけ献上いたし候

 と記している。これは大森にあった淀藩大森役所の役人にハツタケを届けたことである。

 京都(淀)や江戸から赴任した舌の肥えた役人やその家族に龍腹寺村は毎年ハツタケを献上していたのである。

 下総台地の住民にとって、ハツタケこそ古来から馴染んだ「本キノコ」であったのだ。

 白井市をはじめ印西市、印旛村、本埜村で、里山を復活させる機運が高まり、実践が始まっている。そこに「ホンキノコ」が復活したとき、里山は再生したと云うことが出来るであろう。

 写真は昨年(二〇〇三)秋龍腹寺のある家の屋敷林で撮影したものである。久しぶりに腹一杯御馳走になった。

 (近縁種に「アカハツ」がある。五葉松の下を好んで発生する。色が橙黄色、橙赤色をしている他は「ハツタケ」とほぼ同じであるが、味はやや落ちる)。

(月刊 千葉ニュータウン2004.9.11)


第三十回 「五の神」(ゴノカミ)

 小林牧場入口の信号を木下面に向かって一キロ、木下ゴルフセンターの看板から右折して一・四キロの道沿い左側に小さな祠――近隣の人々から「五ノ神様(ごのかみさま)」、あるいは「石神様」と呼ばれている――がある。

 厚いガラスを嵌め込んだアルミサッシで厳重に保護されているが、中央に七×一〇センチ程の覗き穴が空けられている。穴にレンズを押しつけて撮影したのがこの写貞である。

 中央には高さ一メートル程の木箱があり、左右には大小様々な石製・木製の男根(男性器)が並べられている。

 筆者が二〇数年前に訪問したときは、中央には明らかに縄文時代の「石棒」と思われる男根が鎮座し、周辺に数十本の男根が祀られていた。

 「印西名所図会」(平成五年・印西町町史編さん室刊)には次のように書かれている。

 「参拝した人の多くは、主に花柳界の女性たちで、下の病によく効くとか、よい旦那に巡り合えるようにとの願を込めてお参りをしたといわれています。祠の内外にたくさん奉納されていた木製や石製の男根は、石神様にあやかってひとつふたつと持ち去られてしまいました。持ち去られたものの中には、天保年間の年号が人っているものもありました」

 いま、中央の木箱に収まり施錠されているものは、筆者が前に見た、いちばん大切な縄文時代の石棒であろう。

 数千年前の縄文時代、例えば長野県の尖石(とがりし)遺跡では住居跡に石棒が立てられている家と、女性を象った土偶を祀った家があった、と報告されている。

 このことは、男女両性の象徴を祀り日々祈りを捧げることによって、子孫繁栄や豊穣を願った証であろう。

 竹袋の「五ノ神」が永い間集落に伝承されたものか、永い間地下に埋もれていたものが畑の開拓などによって発見されたものかは分からないが、集落の守り神として古くから信仰されてきた文化財である。

 同じ時代のものと思われるものが、別所宝泉院の境内に祀られていて、「女オビシャ」の信仰(妊娠願望・子育て)の対象となっている。また、印西地方の考古学の先駆けとなる功績を残した浦部の故高橋良助氏のお宅で、近くの畑から山土したというものを拝見したことがある。

 「花柳界の女性」から信仰されるようになったのは、ずっと後のことである。

 江戸時代の初期、慶長七年(一六〇二)の「竹袋村検地帳」には「五ノ神」の田畑として十数筆が記載されている。この頃すでに「五ノ神」は祀られていたのである。

 「ゴノカミ」と呼ばれるようになったのは何故であろうか。私は前述の信仰形態から男根を「子供を授ける神」と見立てて「子の神」とし、訛って「ごの神」となったのではないかと思っている。

 また、男性器の別称は「へのこ」である。「へのこの神」が「このかみ」に転化し、江戸時代特有の当て字によって、「五ノ神」になったものと考えることも可能である。

(月刊 千葉ニュータウン2004.10.9)


第三十一回 栄福寺薬師堂

 千葉県内には国指定の重要文化財の建造物が三十件ほどあるが、建立年代が明確な最古のものが、本埜村角田に所在の「栄福寺薬師堂」である。

 印西市小倉の光堂(宝珠院観音堂)は昭和九年に国指定の重要文化財に指定され、早くから知られていたが、昭和二十八年の解体修理の際、たまたま修理現場を通りかかった角田の住民が「うちの村にはこれより古い寺がある」と話したことから調査が行われ、翌二十九年に重要文化財に指定された。

 ちなみに宝珠院観音堂の建立は永禄六年(一五六三)頃と推定され、栄福寺薬師堂の建立は棟札から文明四年(一四七二)と判明している。

 栄福寺薬師堂の方が九十年ほど古いわけだが、ともに室町時代の建立であることから幾つかの共通点がある。

 正面、側面ともに三間、主要な柱が円柱であり、屋根は茅葺寄棟造、須弥壇が極彩色であることなどである。

 棟札には

 寛正七年六月柱立
 応仁三年霜月上棟
 文明四年二月成就

 と墨書されている。三間四方、九坪の建物に七年の年月をかけている。

 正面に桟唐戸、側面の前一間は舞良戸という古代様式の戸が備えられ、外陣は鏡天井に極彩色で天女像が描かれている。内陣に立てられた来迎柱は金箔で覆われ、須弥壇は極彩色で飾られており、極楽浄土もかくや、と思わせる美しさを湛えている。

 昭和四十四年に丸々一年をかけて行われた解体修理では、施工業者は奈良、八王子、東京大阪、市原などから参加した。いまから五〇〇年前の室町時代、これだけの資材と職人を集めるのは途方もない労力と財力、それだけでなく信仰心や夢や執念が費やされたことであろう。

 江戸でさえ京や大阪から見れば片田舎に過ぎなかった時代である。完成に七年という年月がかかった事情を推察することが出来るであろう。

 元治二年(慶応元年・一八六五)に修復した際に作られた棟札によると角田村は十五戸程の小さな村であった。そのような小村がこのような文化財を護りつづけてきた努力に敬服する。

 栄福寺薬師堂と共に、厨子、創建時の棟札が重要文化財に指定されている。また本尊の薬師仏、十二神像は専門家の鑑定をうけていないが、堂の創建時代よりも古いとの見方もあり、調査が望まれる。

 なお、栄福寺薬師堂は隣りの鎌刈村から移築されたものとも伝えられているが、確たる証跡はない。

(月刊 千葉ニュータウン2004.11.13)


第三十二回 印旛象

 「印西風土記」第六回で、下総台地に「ナウマン象」が棲息していた時代があったことに触れた。今回はその象について述べてみたい。

 昭和四十一年三月、水資源開発公団によって進められていた印旛沼開発――利根川の水を印旛沼を経由して京葉工業地帯に供給するとともに耕地を開発することを目的としたプロジェクト――エ事のさなか、南北調整池を結ぶ捷水路の掘削現場から動物の骨格と思われる化石が発見された。

 ブルドーザーのオペレーターは少年時代から古生物に興昧をもっていて、骨格の大きさや歯の状況から象のものらしいと直観したという。

 現場では直ちに工事が中止され、国立科学博物館が中心となって発掘調査が行われた。

 その結果、ナウマン象と認定され、その周辺の調査の結果ほぼ一体分の化石を収集することが出来た。出土地は印旛村瀬戸の湿地帯で「ダイダラボウの足跡」(ダイダラボウは古代の伝説上の巨人)と呼ばれていた場所で、適度な涌水が遺体の保存に適していたものと思われる。

 ナウマン象は、明治時代初期に、日本政府の招きで来日して日本の地質学の発展に大きな功績をのこしたドイツ人・ナウマンの功績を記念して付けられた名称である。

 中国北部、台湾、日本列島の各地から化石が発見されている。アオモリ象、トクナガ象、ヤべ象など出土地に因んで呼ばれているが、同種とされており、「印旛象」の呼称も認められている。

 佐倉市、下総町でも一部が発見されていると云われるから、日本列島が大陸と陸続きであった数十万年前から下総台地には多くの象が闊歩していたのであろう。

 更新世末(三〜二万年前)、長野県野尻湖の立ヶ鼻遺跡の発掘で旧石器時代の人類と共存していたことが確認されている。このことは同時代の石器が出土した本埜村瀧水寺裏遺跡や、印西市木刈遺跡などに住んだ旧石器人もナウマン象・印旛象を狩りの対象としていたと言えるであろう。

 その後、気候の変化や地殻の変動によって日本列島から姿を消していった。

 印旛村の山田橋のほとりと捷水路の発掘現場には記念碑が立てられている。発掘された骨格は復元され、栄町の「房総風土記の丘」に展示されている。

 閑話休題

 発掘された化石は、未発掘の部分を合成樹脂で補って復元されたと発表され 千葉県文化センターに一時保管の後、「房総風土記の丘」に移送された。その際係員が余りの軽さ(重さではない)に腰を抜かした。化石と合成樹脂では比重が全く違うため一体成形が出来ず、全部が合成樹脂による模型であることが判明した。写真のやや黒っぽい部分が現物であると当初説明されていた。

(月刊 千葉ニュータウン2004.12.11)