(平成17年掲載分)

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<外-1>ひとの値段 <33>平岡の七重瓦塔 <34>厳島神社と弁天様 <35>古墳時代の小林 <外-2>イスラム世界の酒事情 <36>淀藩・大森役所の絵図 <37>カラスウリ <外ー3>ブータン王国 <38>印旛村歴史民俗資料館 <外-4>ところ変われば−中国の庚申信仰− <39>龍腹寺地蔵堂金剛力士像 <40>松虫寺と七仏薬師


<番外編>その一 ひとの値段

 【編集部注】本コラムの著者・五十嵐行男さんは、折にふれて頻度シルクロードを中心とする海外の「奥地」を旅行しており、時折うかがう「探検談」の中には興味深く、胸躍らせる話も多い。そうした海外の「奥地」への関心や訪問先で見聞した事象等々については、いずれ機会があったら系統だって報告していただくことを考えたいが、本欄でも時々「印西風土記・番外編」のような形で、旅の途中で遭遇したエピソード、こぼれ話を紹介していただくこととした。

 チベットの帰りにネパール国の首都カトマンズに寄り、ひととき隣町のパタンを訪れた。中世の面影を残す寺院群が世界遺産に登録された美しい街で、曼陀羅や仏像などの工芸技術に優れたことでも知られた街である。

 しかし、ここも紛れのないインド圏の観光地であった。物売りが間断なく付きまとい、「センエン、センエン」「テンダーラ、テンダーラ」と手を差し出すのを振り払いながら歩くのは、チベット帰りの疲れた体にはかなりしんどかった。

(写真)パタンの世界遺産地区

 「ノーサンキュウ」「いらない」を繰り返すか、全く無視して辛抱して歩く以外に方法はない。

 うっかり「高い」などと言おうものなら「いくらなら買う?」と食い下がられて身動きもできないことになる。

 しかし、有料の博物館のなかまでは、さすがの彼女たちも付いてこなかった。三〇分ほど静かな雰囲気にひたり陳列品を鑑賞して博物館を出た私は、さて、つぎは何処を見ようかとあたりを見渡し思案していた。その時である。

 見覚えのある真っ赤な衣装と、手に数珠をぶら下げた女性が一人、じっと私を見つめているではないか。

 私を「カモ」と見て待っていたのだ。良くみると黒い皮膚、眉間に丸く朱を塗ったインド系の、歳のころ二〇前後のなかなか愛くるしい娘である。

 近づいてくると「ニホンノオキャクサン、コレカッテクダサイ、ヤスイデスヨ」と二コッと笑みを浮かべた。

 しかし私には一目で粗悪品と分かる数珠をいくら安くすると言われても買う気がしない。

 「イラナイヨ、イラナイ」と私は首をふって断りながら「クマリの館」に向かって歩きだした。彼女はニコニコと笑いながら付いてくるではないか。

 振り返ると、黒いながら鼻筋の通ったなかなかの美人である。かといって買うわけには行かない。しかし、追い返すのも惜しいのが男心である。

 「僕は数珠はいらない。そうだ、あなたなら買ってもいい」という意味のことを言った。こう言えば諦めて離れていくと思ったからだ。ところがまったく意外な言葉が返ってきた。 「いくらなら買う?」 相変わらず笑みを浮かべているが、真剣である。

 さあ、困った。女性を金で買う趣味を持っていない私には、ネパールに暮らすこの魅力的なインドの女性にいくらの値を付けたらよいのか、まったく分からない。

 チベットで予定外の買い物をした私の懐は寂しくなっている。「一〇〇ドル位は残っているかな」とひとり言をいった私の言葉を女は鋭く捕らえていた。「ノー、ヤスイ」と女は腹立たしそうに言った。目本人は、彼女たち街頭で土産物を商う者にとって良い客である。カタコトながらかなりの日本語は話せるし、出来なければ商売にならない。

 「じゃあ、いくらだ」。私の問いに彼女はしばらく考えていたが、「一,〇〇〇ダーラー」と恥ずかしそうに答えた。「一,〇〇〇ドルか」。その頃の為替相場は一ドル一二〇円だから、一〇〇ドルは一万二,〇〇〇円、一,〇〇〇ドルは一二万円である。

 東南アジアの外国人観光客に対する商品の言い値は五倍以上というのが常識で、半分以下に値切るのが商談の始まりで、一二万円は吹っ掛け過ぎではないか。

 「タカイ」、「ヤスイ」、「プライスダウン」、「マケラレナイ」。こんなやり取りがしばらく続いた。

 いつの間にか現地のガイドが私たちの間に立ってやり取りを聴いていた。そしてげらげらと笑いだした。

 「お客さん、あなたが悪い。あなたはワンナイト一〇〇ドルと言っているんでしょう。彼女はワンライフ一,〇〇〇ドルで良い、と言っているんですよ。」

 私は絶句した。私に彼女の一生を一二万円でゆだねようというのだ。

 買う気もないのに、戯れに、貧しい人の心をもてあそんだことを悔いた。

 私はポケットから一,000円札を一枚取り出して、数珠を言い値で買い求め、「ごめんね、あなたを買ってやれなくて」とつぶやいてその場を離れた。

 (月刊 千葉ニュータウン2005.1.15)


(第三十三回)平岡の七重瓦塔

 二〇〇四年十月、千葉県文化財センターは『印旛郡平岡の馬込遺跡から一九九七年に出土した破片を復元した結果、奈良時代末から平安時代(八世紀末〜九世紀前半)に造られたとみられる七重塔二基であることが判明した。一つの遺跡から七重塔が二基出土したのは国内初という。出土したのは「瓦塔」と呼ばれる木造建築の塔を模した精巧な焼き物で、それぞれ高さ一○六・五センチと一○五センチ。屋根瓦など、木造建築構造の細部まで表現されている』と発表し、全国のメディアに配信された。

 馬込遺跡と名付けられたこの遺跡は、自然公園建設予定地の造成に伴う事前調査によって発見されたもので、眼下に利根川、JR成田線を望む標高およそ三○メートルの台地上である。

 以下は「千葉県文化財センター三〇周年記念展・解説シート」の要約である。

 『二基とも、相輪(そうりん)や屋蓋(やがい)部を始め、木造建築の細部まで精巧に表現している。形態や成形・調整技法などがほぼ同様で、同一工人集団によって千葉市周辺或いは遺跡周辺で造られた可能性が高い。別々に成形・焼成された屋根と壁部分を一層ずつ組み建てる構造になっている。

 瓦塔片の集中地点に隣接して、奈良・平安時代の掘立柱建物の柱穴が見つけられており、二基の瓦塔を安置した堂と推定できる』

 さて、瓦塔のモデルとなった木造の塔とは何なのか。

 紀元前五〇〇年、古代インドで仏教が誕生したが、ブッダ入滅の時、弟子たちはその遺徳を偲び、ブッダの骨(仏舎利)を持ち帰り「ストゥーパ」と呼ばれる墳墓に納骨した。仏教が中国・韓国を経て倭に伝来する過程で、ストゥーパは「卒塔婆」(そとば)と音訳され、形も先の丸い円筒状のものから中国の楼閣建築の様式と融合して、三重塔、五重塔、七重塔などの多重塔となった。

 仏像が信仰の対象となったのは、ブッダ入滅から五〇〇年後のことである。昨今、ともすると塔は仏像を納めた金堂や本堂の付属物と思われ勝ちであるが、塔こそ信仰の中心であった。

 瓦塔はこれまで全国で四〇〇件以上が出土している。そのうち関東地方からおよそ二二○件、千葉県で三○件、印旛沼周辺からは八〜九件が調査されていて、かなりの密度である。

 佐倉市長熊廃寺祉、印西市木下廃寺址は七世紀後半から八世紀前半の様式の屋根瓦が出土したことで知られている。厚さ三センチ、縦横二○センチを越える瓦の出土は、龍角寺(栄町)のような大寺があったと想像されるが、龍角寺の金堂のような存在を示す遺構や遺物は発見されず、瓦塔の破片が出土している。

 瓦と瓦塔の伴出は、大きな瓦で覆われた堂のなかに、瓦塔が安置されていたことを物語っているのではないか。

 瓦塔は木造多重塔の写しであると言われているが、馬込遺跡の七重塔は何れの塔の写しであろうか。いま、古代の木造七重塔を観ることができない。かつて奈良東大寺の塔と、各地の国分寺の塔は七重塔であったと言われている。とするならば、馬込出土の瓦塔は下総国分寺(市川市)のコピーであったのであろうか。

 出土する瓦塔のほとんどは崩壊して原型に組み立てることは不可能で、馬込遺跡の七重塔の復元は、印西の誇りであり宝物である。

 いま、県内を巡回展示されている七重の瓦塔が一日も早く、故郷に帰ってくることを祈っている。

(月刊 千葉ニュータウン2005.2.12)


第三十四回 厳島神社と弁天様

 私の散歩道に古くから「弁天様」と呼ばれる小さな嗣ががある。昨年(一九○四)暮れ嗣の前に真新しい鳥居が建てられた。「あれっ、弁天様って仏像じゃなかった?」と疑問がよぎった。そして年が明けて気がつくと「厳島神社」の掲額がなされていた。

 印西地方で最も良く知られている六軒の厳嶋神社も、通称は弁天様である。

 弁天様は神か仏か。調べてみた。

 六軒の弁天様は「印西名所図会」によると「この地の開拓に携わった宮島勘右衛門が安芸の宮島(広島県)から勧請したものといわれている。」

 言うまでもなく安芸の宮島は朱塗りの社殿で有名な厳島神社のことである。全国に約六,〇〇〇社が分祀されていると言われる。

 「印旛郡誌」(大正二年刊)によると印西地方にも実に多くの厳島神社が勧請されている。多々羅田、白幡、泉新田、大森、亀有、発作、高西新田、和泉(以上、印西市)、野口、谷田(以上、白井市)、龍腹寺、笠神、安食卜杭、(以上、本埜村)、松虫(印旛村)などの集落である。

 さて、安芸の宮島・厳島神社は広島湾の西南、周囲三一km程の小島・厳島に鎮座している。中央部に海抜四五四mの蒲山が奪えて古くから神聖な島として、特に航海者から信仰された。厳島と言う名も「斎(いっき・身を清める、神に仕える)島」の意味を持つと言われている。

 社伝によると、推古天皇の五九二年、筑前の国宗像神社の祭神である市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)、瑞津姫命(たぎつひめのみこと)を勧請したのが厳島神社の起こりであるという。

 この三女神は航海の神であり、海の守り神である。瀬戸内海の航海の安全と安穏を祈って厳島神社は創立されたのである。

 ところで、印西地方の厳島神社の祭神は市杵島姫命であり、弁天様と呼ばれている。

 その多くは川端や里山の湧水他の畔に建てられている。

 ではなぜ三女神のうち市杵島姫命だけが弁天様なのか。

 神道と仏教は別のものではなく根源は一つである、という「神仏習合」思想が古代日本に生まれた。東大寺大仏の建立を伊勢神宮に祈願したり、天周大神すなわち日輪は大日如来である、と言うような信仰形態である。

 古代インドの原始宗教から生まれた弁天は、仏教の「金光明経」により日本に伝えられ、三女神の一人市杵島姫命が弁天に化身した。

 厳島神社の祭神である市杵島姫が中世以降の神仏混清思想のなかで寺院や神社で弁天様、弁財天として祀られ、信仰されてきた。

 そして、七福神の一つとし幸福・智慧・弁才・財福・音楽の神として、琵琶を弾く天女像として親しまれてきた。

 市杵島姫命・田心姫命・瑞津姫命の三女神を祭神とする宗像神社が印旛村・印西市・白井市に十二社ある。筑後国宗像数社から直きに招来され、何れもその集落の鎮守となり、弁天様とは誰も言わない。

 そして、宗像神社を祀る集落に厳島神社はない。

(月刊 千葉ニュータウン2005.3.12)


第三十五回 古墳時代の小林

本稿第二十五回で常陸風土記の「鳥見の丘」は、小林の鳥見神社周辺であろうという見解を述べた。今回は「鳥見神杜」が創建された頃の小林地区の状況を探ってみよう。

 いまJR成田線の南側に展開する住宅地は、かつて下総台地の先端の丘陵と「印旛が浦」の波に浸食されて作られた小支谷から形成されていた。香取の海の最奥部の印旛が浦は、日本国誕生以前から近畿から東北をつなぐ「道」の中の重要な水路であった。大和政権はその道の要所に一族を配置し、あるいは地方の有力者を配下に取り立てて勢力を拡張していった。彼ら地方の豪族によって造営されたのが、上総・下総に残る古墳である。上総では古東海道の上陸地点に近い小櫃川や養老川の下流域の農業生産力の高い地方に出現した。四世紀中頃から五世紀に始まり、六世紀には最盛期を迎える。

 下総に古墳が現れるのは、上総に遅れること数十年、四世紀の終末期のことである。

 昭和四十六年、かねてから鶴塚古墳と呼ばれて注目されていた小林の丘陵に土砂採集の重機が動きだした。このことは直ちに千葉県教育委員会に連絡され、緊急調査が行われた。

 下総台地の最先端に造営された鶴塚は立地条件や、表面から採集された土器片等からかなり古いものと推定されていたが、調査の結果五世紀初頭(紀元四百年代)の円墳であることが分かった。

 円墳の経四十四メートル、高さ三メートル。埴輪は凡そ十個立てられていたと推定されたが、ほとんどが破砕されていた。しかし観察の結果、円筒埴輪、朝顔形円筒埴輪と判定された。その他、弥生式土器の壷棺、鉄剣、鉄刀、鉄矛、鉄鏃、滑石やガラスの小玉など豊富な遺物が出土した。

 対岸の成田市公津原の大古墳群は、未発掘のまま保存されたものが多く、未だ全容が詳らかでないが、四世紀終末期の古墳が数基含まれているようである。

 五世紀初頭全国に国造が置かれ、印西地方は成田周辺に置かれた印波国造の支配下になったようであるが、印西地方最古の鶴塚古墳の存在は、小林が国造配置以前の有力者の拠点であり、印旛が浦を挟んで印東、印西の勢力が括抗していた時代があったことを語っているのではなかろうか。

 中世の小林城の調査とともに行われ、「小林古墳群」と名づけられた四基の古墳は、六世紀前半から後半にかけて築造されたものである。隣り合う浅間山の二基の円墳は未調査であるが、これら七基の古墳と鳥見神社周辺の馬場古墳、駒形古墳、道作古墳群二十基、合わせて二十七基の古墳群の存在は、印波国の中において確固たる存在感を示している。

 平成九年、道作古墳一号墳の調査が行われた。この墳丘は、全長四十六メートル、前方部の幅凡そ三十三メートル、高さ四メートル、後円部は直径二十五メートル、高さ三・五メートルと計測された。

 これは印西地方最大のものである。印波国に統一されてもなおこのように大きな古墳が造られたことは、印波国造であっても干渉出来ない、大和政権と繋がりのある有力者が小林に居たことを思わせる。

(月刊 千葉ニュータウン2005.4.9)


<番外編>その二 イスラム世界の酒事情

 中東と呼ばれる国々はビールやワイン発祥の土地とされているが、多くはイスラム教国となり、旅行案内にはこう書いてある。「この国ではアルコールの販売、持ち込み、飲酒は禁じられています」。これを読んだだけでその国への旅を断念した多くの人を私は知っている。

 今回はこれら中東各国の体験的「酒事情」。

イラン

 私がイランを訪れたのは一九九六年、今から考えるとまだまだウブだった私は、掟どおり一滴の酒も持参しなかった。ところが――。

 某商社の女性社員は空港の免税店で買ったウィスキーを三本もスケスケのビニール袋にぶら下げて入国するではないか。彼女はイラン観光局のパンフレットにイラン紹介の記事を書くほどのイラン通だが、イラン支店に勤務する同僚を慰問するためだという。結局、彼女は何のお咎めも受けなかったし、さらに現地で乗ったバスの運転手は「僕、日本酒大好きです」という。そんな事情に疎かった私は、十日間という人生最長の休肝日を過ごすハメになった。

 最近の政変で宗教指導者が首相になり、以前よりも厳格な禁酒国に戻り、よほどの運がないと持ち込みは難くなったようだ。

パキスタン

 この国も酒禁制の厳しい国だが、外国人が宿泊する一流のホテルでは、パスポートを提示して許可を取れば客室内にビール、ウィスキーなどを届けてくれた(一九九六年)。

 昨年秋(二〇〇四)、カラコルムハイウエイから中・パ国境のクンジュラブ峠を越えて入国した。国境の検問は厳しいが、地酒の入手は容易と事前に聞いていたので、持参の酒類は中国内で胃袋に納めてしまった。

 果たして入国審査は厳重で、手荷物だけでなくトランクまで開けられた人もいた。

 中国からパキスタンへの入口、旧フンザ王国の谷の村々はリンゴや杏の花の開花時には、「桃源郷」と讃えられる美しい秘境。ホテル・フンザエンバシーのフロントに聞くと「フンザ水」という地酒の葡萄酒があるという。

 注文して三○分程待って届けられた「フンザ水」は、ワインというより葡萄汁に安物の焼酎を混ぜた感じで、アルコール分十二、三度、何とか酒の代用にはなる。貧しい村々のために政府が製造・販売を黙認しているようなので、私たちは人助けとばかりに大いに飲み、二・三日分を買い込んで車に積んだ。これを飲み干すころには、町の四星ホテルのルーム・サービスでちゃんとした酒にありつける筈であった。

 ところが――。隣国アフガニスタンの動乱で難民やテロリストが流れ込んで政情不安となったため、酒は一切ご法度。結局、ここでも五日間ほどの休肝日を強いられた。

リビア

 カダフィ大佐率いる社会主義共和国、人口の九○%がイスラム教徒、その多くがスンニ派とのことである。出発前の説明にも、酒類の持ち込みと飲酒は厳禁と念を押された。数年前にリビアに入国した友人は、航空機内サービスのワインの小瓶をうっかりポケットに入れたのが発覚し、入管事務所で三○分も油を絞られたそうだ。

 二〇〇三年三月、一万年以前の人類が描いたという岩絵を探訪すべく、リビアに入った。入国の審査は呆気ないほどお座なりであった。手荷物、スーツ・ケースは一応]線検査機を通すが、係員は仲間とのお喋りに余念がない。「こんなことなら酒を持ってくるんだった」と後悔したが後の祭り。

 しかし、旅仲間が救ってくれた。数人の同行者が密かに、とはとても言えないほどの酒を持ち込んでいて、私は寝酒に不自由することはなかった。

 サハラ砂漠の外縁、アカクス山脈はオレンジ色の砂原に真っ黒な岩山が吃立する不毛の地である。私たちは砂原にテントを張って岩絵を尋ね歩き、夜は満天の星を仰いだ。

 ある夜、テントの外で賑やかな声がする。五○メートルほど先で火が焚かれ、私たちをエスコートする現地人のスタッフたちの歌声が聞こえる。思わずテントを出て、近づいていくと、私のために席を開けてくれた。山羊の焼肉をご馳走になり、紙コップに入った水を渡された。飲むと、何とこれが四○度もあろうかという酒である。驚く私に、彼らは大笑いしながら「リビア・ウィスキー」だと教えてくれた。深夜、砂の上を千鳥足でテントに帰った。

 次の晩も私はイカの燻製やチーズなどを持って彼らのパーティを訪れた。現地スタッフの中に「ポリス」と呼ばれる若者がいて、外国から来る旅行者の安全を守るとともに、遺跡の保護、違法行為の監視などのため、旅行者に同行するのが任務だそうである。

 ある夜酔った勢いで、本当にポリスか聞いてみた。私と同程度の英語力らしい彼は、ポケットから二枚のカードを出した。一枚は身分証明書。一枚は空港のスルー・パスであった。

 あのリビアで、カダフィ大佐に忠誠を誓ったポリスから密造酒のお相伴にあずかるとは何という幸運であろうか。

(写真)サハラ砂漠の野営地(上)と原始絵画(水争いの戦闘)

(月刊 千葉ニュータウン2005.5.14)


第三十六回 淀藩・大森役所の絵図

 印西市役所の裏側の台地に「陣屋畑」と呼ばれる畑地があり、江戸時代初期からこの地方の役所が建てられていた。

 延寶三年(一六七五)から元禄十年(一六九七)までは、印旛・手賀沼地域の開発に従事した幕府代官守屋助次郎の陣屋として、享保八年(一七二三)から幕末までは、淀藩大森役所として使用された。

 このうち「淀藩・大森役所」の機構、人事、藩政などについては、多くの研究者によって明らかにされて来たが、建物についての資料を目にする事はなかった。あの「利根川図志」でさえ、「大森・・・・白井よりの通路にして稲葉君の陣屋あり」と触れているだけである。小陣屋とは言え軍事的な側面を担っていたからであろうか。

 このたび、印西市教育委員会のご好意により、初めて公開されたのが、この絵図である。(所有者・宮島千恵子様)

 木下河岸から白井を経て、市川に至る街道から東に四五間に「陣屋入口」と書かれ、さらに東七九間に「名主宅入口」がある。陣屋門から西へ二○間戻ったところに、何故か「髪結床」が書かれている。他にも名主たちが集まって相談したり、宿泊したりする「公事宿」が数軒あった筈であるが書かれていない。

 この図は慶応三年(一八六七)三月に大庄屋宮嶋宗十郎が制作したものである。陣屋と云う言葉が使われているが藩の正式文書には「大森役所」の名称が使われている。守屋助次郎時代の慣習を引き継いでいるのであろう。

 この役所は、享保八年五月に佐倉藩稲葉正知が山城国淀城に城替えを命じられてから間もない時に建てられたものと思われる。当時の稲葉家は一〇万二〇〇〇石の大名であったが淀の城付きに全てを与へられず、凡そ二万四千石余は旧領地の下総、常陸両国に残されたので、その支配のために大森役所が置かれた。内訳は、印旛郡の内、大森、鹿黒、和泉、小倉、竹袋、別所、小林、平岡、龍腹寺、中根、荒野、滝、物木、笠神、酒直卜杭新田、造谷、松虫の十七カ村に六,二六三石。埴生郡一四カ村八,九一二石。香取郡一一カ村三,七六八石。相馬郡五カ村二,二一九石。常陸国一○カ村三,三九三石。村数は五七カ村である。

 この役所には代官が二人いて、役宅の位置によって東様、西様と呼ばれ、月番で藩務を勤めていた。他に手代が三名、使番が六名、部屋頭、溜り水夫などが若干名、合わせて一五・六名ほどが居たようである(天保一四年当時)。

 同じ頃、佐倉藩は奥羽地方に四万石余の飛地領を持っていたが、その経営に当たった「柏倉陣屋」には七○人もの役人を駐在させていた。大森役所の少人数による経営を可能としたのは、何であったろうか。一つには江戸の藩邸と近かったことであるが、地元の事情に通じた有力農民や村役人を取立てて重用した。前述の「使番」は領内の名主層などの有力者の子弟を登用し武士身分を与えた。その他、五七カ村の地主の中から、大庄屋や、数人の「郡中取締役」に抜擢して、苗字帯刀を許し、年貢の徴収、紛争の処理、宗門改め、五人組改め、鉄砲改めなどを担当させて藩への帰属意識を高めさせた。

 その頂点に立ったのが大森村の名主宮嶋家である。彼はただ独り大庄屋に任命され、大森役所の隣に屋敷を構え、藩令の取り次ぎや、村々の要望を藩に伝える重要な役目を担って、藩の期待に応えた。

(月刊 千葉ニュータウン2005.6.11)


第三十七回 カラスウリ

 カラスウリが、今密かなブームである。インターネットにアクセスしたところ三六,二〇〇余件が検索対象となっている。これを全部覗いたら一体何日、いや何年かかるだろうと思うとIT文化の利便性とは?と疑問がわいてくる。

 それはさて置き、五、六頁見ていると大体の傾向が分かった。

 花の繊細な美しさ、真っ赤に熟した実の可愛らしさを撮影に成功した野草愛好者やアマチュアカメラマンが、その嬉しさをホームページに載せたと思われるものが多く微笑ましい。他には実や根茎の漢方薬としての効用を述べたものが多い。

 カラスウリ(烏瓜)はウリ科のカラスウリ属で、近縁種にオオカラスウリ、キカラスウリがある。蔓性の多年性の植物である。

 夏の夜にレース編みのように繊細で純白の花を咲かせて見るものを魅了する。山際の薮などに自生しているが、昼は萎んでいるのであまり人目に触れることがなかったが、車で容易に夜間の外出が可能となり、カメラの性能も良くなって関心が一挙に高まった。

 夜に花を咲かせるのは花粉を交配させる夜行性の蛾などの昆虫を呼び寄せる、棲み分けの行動であろう。

 実は初めは青く、白い筋を付けているのもあるが、熟すにつれて鮮やかな赤または朱色に変わる。この色から「唐朱瓜」を語源とする説があるが、筆者は一度だけ烏がつついているのを目撃したことがある。実が熟するころ、蔓ははぼ枯れているので地上に落ちてから、烏など大型の鳥類や兎、鼠などの餌になるのであろう。

 種や根茎(ダリヤの芋状)は古くから漢方の薬として利用されている。黄疸、しもやけ、便秘、ひび、あかぎれ、あせも、催乳、痔疾、鎮咳、火傷など多種多様である。

キカラスウリ

 キ(黄)カラスウリという同属のカラスウリがあることは図鑑などでは知っていたが、目に触れることはなかった。

 黄色といっても茶色に近く、大きさはカラスウリより一回り大きい長さ十センチ前後、形は球形またはラグビーボール状のものがある。五年前、我が家の近くの薮で見つけた時の驚きと喜びは、身が震えるほどであった。最初の一個は直径七センチ程の球形であった。それから毎年数回通い詰めているが花を見ることはない。三年後、今度はそこから二百メートル程離れた所で二個、ラグビーボール形のものを見つけた。雄雌異株で直径一センチ程の蔓と七ミリ程の蔓が並んでいた。どちらが雄でどちらが雌か、今年は観察して確かめたいと思っている。

 カラスウリとの違いは実の色、大きさの他にいくつかある。蔓が多年生で、春十センチほどの間隔にある節から芽を出すこと。葉の表面は、カラスウリにある産毛状のものがなく滑らかであること。根茎は芋状でなく、文字通り茎であること(この茎から取った澱粉は「天花粉」としてアセモの薬として売られていたそうである)。

 播種、発芽後何年で開花結実するかもまだ分かっていないらしい。筆者はこの種を庭に蒔いて毎日観察している。読者の皆さんの近くにも必ず有るはずです。探してください。

(月刊 千葉ニュータウン2005.7.9)


<番外編>その三 ブータン王国

 ブータン王国へ行った。中国チベット地区、インドに国境を接した人口凡そ五十八万、面積四六,五〇〇平方キロは東北地方の青森、岩手、秋田、山形四県とほぼ同じである。

 多くがチベット仏教(ラマ教)の熱心な信者である。

 平地の少ない山国で、住民の三分の二がチベット系、三分の一がネパール系で、谷間に開いた町や村に住んでいる。外貨収入の殆どは豊富な水を利用した電力をインドに売って稼いでいる。防衛力はインドに任せ、学校教育は英語で行われている反面、急激な外国文化の移入を防ぐために入国制限を行っているという不思議な国である。最近煙草の販売を禁止したことで話題となった。

 この国へ入国するにはインドから車で陸路を辿るか、国営ドゥク・エアのバンコク、カルカッタ、デリー空港便を利用する以外にない。

 それもパロ空港の規模が小さいため小・中型機三機を使っての運行なので、有名な四月のパロ、九月のティンプーのツェチュを参観しようとするなら、早めに申し込みをしなければならない。ツェチュはチベット系仏教徒が彼の地に仏教をもたらした至宝の師・パドマサンババの布教活動を再現し、その威光を悪霊たちに示威し追い払うために営まれる法要である。五日間にもわたって行われる法要には近郷近在から押しかける、着飾った数万人の善男善女の前で、日本の伎楽、獅子舞、神楽に似た芸能が奉納される。

 最終日の夜明け、僧侶たちの大法要のうちにパトマサンババを中心にあまたの仏たちが色鮮やかに描かれた大仏画(トンドル・絹のアップリケ)が信者の手で巻き上げられてツェチュはクライマックスを迎える。

 日本人にブータンという国が広く知られるようになったのは、昭和天皇の葬儀に国王が日本の和服に似た民俗衣装「ゴ」を着用して参加して以来のことである。写真は春祭にやって来た人びとである。

 男性の着ているのを「ゴ」、女性の着ているのを「キラ」という。日本の着物「呉服」にそっくりである。「ゴ」の丈は膝下およそ一○センチ。

 その下はハイソックスと革靴で、これが男性の国民服である。小中学生はこれを着て学校へ行き、国王、大臣から公務員、会社員にいたるまで、着用が義務づけられている。

 ある日の夕食時、同行の「お姉さん」達の話題が、「ゴ」の下に何を履いているのだろうかということになって盛りあがった。国土の平均高度は三千メートルと云うから、夏でも朝晩はかなり冷える。

 「昔から着物の下は褌に決まってるだろう」と私がからかっが、誰も信用してくれない。

 次の朝、ホテルの前で現地のガイドやドライバーたちがバスの屋根に登って私たちの荷物をバスのルーフに括り付けていた。すると二人の高齢のお姉さんがすうーっとバスに近づいたかと思うと、空を見上げた。

 やがて、帰って来た彼女たちはつまらななそうな顔をして呟いた。「ナアーンダ、日本の女子高生がミニスカートの下に履いているものと同じじやない。」

 いま、海外旅行をする高齢の女性たちの元気さと探究心は、われわれ爺さんたちの遠く及ぶところではない。

 私の家族や周辺に女子高生はいない。手鏡を持って階段を登る勇気もないから、彼らが「ゴ」の下に何を履いているのか、私はいまだに分からないでいる。

(月刊 千葉ニュータウン2005.8.6)


第三十八回 印旛村歴史民俗資料館

 印旛村歴史民俗資料館」は印旛村岩戸の宗像小学校の隣に所在する、印西地方では唯一の歴史・民俗資料の展示施設である。

 民俗資料とは、民間に古くから伝わる衣食住・生業・信仰・年中行事などに関する風俗習慣、民俗芸能やこれらに用いられる衣服・器具・家屋その他の物件で、民族の生活の推移や歴史の理解のために欠くことのできないものと定義されている。

 印旛村では、急激な社会の変化によって伝統的生活文化の資料が失われていくことを憂い、印旛村の歴史と文化を後世に伝え、郷土の歴史と民族文化への理解と関心を深めるために調査蒐集を行い、昭和六十一年十月に開館された。

 印旛村の属性はその名が示すとおり、すべての村落が印旛沼、あるいはその支谷に面し、古代から生活の多くを沼に依存し、影響を受けていることにある。従ってこの資料館の展示も印旛沼との関わりが中心となっている。

貝化石

 今からおよそ十万年前、印旛沼周辺は海底にあったが、氷河期による海面の低下と地殻の隆起によって、下総台地と太平洋に開口する古東京湾が誕生した。後、古東京湾は香澄の海、印旛湖に収斂するが、その時代に形成された下総台地には多くの貝類が化石となって残された。その代表的なものが印旛高校の木下貝層で国の天然記念物に指定されたが、当資料館には吉高、山田地区で採集された、木下貝層と同じ時期の貝化石二三七種類が展示されている。

水生植物

 かつて印旛沼は水生植物の宝庫であった。周辺の農民は沼の浮草や岸辺の真菰、葦を取って肥料や建築材、燃料などに利用した。師戸の笠井貞夫氏の報告によると、開発前(一九五○)の印旛沼には四○種以上の水生植物が観察されたが、一九九一年にはおよそ一三種に激減しているという。ここには今は絶滅したインバモ、ササバモ、イバラモ、ホザキノフサモなどの貴重な写真が展示されている。

漁撈具と漁法

 印旛沼は水深一〜二メートルで、浮草や水草は魚、虫、鳥など多くの動物を育てた。

 沼の漁撈は、農業の間の余業として行われることが多かったが、海に遠い沼周辺の住民に動物性蛋白を供給する大切な産業でもあった。

 ここには浅沼に棲息する魚類を捕獲する漁撈具と漁法を展示解説している。土地柄、ウケ、フクベザル、ヤス、グレ、生牢など竹を利用したものが多いが、精緻な造りは機能美を持った民芸品としても評価されてよいものである。

農機具

 村の主な生産活動は稲作である。下総台地の周縁の谷津田と印旛沼を切り開いた水田で使用された農機具が展示されている。多くは工場生産のものであるが、泥深い水田耕作に用いた「田下駄」など手作りの農具もあって、米作りの苦労が偲ばれる。

養蚕具

 明治時代の一時期、千葉県は長野、群馬と並ぶ養蚕県であった。それを支えたのが農家の繭作りであった。繭は工場へ出荷するだけでなく、女性が糸を紡ぎ、布を織って家計を支えた。

 この他にも原始時代からの考古、歴史資料、日々の生活に用いられた炊事道具など、昔の農村の暮らしを物語る、懐かしい資料が整然と展示されている。いまこれだけの資料を蒐集することは不可能であろう。

 印旛村歴史民俗資料館の設立に情熱を傾けた、元印旛村村長吉岡敏夫氏の御炯眼に敬意を表したい。

(写真)上・民家の台所、下・漁撈具のコーナー

(月刊 千葉ニュータウン2005.9.10)


<番外編>その四 ところ変われば−中国の庚申信仰−

 印西風土記第二十二回で庚申信仰とその形態の一つである「庚申塔」について述べた。概略は次の様なものである。

 「庚申信仰」とは中国の道教で説く「三尸(さんし)」説を基とし、仏教や神道、その他民間の雑多な習俗が合体してできた民間信仰である。

 「三尸説」とは、人の体内には三尸という虫が住んでいて、何時も人間の侵す罪科を監視していて、六十日に一度くる「庚申(かのえさる)」の夜、人々が寝静まった隙に体から抜け出して天に上り、天帝にその人の罪科をつげる。天帝は罪の深い人の命を奪う。

 三尸は宿り主の命が絶えると天に昇り神となることが叶うという。

 人が庚申の夜に徹夜をしていれば、三尸は体内を抜け出すことが出来ないから、身を慎んで夜明かしをすれば、長生きができる、という思想が説かれた。

 人々は講を結んで庚申の夜に集まり、夜を徹してお経や呪文を唱えた。

 彼らは信仰の証として、あるいは講結成の記念として庚申塔を建立した。

 塔の上部には青面金剛の像や文字、庚申の文字などを彫刻し、下部には「見ざる、聞かざる、言わざる」の姿を表した三匹の猿を彫刻した(写真上)。

 これは、三尸の虫が宿り主の人の悪い行いを、見ないで(或いは見ないことにして)下さい。聞かないで(聞かなかったことにして)下さい。天帝に告げないでください。この三つの願いが込められていると伝承されてきた。

 ところが先日、思いもかけぬ事態に遭遇したのである。所は、中国河南省洛陽の龍門石窟の入口の土産物売店。

 何と、四猿の陶製の置物が売られているではないか。

 見ざる、聞かざる、言わざるの左端に座り股間を手で塞いだ四匹目の猿は何猿と呼んだら良いのだろうか。

 筆者はこう考えた。日本では、人が眠っている間に体を抜け出す三尸を閉じ込めるために、庚申の夜眠らないで過ごす。中国で見つけたこの四猿は人の全ての穴(孔・腔・肛)を塞いで三尸を閉じ込める信仰形態を示していないか(ただし、なぜか両者とも鼻腔は塞いでいない)。

 庚申信仰が日本へもたらされる途中で三猿に変化したのか。日本への渡来後に四猿になったのか。あるいは四猿は中国河南省洛陽周辺のみの風習なのであろうか。

 興趣は尽きない。

(月刊 千葉ニュータウン2005.10.15)

(追記)読者から次のような話が寄せられたので、紹介します。
「日本でも庚申の夜に性交すると不具者が生まれると信じられていました。四匹の猿は、見ざる、聞かざる、言わざる、交わざるを表しているのでしょう」と。なるほど。


第三十九回 龍腹寺地蔵堂金剛力士像

 干害に苦しむ百姓の姿を見かねた小龍が、龍王の許しを得ないで雨を降らしたために龍王の怒りに触れ、身を三つに引き裂かれ、頭部が落ちた龍閣寺を龍角寺(栄町)、腹部が落ちた延命院を龍腹寺、尾の落ちた大寺を龍尾寺(八日市場市)とそれぞれ寺号を改めたという説話は広く知られるようになり、三つの寺を訪れる人は後を絶たない。

 龍腹寺地蔵堂のすぐ傍らに住む私は時々案内を請われるが、そのおり、地蔵堂仁王門の仁王尊(金剛力士立像)の姿を拝したいという声が多い。というのは、秘仏ではないが尊像を保護するために、正面に金網入りのガラスを装備し施錠したために内部を覗くことが不可能となり、参拝者があるたびに管理者に鍵を開けてもらうことは出来ないからである。

 そこで今回この欄で勇姿を紙上公開することにした。阿(あ、口を開けた形)像、吽(うん、口を閉じた形)像ともに嘉永六年に江戸銀座の仏師高野左京光慶と、布佐村(我孫子市)に住む仏師椙山宗哲宣慶の共作である。

 このことは、昭和の解体修理の際、胎内から取り出された銘板によって判明した。

 銘板にはさらに次のようなことが書かれている。

「嘉永元年(一八四八)十二月二十四日暁、二王門始め太子堂地蔵堂鐘楼残らず灰塵と成る。焼けた地蔵堂の須弥檀の板に阿の力士は慈覚大師、吽の力士は雲慶の作であると書かれていたが、古老の言い伝えでは、両像ともに雲慶、丹慶の作であるという。

 一夜のうちに作って去ったので、乳を彫ることが出来ず乳無し地蔵と呼ばれ、(何故か)乳の出の悪い婦人の信仰をあつめている。」

 慈覚大師円仁は平安時代に活躍した天台宗の名僧として知られ、雲慶は奈良東大寺南大門の国宝「金剛力士立像」などの作者として一世を風靡した造仏師で、この記載を信じる訳にはいかない。

 印西市浦部の観音寺にも雲慶に因む乳なし仁王尊があり、創建は慈覚大師であると伝えられている。両寺ともに天台宗である。

 阿像、吽像の頭部のはめ込み部には

東都浅草新鳥越町 大仏師 塚多敬信
千次郎
弟子 万 吉
弟子 彦之助
四人にて 謹塗之

と書かれており、江戸時代末期の造仏事情が分かってくる。

 なお、現在目にする阿吽像は茨城県江戸崎町の仏具店「樽見屋」によって解体修理が行われたものである。

(月刊 千葉ニュータウン2005.11.12)


第四十回 松虫寺と七仏薬師(印旛村松虫)

初秋の一日、散歩がてら訪れた松虫寺に、薬師様は不在であった。突然訪問して何時でも誰でも拝観させて頂けるものではないが、奈良国立博物館の「特別展・古密教」に出展されているとのことであった。これまであまり脚光を浴びることもなく、印旛沼のほとりにひっそりと鎮座していた七仏薬師像が、仏教芸術の殿堂に招かれたのは如何なる事情が有ったのであろうか。

 その一つは仏教彫刻の歴史的研究が深化して、重要文化財「木造薬師如来坐像一躯・立像六躯」からなる松虫寺の七仏薬師の彫刻の技法の高さ、美的水準の高邁さとともに、七仏薬師の持つ信仰形態の歴史的な意義が注目されたことによるものであろう。

 七仏薬師の多くは天平期末から平安時代に造像された。

 薬師仏左手に薬壷を持っているので、誰にでも容易に判別ができ、名前から薬・医に関わる仏であることが分かる親しみやすさが信仰を集めた。

 薬師像の光背に六仏を配したもの、七躯の同じ形の薬師像を並べたものが一般的であり、中央に坐像を据え、左右に六躯の立像を配置した、松虫寺の像は、藤原期の特徴を示す稀少な優品であるとされている。この像は下総国で多く使われている榧(かや)材が用いられていることから、地元で制作されたものと考えられている。

 この七躯の薬師と対面していると、今から千年も前に病を癒すために都から、未開な戎(えびす)の住む東の地へ遥々とやって来た松虫姫の身の上を偲ばずにいられない。

 松虫寺と松虫姫についてはいくつかの伝承が流布しているが、ここでは平成十五年に刊行された「摩尼山医王院松虫寺」の松虫寺ものがたりによって語ってみよう。

 聖武天の第三皇女・松虫姫は重い病を患い苦しんでいた。

 ある夜、姫の枕元に薬師仏が現れて告げた。「東国下総の国萩原郷に祀られている薬師仏に祈りなさい」と。

 姫からこの話を聞いた聖武天皇は当時天下一の僧・行基と乳母・杉自を供に命じ下総に姫を送った。下総への道は大波に洗われる船旅、闇に動めく獣や悪党の襲撃を退けるなど困難な旅であったが、病を治したい一心から頑張って印旛沼のほとりにたどり着いた。松虫姫は毎日薬師仏に祈り、その合間には貧しい村の人々を救うために、養蚕や裁縫、読み書きを教え、捨てられた子供達を育てる施設を作ったり、難病に苦しむ人のために療養所を作ったりしました。松虫姫は病で苦しんでいるのは自分一人ではないと悟ったのです。そして人の力になることで姫自身も次第に元気を取り戻し、都へ帰ることが出来ました。

 下総の国の薬師仏の霊験に感激した天皇は行基に命じて寺を建立し、七仏薬師を祀らせました。七仏薬師としたのは、いくつかの分身を作ることによって、その利益を広めようとの願いを表しているものと言われています。

 聖武天皇、行基は奈良時代の人。七仏薬師は平安時代後期の特徴を示す一木造り。時代が合わないのが気になるが、この坐像のお顔を拝していると、その優しさが千年前の松虫姫の面影を写したものであるに違いないと思われて来るから不思議である。

 姫を都から背に載せてきた牛は年老いて都に帰れず、身を沈めた池が「牛むぐり池」、牛の死を不憫に思い都に帰ることのなかった乳母・杉自の墓、姫が都から持ってきた銀杏の杖から根を張ったという大銀杏、姫の死後に都から分骨された骨を祀った廟などが松虫寺を中心に散在する。

 緑の木々に囲まれた静謐な松虫の郷を歩いていると、全ての伝説が本当であるように思えて来る。

(月刊 千葉ニュータウン2005.12.10)