(平成18年掲載分)

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<41>印西の竜神降雨説話 <42>武蔵型板碑(板石塔婆) <番外編>その五 不思議な国イエメン <番外編>その六 (続)不思議な国イエメン <43>獅子舞 <44>宗像神社  <45>笠神の三義人 <46>マコモ(真菰)馬


第四十一回 印西の竜神降雨説話

 高い山も大きな川も持たない北総台地の人々の生活を古代から支えたのは、天水(雨水)であった。村々は台地の谷頭に溝や溜め池を掘って農耕に利用した。しかし、度々襲ってくる日照り続きの気候には抗する術がなく、ただ神や仏に祈るほかなかった。降雨を司る「龍」の字を持つ寺を建て(青龍山、龍角寺、龍腹寺、龍湖寺、龍淵寺など)、神楽や獅子舞を奉納して降雨や豊作を祈願した。これらは文化財や民俗芸能として今に伝えられている。

 また信仰をはぐくむ過程で多くの伝説や説話が生まれ、伝えられている。その幾つかを紹介してみよう。

禅僧・卜童

これは赤松宗旦の「利根川圖志」に書かれた話である。

 文政初めのころ(一八一八〜)、印西の辺り(内容から印旛村吉高か萩原あたり)に卜童(ぼくどう)と呼ぶ禅僧が漂泊してきて住みついた。樹下祠堂を栖とし、着物にも頓着無く、食を与えるに二椀の他は食さず、と愚鈍・愚直の乞食坊主と紹介している。

 ある年の夏、この辺りは大旱に見舞われ、利根川を始め川沼は渇水し、井戸の水も尽きてしまった。諸寺諸山の祈祷も、農民の雨乞の祈りも空しく、雨の降る験はなかった。

 その時である。乞食坊主卜董が村人に告げた。「印旛沼の佐久知穴に住む龍神は私の友人である。彼に頼めば必ず雨を降らしてくれるだろう。佐久知穴の傍らに祭壇を作ってくれたなら、私はそこで一七日の間飲食を断って龍神に祈ります」

 村の人々ははじめ卜童の話を一笑に付したが、卜童の必死の説得と、迫り来る飢渇への恐れから、ト童の話にのってみるかという気になり祭壇を誂えた。卜童は壇に登り大声で誓文をあげた。「もし七日の間に雨を降らせなかったら、佐久知穴へ身を投じて龍神の住処を穢します」

 卜童の憂民を救おうとする必死の祈りが龍神に届いたのか、七日目の昼頃から黒雲舞起こり、篠を突く如くの雨が降りだし、農民の苦しみを救った。村人が差し出した単物一枚と麻の衣を身につけて、飄然と村を後にした。

 (注、佐久知穴:印旛村吉高と萩原の沖合にあった湧水穴)

清戸の泉

 白井市清戸の青龍山薬王寺に伝わる「青龍山薬王寺並びに堂作辨財天女縁起」に次のような話が書かれている。

 平安時代の大同年間(九世紀初頭)に大旱魃があり、村人は飢饉に襲われていた。

 その時通り掛かった諸国巡礼の僧侶が龍神に雨乞いをして雨を降らせ村人を救った。そのとき、雨とともに降ってきた龍神を祀るため辨財天堂を建て、周りに池を掘った。

 いまも船橋カントリークラブ八番ホールのほとりにあるこの他は「清戸の泉」として県指定史跡に指定され、絶えることなく水が湧いている。

龍角・腹・尾寺

飢餓に苦しむ農民の生活を救うために小龍が、龍王の許しを得ないまま雨を降らして龍王の怒りに触れ、身を三つに引き裂かれ、頭部が落ちた龍閣寺が龍角寺、腹部が落ちた延命院が龍腹寺、尾が落ちた大寺が龍尾寺(八日市場市)とそれぞれ寺号を改めて、降雨祈願の寺として広く知られている。

 しかし、三つの寺の縁起に共通しているのは前記の事だけで降雨祈願の時代、小龍の人間世界への現れ方などはそれぞれ異なっている。この三山の僧侶が、三つの寺の存在感を高めるために相談して作られた説話であろう。

 この仏教説話はかなり早くから流布されていて、鎌倉時代には尾張国の僧無住によって記録されている。

(月刊 千葉ニュータウン2006.1.14)

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第四十二回 武蔵型板碑(板石塔婆)むさしがたいたび(ばんせきとうば)

 今を去る三十五年程前、私は暇を見ては龍腹寺境内の森の中を鉄の棒を持って歩き回っていた。かって龍腹寺には五重塔があったと伝えられ、室町時代の嘉吉二年(一四四二)の建立を示す棟札が伝来し、「塔の下」の地名が残ることから、塔の礎石が何処かに埋もれているに違いないと捜していたのだ。

 そしてある日、地蔵堂裏の墓地に続く森の一角でボーリング棒が鋭く反応した。あの時の感動は今も忘れられない。

 しかし出てきたものは塔の礎石などではなく、大量の武蔵型板碑と呼ばれる板石塔婆であった。私は知人を通じて千葉県史編纂室に報告した。

 昭和四十七年十二月から発掘魂査が行われ、千葉県下最大量の板碑が出土し、中世の信仰の姿を知る有力な資料として、現在もその研究が続けられている。

武蔵型板碑とは
 図のような形の、長さ一メートル前後、幅二、三○センチ、厚さ三センチほど、青色または緑色の石碑で作られた、死者の供養塔、塔婆、墓石のことを歴史・民俗学で「武蔵型板碑」と呼んでいる。

 武蔵国(東京都・埼玉県・神奈川県の一部)の荒川上流部の秩父や野上近辺から産出する緑泥片岩を用い、武蔵国を中心に分布することから武蔵型板碑と呼ばれている。千葉県では主に荒川、利根川沿いの東葛飾地方と印旛沼周辺に濃く分布している。

 板碑の型は概ね図のようなもので、頭部は三角形とし、身部との間に二条の切り込みで区切り、身部の上部に仏像や(数は少ない)や種子(仏像を表す梵字)を彫刻し、下部には紀年銘、戒名、建立の趣旨などが刻まれているが、その全てが揃っているものは稀である。経費の都合で一部を省略したものや、加工し易い石材を使用したため破損や剥落したためである。

 私の手元にある少ない文献によれば、埼玉県江南町の阿弥陀三尊を彫刻した嘉禄三年(一二二七)を最古とし、多くは中世の鎌倉・南北朝・室町・戦国時代に造立された。下総地域では印西市の文化財指定されている浦部観音寺蔵の建治元年(一二七五)の弥陀一尊(種子)を最古とする。

 印旛地方の武蔵型板碑については川戸彰氏(元千葉県史編纂室勤務)の先駆的な報告がある(昭和五十五年十一月)。

 川戸氏の論文によると、千葉県下で最も濃密な分布を示すのは東葛飾地方であり、それに次ぐのが印旛地方であるが、武蔵、東葛飾地方から遠ざかるに従って漸減する。

 紀年名により制作年代が判明するものを市町村別に数えると、本埜村七五基、印西市三七基、佐倉市三五基、白井市三二基、八千代市二九基など総計二三〇基に挙がる。

 面積の少ない本埜村の数が多いのは前記の龍腹寺境内から八〇〇余基の出土があり、その内完形のものが一七一基、紀年銘が判読出来るものだけでも六六基に上がると言う千葉県下でも突出した出土があったためで、中世の龍腹寺が印西地方の仏教信仰の中心であったことを示している。

 板碑の中心には仏を表す梵字(種子)が彫られている。これによって信仰の有り様を推定することが出来る。川戸氏の分析によると、先述の二三○基のうち、弥陀一尊が一四○基、弥陀三尊五○基である。ほかに釈迦如来が一基あるなど散見するが、主流は阿弥陀仏である。

 下総の武蔵型板碑の特徴のひとつに種子の下に花瓶がほられていることがある。

 鎌倉時代の後半六○年間に三七基、南北朝の六○年に八四基、室町前期一三○年間に三二基、応仁の乱(一四六七)以降の戦国時代の一〇〇年間に八七基の紀年銘を読み取るととができる。日本中がかってない動乱に巻き込まれた時代に武蔵型板碑は作られた。江戸時代前期のものが数基を数えるがやがて消滅する。多くは集団墓地や寺院跡に建てられていたが、独立した個人墓にも散見する。江戸時代には名主階級に成長していく農民層の墓地である。

(月刊 千葉ニュータウン2006.2.11)

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(番外編)その五 不思議な国イエメン<前編>

TOYOTAの国
 イエメン共和国は北をサウジアラビア、東をオマーン、南をアラビア海、西をスエズ運河の入口紅海に接した、アラビア半島最南端の国である。日本のおよそ一・五倍の国土に二千万余の人々が住み、イスラム教を国教としている。

 紅海に臨む西部には三千メートル級の山が聳え、紅海から沸き上がった水蒸気がぶつかって雨を降らすが、東部の砂漠(或いは岩漠)地帯は年に数回降る雨が滲みこんだ涸れ川に依存した暮らしをしている。一九八○年代に油田が開発されて近代化が進んだが、いまだアラビアンナイトの時代を彷彿させる生活を垣間見ることができる。

 鉄道のない国なので長距離の移動や物資の輸送は自動車に依存している。ラクダやロバを見かけることも多いが、もっぱら自家用である。

 看板や道路標識の殆どはアラビア文字で読めないが、何処でも出会うのは小型トラックの荷台に書かれたTOYOTAの文字である。車のおよそ八○%はトラックで、そのうちの九五%くらいはTOYOTAである(この数字は統計ではなく筆者の感である)。

 私達が乗った車もTOYOTAのランドクルーザーであったが、乗用車も殆どはTOYOTAであった。北アフリカの砂漠観光も、かつて主流を占めた英国製のランドローバーは駆逐され、ランクルに王座を明け渡してしまっている。

砂漠の摩天楼
 イエメン発で世界に知られているのはコーヒーのモカ、シバの女王、乳香だろうか。

 いま、イエメンツアーの売りは、「中世のアラブ、砂漠の摩天楼」である。

 地震の無い国、可耕地の少ない国、建築用材(木材・石)に恵まれない風土は、日干し煉瓦を使用した高層集合住宅を生み出した。泥に草や藁を混ぜて練り、平地に厚さ五センチ程に敷きつめ、縦横三十センチ程の木枠で型取りし、五目ほど乾燥させると壁材が出来上がる。最下層の土台だけは石やセメントで固めるが、その上は日干し煉瓦を重ねていく。

 梁や床にはアフリカなどから輸入した木材を使用し、漆喰で化粧すれば完成である。最近は新市街にコンクリートで建てた家屋に住むことも多くなっているそうだが、この写真の高層住宅は観光用ではない。最下層には山羊や牛を飼い、一棟に血縁を同じくする五所帯前後の家族が生活し、古いものでは千年以上使われていると言われる。

二十一世紀の侍たち
 写真の男たちはイエメンの男の正装である。ターバン、刀、長衣、背広、腰布の組合わせである。農業や漁業など激しい労働をするときは軽装となるが、新市街で背広にワイシャツ、ネクタイで働くビジネスマンも、仕事や知り合いに会うために旧市街に行くときはこのスタイルに変身する。ジャンビーアと呼ばれる刃が湾曲した短刀は、日本の侍の刀と同じで、自らの行動を律する魂が込められた刀で、滅多に抜かれることはない。

 モカコーヒー発祥の土地に住みながら、貧しい彼らの多くが飲むのは、コーヒー豆の殻を煎ったコーヒーである。彼らは皆、礼儀正しく正統なイスラムの教えを守る紳士であった。

(月刊 千葉ニュータウン2006.3.11)

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(番外編)その六 不思議な国イエメン<後編>

イエメンの女性
 紅海の入り口で古くから港町として開けたアデンや、首都サナアの新市街では男女とも洋服姿が多いが、旧市街で成人女性の素顔や、洋服姿を観光客が眼にすることが出来るのはホテルのフロントくらいと言ってよい。

 街中や畑で見かける女性の多くはチャドルという全身を覆う黒い衣装を着ている。砂漠に近い地方に行くと、更にその上に薄いベールを被っている。これは異性に肌をさらしてはならないという戒律と、砂塵や太陽光線から身を守る効果を考えてのことであろう。

 外国からの女性の観光客もベールを着用するよう求められる地方やイスラム寺院もあるが、特に髪の毛は異性の劣情を刺激する?ものとして隠すことを要求される。

 写真1の黒衣の女性はアラビア海に臨む港町ムカッラから北へ二五○キロ程のアルハウダ地方の農村で写したものである。チャドルを着た上に日除けの尖った麦わら帽子を被って農作業をしている、この地方特有のものである。

 これだけの重装備でも近寄って写真を撮ることを許して貰えなかった。

 では、あのチャドルの下には何を着ているのであろうか。これは、男性でなくとも気になることである。

 写真2は、農村の雑貨店で売っているインナーウエアである。首都のサナアなど大都市の洋品店では、日本のスーパーの婦人服売り場と見紛うほどの色彩やデザインの衣料が売られている。家族だけや、女性同士の集まりではチャドルやベールは脱いでくつろぐそうである。

瘤とり爺さん
 こぶとり爺さんを最初に見かけたのはサナア旧市街のスーク(市場)であった。片頬を大きく膨らませた男があちこちで商いをしている。これはカートというアカネ科の多年生草木の、朝取りした柔らかい葉を口に含み噛み潰してエキスを飲み下している風景である。カートには軽い神経を興奮させる作用があって、酒を飲まないムスリムの男たちの楽しみである。一人で、或いは数人が集まって、我々がチューインガムを噛むような形で常用している。ガムと違うのはエキスを飲み込んだあとも葉を吐き出すことなく、次々と葉を補充して、二、三時間も口のなかに溜めて口を膨らませていることである。驚いたことに仕事中の警官や軍人、運転手も楽しんでいることである。

 私も勧められて口にしたが、日本の茶の葉から苦みを取ったような何とも締まりのない味であった。

モカ
 モカと聞いて連想するのはコーヒーのことであろう。

 いまモカと言えばコーヒーの種類として人口に膾炙しているが、元はといえばアフリカ大陸やアラビアで収穫されたコーヒー豆が紅海に臨むイエメンの港街モカに集められ、ヨーロッパやユーラシア大陸に積み出されたことによる。のちにコーヒー豆の種は密かに持ち出され、イエメンの独占的特産物ではなくなり、かつての商館は見るも無惨な姿をさらしていた。

 いま、原種に近いコーヒー(イエメンではカフワ)が栽培されているのは幹線道路から外れた、二千メートルの高地の棚畑で、部族社会の色濃いこの地方に入るには有力者の案内が必要であるという。

(月刊 千葉ニュータウン2006.4.15)

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第四十三回 獅子舞(ししまい)

獅子とはなにか

 「印西風土記」第一回はオコトであった。そこで私は春の農耕の始めの儀式としてのオコトについて書き、獅子舞が奉納されることを述べた。

 今回は、現在も伝承されている印西市平岡、別所、和泉、本埜村中根の「獅子舞」を通してその姿を紹介してみよう。

 「獅子」を辞書で調べると、けもの、獣、しか、いのしし、ライオンなどと出ているが、印西地方の獅子舞で使われている獅子頭はどれにも似ているようで似ていない。東北地方には明らかに鹿の頭と判る面を被ったシシ舞が伝承されているが、印西地方の獅子頭は八世紀ころ中国から伝来した伎楽や舞楽に伴ってもたらされた、アフリカに棲む百獣の王ライオンを東南アジアで想像して作られた疑似ライオン・獅子のバリエーションであるらしい。

 平岡、中根は前述のとおり春の農耕始めのオコトの行事として奉納されたが、今は中根では四月第三日曜日、平岡は五月三日に行われている。

 オコトはかって四月二十八日前後に行う集落が多かった。印旛村山田、萩原でも昔は四月二十八日をオコトとし獅子舞が行われた。四月末は稲の籾蒔きが終わり、忙しい田植えが始まる前の一日を束の間の仕事休みとし、獅子舞を演舞して豊作を祈念し、酒や料理を持ち寄って楽しんだ。

 別所の獅子舞は孟蘭盆にあたる八月二十三、二十四日に行われる。また獅子舞の多くが神社境内で奉納されるのに、ここだけは宝泉院と地蔵堂前の仏教寺院に奉納される。以前は春夏秋の三回行われたと伝えられているが、夏だけ残されたのは、炎暑に発生する害虫から作物を守り、人を襲う悪疫から身を守る祈りを込めて舞われたのか。

 和泉の獅子舞は「いなざきの獅子舞」として九月二十三日の秋祭りに鳥見神社に奉納される。「いなざき」は「稲の収穫を前にして」の意味で、秋の豊作を感謝する気持ちを表現していると言われる。

三頭獅子

 これらの獅子舞の主役は三頭の獅子である。

 平岡ではじじ獅子・せな獅子・かか獅子、別所では雄獅子・中獅子・女獅子、和泉では大獅子・中獅子・女獅子、中根ではおやじ獅子・せな獅子・かか獅子と呼ばれている。呼び方は異なるが、壮年の雄獅子、若獅子(せな)、雌獅子である。

 三頭の獅子は写真のような扮装(頭飾り、着物、袴などの形や色彩にそれぞれ特色があるが基本的な系統は同じである)で腹部にくくり付けた小太鼓を叩きながら道笛に導かれて会場に登場する。

 印西町史・民俗編(平成八年刊行)によって別所の獅子舞の構成を見てみよう。

 「楽人(笛師)二人、獅子が三頭、花笠持ちの児童が四人出演する別所の獅子舞は、道笛に始まり、鑽仰の舞、愛楽の舞、鎮護の舞、降伏の舞からなっている。舞は全体を通じて雄獅子と中獅子の勇猛な舞が厄除け地蔵尊の悪疫退散の誓願を表し、三頭の獅子が揃って四方の花笠を中心に舞うのは四方固めを表現し、雄獅子が女獅子に示す深い愛撫の姿は歓喜心を表している」。

 獅子舞の演目には幾つかの共通する演題がある。「四方固め」「綱(弓)くぐり」「喧嘩の舞」などである。

 「四方固め」は、舞いの場を固め清めることと舞いの開始を告げる意味を持つ。

 「綱(弓)くぐり」は、低く張られた綱や弓の間の狭い空間を潜り抜ける、勇気と体力を誇示する所作である。

 「喧嘩の舞」は、じじ獅子とせな獅子がかか獅子に強さと若さを示すために闘う舞いで、生殖行動と子孫繁栄の意思が籠められているとされる。

 これを具体的に見せてくれるのは、和泉の獅子舞にだけ登場する「道化」である。

 「道化」は、写真のような異様な風体をし、渦巻状の溝のある四十センチほどの木製の金精様に半紙や水引で化粧したものを携え、獅子舞の周辺で見物の女性たちにセクシャルな所作を仕掛けて笑いを誘う。

 二〇〇一年四月、ブータン王国のチベット仏教の春祭で、鼻が異常に大きな面を被り、木彫りの男根を振りながら登場した道化を見たとき、遠く離れた印西の獅子舞と繋がっていることに大きな驚きと、深い感銘をうけた。

(月刊 千葉ニュータウン2006.5.13)

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第四十四回 宗像神社

 印旛沼周辺の集落に鎮守として祀られている神社の分布には興味深いものがある。

 印旛沼東岸に麻賀多神社十八社、西岸北西部に鳥見神社十八社、南部に宗像神社十三社が各々まとまって鎮座していることである(神社数は独立した境内五〇〇坪以上の土地に社を建て集落または地域の鎮守として維持されている無格社、村社、郷社などで、氏神、屋敷神などは含まない)。

 そのうち鳥見神社と麻賀多社は下総国以外には存在せず、全国におよそ九十社あると言われている宗像神社も印旛村と印西市、白井市の狭い範囲に十三社が固まって分祀されているような例は他になく、宗像大社の地元旧宗像郡内でも三社を数えるのみである。

宗像神社は航海の神・水の神

 印西地方で宗像神社を鎮守として伝える集落は、印旛村岩戸・師戸・鎌苅・吉田・造谷・大廻(旧宗像村)、瀬戸・平賀・山田・吉高(旧瀬戸村)と印西市船尾・戸神(旧船穂村)、白井市清戸(旧白井村)である。

 宗像神社の本社は福岡県宗像市田島(元は宗像郡玄海町田島)に在る辺津宮(へつぐう)を第一宮として田寸津比売命(タキツヒメノミコト・神名は「古事記」による)を祭り、その沖およそ十ニキロに浮かぶ大島に第二宮仲津宮があり、祭神は市杵島比売命(イチキシマヒメノミコト)である。さらに約四十キロ、九州と朝鮮半島を結ぶ玄界灘の孤島・沖ノ島に第三宮沖津宮があり、多紀理毘売命(タキリヒメノミコト)を祭神とし、この三宮を総称して宗像大社と言われている。

 この三神は天照大神と素盞尊が「うけい(誓約)」を行ったときに生まれたという女神で、タキリヒメを長子とし、イチキシマヒメ、タキツヒメと続く。

 これら三女神を祀った神社を何故に「宗像」と称するのか。諸説があるが、古代この地方は海上生活民の根拠地であり、その統率者である「胸形・胸肩」氏が勧請し、宗像大宮司となったことに由来するものと謂われている。

 古代、この海は朝鮮半島から大陸に到る海路の門戸であった。沖ノ島の学術調査によって二十数箇所の祭祀遺跡と十二万点以上の祭祀遺物が発見された。これらは大和朝廷が国の安泰と海路の安全を祈って行われた祭祀に奉献したものと謂われ、三百六十点もの国宝が含まれている。

 瀬戸内海の航海の神、海の守護神として三女神が六世紀に安芸の宮島に勧請され「厳島神社」の祭神となり、分社でありながら、平清盛や源頼朝などの深い崇敬と庇護があったために、今は本社宗像大社より広く知られ信者も多い。それには、三女神のひとりイチキシマヒメが神仏習合の思想によって、弁天様・弁財天に化身し、幸福・智慧・財福など現世利益の神として信仰を獲得し、全国に広まって行ったことも寄与している。

 いま、印西の里山の谷頭の湧水他に弁天様の小祠が祀られていることが多い。稲作に欠かせない水の神でもある。

 印西の宗像神社は印旛沼のほとりの台地にあり、大和王権の東北攻略の水路を確保するために配置された地方豪族の氏神として勧請され、稲作農民には水源を守る神として信仰されてきたのであろう。

 印西に隣り合って分布する鳥見神社は、大和国鳥見山地方に君臨した豪族・物部氏の系譜を引く神社といわれるが、その鳥見山麓には古くから宗像神社が鎮座している。

 「胸形・胸肩」氏と「物部」氏との接点は明らかにし得ないが、両者は相携えて印西地方の開発に当たっていたものと思われる。

(月刊 千葉ニュータウン2006.6.10)

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第四十五回 笠神の三義人

 本埜村役場の東正面に小高い独立丘がある。中世千葉氏の家臣原豊前守が城を構えたという遺構が残り、今は天台宗南陽院の境内となっている。

 本堂の前に顕彰碑が建てられている。表面には印旛郡長武藤宗彬の篆額による文字が彫られている。

 裏にはこの碑が建てられた趣旨がおおよそ次のように書かれている。

 江戸時代の正保・明暦のころ(一六四四〜一六五七)、笠神村に三人の義侠者があった。

 笠神村は平坦で肥えた土地柄で、下総台地を背にし、東北は葦や萩、水草の繁茂する『埜原(やわら)』と呼ばれる広大な原野と『印旛ガ浦』に面した豊かな農村であった。

 笠神村と、隣り合う小林村は田畑の肥料とする草木を採集する埜原の帰属をめぐって、しばしばしば紛争を繰り返していた。正保二年(一六四五)四月には幕府の役人が検分し、両村の入会(いりあい・共同利用)とすべし、と裁定したが、両村の争論は収まることがなかった。

 ここ笠神村に豪邁不羈をもって知られた三人の農民がいた。鈴木庄吉、岩井與五兵衛、岩井源右衛門である。

 三人は笠神村の主張を弁論しようと小林村へ赴いたところ、竹槍などを持った農民に囲まれ捕らえられそうになった。三人は憤然として身を挺して格闘し、数人を殺傷した。

 そののち三人は自首して自らの正当性を訴えた。彼らの主張は認められ、村下の埜原は笠神村に帰属することとなった。しかし三人は殺人を犯した罪により死罪とされた。

 笠神村の農民は、己の身をすてて村の権威を守った三人の義挙を弔うために、処刑された村下の微高地に墓石を建てるとともに、毎年十月に十夜にわたって近隣の僧侶を集めて読経と説教の法会を催してきた。そのためか、明磨から明治に到る二三○余年の間、笠神村は水害・干害・蝗害・飢餓に襲われたことがない。

 それもこれも三人の義侠者の勇気ある行動がもたらしたことである。

 この事件の起こった正保から明暦の時代、利根川下流域は激動の時代であった。対岸の公津村に惣五郎事件が起き、惣五郎親子が処刑されたのは明暦元年と言われ、笠神村に事件が起きた前年であった。そして数年後の寛文二年(一六六二)には笠神埜原新田の開発が始まる。

 印旛沼周辺の低地は湿地から陸地に変わりつつあったが、帰属が決まっていない土地を巡って、周辺の村々から耕作地として、あるいは採草地として注目をあびていた。

 笠神の「三義人」はまさにこのような時代を背景に生まれたのである。

 江戸時代、為政者の裁定に反逆して生まれた義民を、密かに追悼することはあっても顕彰することは叶わなかった。

 板垣退助らが活躍する自由民権運動が高揚した、明治二十四年に笠神の義人顕彰碑は建立されたのであった。

(写真上)笠神・南陽院境内の顕彰碑
(写真下)押付・薬師堂前の墓石

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第四十六回 マコモ(真菰)馬

 七月初め、ニュータウンのスーパーへ行くとお盆用品を売っていた。ずいぶん早いなと思ったが、考えてみると、八月に盆の行事をするのは私ども旧人類だけであって、都会育ちの方々の住むニュータウンのお盆は七月であることに気がついた。

 よくみると、提灯、線香、蓮花、真菰で作った筵や縄にまじって、これも真菰を材料にした牛馬まで売られているではないか。都会に親戚がない私は都会のお盆の迎え方を見たことがないので、川岸に生えている真菰を使った盆の棚飾りなど想像だにすることがなかった。その牛馬を買い求めて帰り、東京暮らしの永い友人に尋ねたところ、東京でも前々から真菰を使った棚飾りをしていたこと、板橋の方に作る家があり、買いに行ったり、雑貨屋などで売っていたのを求めた記憶があるという話をしてくれた。

 では、かつて印西地方で作られていたマコモ馬はどんなものであったのか(マコモで牛も作る地方もあるが印西地方では確認されていない)。

 印西地方と一口に言ってもかなり広い。土地柄や作り手による固体の差は大きい。私のコレクションのなかからやっと一枚の写真を見つけ出した。

 裏に'91とあるから十五年前の写真である。「房総のむら」の報告によると、千葉県内では大きく別けて七種類の馬型があるとされており、写真は「印旛沼・手賀沼型」と分類されているもので、右上のずんぐりとした「香取型」とは対照的に細長く華奢な作りである。

 型は大同小異であるが、呼び方は様々である。材料からつけられた「マコモ馬」、作る日から「七夕馬」「七日盆の馬」、役割から名付けられた「盆の馬」「馬流しの馬」「迎え馬」などがあり、「七夕(たなばた)馬」と呼ぶ地方が一番多いと言われている。

 七夕といえばあの牽牛と織姫が年に一度デートを許されている七月七日の行事であるが、七夕伝説と結びつく風習はマコモ馬にはない。

 八月七日は「七日盆」と言って、お盆の仏事の始まりの日である。七日盆と七夕が同日であるために、仏・先祖を迎えるための行事が、七夕の日の馬と呼ばれるようになったのではないだろうか。

 印西市亀成ではマコモ馬を大小二頭作り、大きい馬は七日の朝、「ご先祖様、馬に乗って来てください」と仏迎えのために亀成川へ流し、小さ馬は軒に下げておき、盆の終わりに供え物や棚飾りと共に川へ流して仏を送ったと言う。馬を二頭作る風習は印西地方には他に無いようであるが、一頭の場合も仏の送迎の意味が込められている伝承が多い。隣の八千代市などでは牛と馬を作ることが知られている。これは牽牛の牛に因むものではなく、盆が終わり冥界へ帰るときに仏は馬に乗り、牛は土産を積んで送るためと言われているようである。

 子供がマコモ馬を川辺に牽いて行き、草を刈って馬に背負わせて帰り、庭に草を敷いてマコモ馬を飾る行事が各地で盛んに行われていたと言われているが、これも仏の送迎を意味するものと思われる。

(写真上)本埜村竜腹寺のマコモ馬。右上は成田市で作られたマコモ馬。
(写真下)印西市のニュータウン地区のスーパーで売られていたマコモ牛馬(中国製)。

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