合併協議と説明責任
 合併コンセンサス
 合併協議と民意
 専門家の議論と世論のズレをこまめに修正していく必要
住民が共感できるまちづくりビジョンの提示を 
 月刊 千葉ニュータウン2009.6.13

合併コンセンサス
 平成16年に頓挫した白井市を含めた2市2村および今回の1市2村の合併協議をみていて、「合併と世論」あるいは「合併と民意」といった観点からの議論がもっともっと必要ではないかと感じる。

 まず、今回の合併協議では、合併協議を推進しようという市・村内のコンセンサスという点で、2村についてはおおまかなコンセンサスが成立している感じがあるのに対して、印西市についてみると現在のところ、住民レベルでのコンセンサスが成立しているとは言い難い。

 ここでいうコンセンサスというのは、必ずしも合併に賛成・反対のいずれの意見がどれだけ多いかという話ではなく、自分たちの市(村)の首長や議会が合併の話を進めることについてのおおよその理解とかイメージが住民の側にできているか、といったほどの意味合いである。

 それでいくと、印旛村では前の合併協議が破綻した後、執行部と議会が協力して、自立と合併との「2正面作戦」を追求してきた。基本的には自助努力で道を拓いていくが、再び合併の話が盛り上がった場合には、それなりに対応しようといった、比較的広範な合意が早くから成立していたようにみえる。これまでのそうした村内での議論および共通理解が、一定の熟度をもって合併協議をリードしているようにも感じられる。

 また、本埜村も、もともと村民の合併志向は、周辺のどの市町村よりも強かったし、現在も村長一人を除けば、全関係者が合併協議に最も熱心な姿勢をみせている。「合併」に対する具体的なイメージという点でも、たとえば滝野地区の住民などは、非常に現実的で具体的なイメージをもっていることが、直接会って話していると敏感に伝わってくる。

 これに対して、印西市では一般住民の合併に対する理解、関心が他の2村と比べて著しく低いという印象を受ける。

 印西市での合併に対する理解、関心の低さは、今回の合併が「印西市および印西市民にとって、どんな意味があるのか、合併によって印西市がどう良く(悪く)なるのか」という点が、一般住民の眼に全くといっていいほど見えていない、一般住民が合併について具体的なイメージをほとんどもっていないことに象徴されている。

 印西市では、今回の合併話は、平成18年11月印旛・本埜両村の首長、議会が印西市長に合併を要請してきたところから始まったという、もっぱら「経緯論」で説明されてきた。印旛・本埜から「頼まれたから」合併の話をしてるんですよという、いわば受け身の説明であり、今回の合併が印西市の将来にどんな影響があるのか、合併を通じてどんなまちづくりをしていくのかという「内容面」での説明はほとんど聞かれないし、議会などのオピニオン・リーダーたちも、そうした説明をまだ十分用意できていないようにみえる。

 合併協議と民意
  「頼まれたから」合併の話をしているんだという姿勢は、合併協議会などの場で、2村の代表者に対して何となく優位なポジションを維持するという戦術的な思惑から来ているのかもしれないが、一方でそのような受け身の姿勢からは、中身の充実した合併の姿、まちづくりの方向は見えてこないばかりか、いつまでもそのような説明を繰り返すのは、印西の住民に対して不誠実であり、住民からの不信を招きかねない。

 企業の合併(M&A)でも、たとえ当初の話が経営危機に陥った企業を救済するという動機であったとしても、救済(吸収)する企業の側は、それなりに相手企業を吸収するメリットを考え、自社の長期的な経営戦略の上できちんと位置づけた上で、合併の話を進めるにちがいない。ただ「頼まれたから」という理由だけで、よその企業を吸収するような経営者がいたとしたら、株主代表訴訟を起こされて、徹底的に責任を追及されるだろう。

 平成16年の白井市での合併問題をめぐる住民投票は、上記の株主代表訴訟に喩えるのが最もわかりやすいように思う。

 当時、白井市長は、2市2村の合併協議を進めながらも、合併についてほとんど何も言わず、ただ「民意に従う」とのみ言い続けた。いわば、具体的なM&Aの話に片足を突っこみながら、株主に対する説明責任を一切果たさず、「最終的にM&Aをやるかやらないかは、株主の皆さんのご判断に委ねます」というのでは経営者など要らないし、そんな中途半端な経営行動は、経営資源の無駄遣い以外の何物でもない。

 「民意に従う」というのなら、住民投票の結果が出た時点で、市長は自分の職をも投げ出すべきだったのである。それだけが、あくまでも「民意を尊重する」政治家としての意味のある選択だったと、その後の市長および市の歩みを見ていて、そう思う。
印西市に話を戻そう。

 合併に関わっているオピニオン・リーダーたちは、一刻も早く発想と姿勢を転換し、この合併は印西市の未来のために必要だ、印西市こそ未来のためにこの合併を求めているのだという説明のしかたに切り換える必要があると思う。

 印旛や本埜という人口1万前後の村の「生き残り」が心配だというが、印西だって6万余の中途半端な規模である上に、この程度の市で、これまでUR(都市再生機構)が築いてきた高規格のインフラを本当にきっちりメンテナンスしていけるのか。

◎すでに印西市内の小中学校のほとんどで校舎の雨漏り箇所が見つかっているが、十分補修できていない。

◎ 市民活動の拠点であるコミュニティセンターでは、毎年建物の修繕や補修箇所を市に要望しているが、予算などの関係でほとんど手つかず、毎年同じ内容の要望が提出されている。

◎かつて、東京などからも高い電車賃を払って観光客が訪れていた「コスモスまつり」は、URが手を引き、印西市に移管しようとしたが、印西市では引き受けることができず、現在はNPOが形を変えて開催している。あんなに住民満足度の高かったイベントを、なぜあっさりと止めてしまうのか。
 まあ、ことが花のイベントで済んでいるうちはいいが、重要な都市インフラでこのようなことが起こったら、このまちは急速にスラム化していき、人も企業も寄りつかなくなるのではないか。

 このたびの合併は、印西市が印旛、本埜を救うような話ではなく、印西市こそ、現在の洗練された「ラーバン環境」を維持発展させていくために、「最低でも10万人都市」をめざして、必死にならないといけないのではないか。

 専門家の議論と世論のズレをこまめに修正していく必要
 図は、いくつかの社会的なイシュー(問題、テーマ)をめぐる、当事者(専門家)側の取り組みと一般世論との論点のズレについて、インプットとアウトプットという観点で仮説を試みたものである。

 直接これらのイシューに取り組んでいる行政、議会、その他の専門家たちは、大きな社会的な要請から、専門知識を駆使するとともに、さまざまな社会的資源を動員して、問題解決に取り組む、つまり「インプット」サイドでの努力を積み重ねる。

 一方、一般消費者、国民、マスコミ等々は、そうした営為の外側にいて、専門家たちの努力の結果出てくる果実(アウトプット)を享受する立場にあるが、社会が豊かになるにしたがって、その評価ポイントは高まっていき、なまなかなアウトプットでは満足しなくなっている。

 特に最近、アウトプット側での議論が、インプット側で何が起きているか、どんなことが問題になっているかに無関心で、アウトプット側だけの論理や感情、気分などを重視する傾向が時とともに強まっているようにみえる。

 「庶民感覚」「台所(主婦)の視点で」「消費者主権」「生活が第一」「市民の目線で」等々のコピーに内包される価値観と、マスコミなどでそうした価値観が異様なまでに持ち上げられる傾向が加速しているようにみえる。

 「専門家受難の時代」ということが言われるようになって久しいが、それは、ここでいう〈インプット〉と〈アウトプット〉との乖離、ミゾがますます広がっていることと無関係ではないと思われる。

 ここで、とりあえずの結論として、インプット側にいる専門家としては、いたずらにアウトプット側に阿るのではなく、しかし一方で、インプット側で起きていることを誠実にアウトプット側に伝え、ミゾを少しでも埋めていく努力を不断に払っていくことが求められる。

 アウトプット側からのある程度の理解なしには、インプット側での取り組みにもいずれ支障が出ることが多いからである(インプット側の危機管理としても重要)。

 住民が共感できる まちづくりビジョンの提示を
 特に、市町村合併に関して言えば、インプット側での議論とアウトプット側での議論の隔たりは、一般に考えられているよりはるかに大きく、両者間のミゾを埋める作業には多大な努力を要する。

 インプット側での議論、取り組みの主要部分は、法定合併協議ということになるが、これはきわめて専門的・技術的・機能的・システム偏重的な内容であり、アウトプット側での議論、合併についての住民のコンセンサスとはほとんど無関係、没交渉的に組み立てられている。

 法定合併協議のプロセスは、総務省の役人が行政技術的にいかに卒なく、円滑に新市という「かたち」を作り上げるかという観点に凝り固まっているといってよく、ほとんどマニアックなまでに詳細かつ精緻な〈インプット〉作業で構成されている。

 合併協議の中では「新市基本計画」というのが、一見アウトプットっぽい装いをみせるが、これも国が予め用意しているひな型、マニュアルにあてはめて、一つのたたき台、計画の「器」を描いてみせているにすぎず、さながらどこぞの優等生が一夜漬けで書き上げた、無機質で血の通わない作文の赴きがある。

 他方、合併論議のアウトプット側では、しばしば情緒的・感覚的・シンボル的な議論が大勢を占める。情緒的、感覚的な要素は、それはそれとして尊重されるべきだが、インプット側で議論している「行政の機能」とは次元の違う話なのであり、両者をごっちゃに議論するのは、何も解決しないばかりか、しばしば多くのものを破壊してしまう。

 合併を推進するリーダーたち、特に印西市のリーダーたちは、この辺の議論を整理しつつ、法定協議で策定される「無機質な」計画ではない、政治家としての肉声で、まちづくりビジョンを住民に語りかけていく必要がある。それが、合併問題におけるインプットとアウトプットのミゾを埋め、最終的により豊かなアウトプットをもたらす道ではないだろうか。

 合併というような問題に政治家として関わる以上、自信をもってそのことをやってほしい。