地方分権時代の落とし穴

第1回 染太郎亡き後の地方行政は・・・・ 2002.03.09
  地方分権一括法の改正により、機関委任事務制度が廃止され、地方自治体が独自に行政事務の体系を作り、自分たちのマニュアルに沿って、地域特性に合った業務スタイルを開発していくこと が“できる”ことになった。しかし、問題は、法制度的にあるいは権限として“できる”ようになった(may)というのと、地方の側が 能力的に“できる”(can)かどうかは別の問題だ。 
第2回 足りないのはカネよりもチエ  2002.04.13
  財源さえ移譲されれば、は本当か。いくら財源が潤沢になっても、それを地域の長期的な発展のために生かしていくことは、それほど簡単なことではない(原発立地地域のケース、竹下内閣「ふるさと創生1億円事業」のケース)。 
第3回  地域のメシの種を育てる能力
    地方に権限が移譲される一方、地方交付税が削られる時代には、地方もまた窓口業務や住民サービス的な業務だけでなく、産業育成など根幹的な政策領域で、着実に力をつけていく必要がある。 
第4回   豪華なハードにソフト面が追いつけない悲劇  2002.05.11 
  千葉ニュータウン地域は、他の地域が羨むほどの恵まれた条件にあり、公団や企業庁がハードを整備してくれているうちに、地域の自立した発展をめざしてソフト面の充実強化を図るべきだ。 
第5回   七人の侍を雇って「村難」から地域を守る  2002.06.08 
  地方分権時代の市町村行政も、これまでとは異なった領域、テーマ、対外的な関係先、 事業の進め方等に直面することが予想される。そうした状況では、生え抜きの「社員」を教育するだけでは間に合わず、これまでとは異なった能力、性格、得 意分野をもった「社員」を「途中入社」させる必要がある。 


(第1回)染太郎亡き後の地方行政は・・・・

 太神楽曲芸の海老一染太郎さんが亡く なりました。染太郎というのは、お正月のテレビをつけると「おめでとうございま〜す」と寄席の舞台に出てきて、やたらにぎやかに傘回しなどの曲芸をやる二 人組のうち、おしゃべりを受けもっていたほうです。

 染之助・染太郎コンビは、弟の染之助がもっぱら傘回しなどの曲芸をやり、兄の染太郎は横で陽気にしゃべりまくることで、受けていました。染太郎が「私は 頭脳労働担当でして」というたびに、客席はどっと沸いたものです。

「頭脳労働」の担い手
 地方分権というのは、これまで国が一手に受けもっていた「頭脳労働」を、これからは地方でやりなさいということです。

 地方自治体の自主性を奪い、全国一律のやり方を各地方に押しつけていると批判されてきた機関委任事務制度が、平成12年に地方分権一括法の改正により、 廃止されました。これからは、地方自治体が独自に行政事務の体系を作り、自分たちのマニュアルに沿って、地域特性に合った業務スタイルを開発していくこと が“できる”のです。

 しかし、ここで問題になるのは“できる”という言葉の意味です。法制度的にあるいは権限として“できる”ようになった(may)というのと、地方の側が 能力的に“できる”(can)かどうかは別の問題です。

 今までほとんどの地方自治体は国が決めたとおりの政策を、決まったとおりの手順で消化する仕事のやり方しか行ってきませんでした。言い換えれば、染之 助・染太郎ではありませんが、国が頭脳労働を受けもち(政策官庁)、地方は肉体労働に徹する(事業官庁)という「分業」がずっと長い間踏襲されてきたわけ です。 

 そして、地方分権の現状は、ちょうど染之助・染太郎のうち、頭脳労働を 受け持っていた染太郎が亡くなってしまい、肉体労働に徹してきた染之助が途方に暮れている姿にたとえることができるでしょう。

頭脳労働と肉体労働の協働が「芸」に昇華
 染之助一人でも傘回しはできます。しかし、染之助の技巧と染太郎の巧みなしゃべりとが組み合わされること で、ひとつの「芸」が成り立っていたのです。傘の上に独楽や升など、いろんなものを乗せて、くるくると回すだけでは、観客はやがて飽きてしまうでしょう。 芸人(行政)の最終的な価値は、いかに間違えずに傘回しをやったかではなく、どれだけ観客(住民)を満足させたかによって決まるのです。

 現実の染之助さんがこれからどうされるのか知りませんが、少なくとも地方分権での染之助(市町村)にとっては、これまで頭脳労働を引き受けてくれていた 染太郎(国)の「引退」という事態を受けて、二つの選択肢が考えられます――第1は、染之助が自ら染太郎役をも引き受けて、これからは肉体労働だけでな く、頭脳労働も引き受ける、第2は、至急染太郎に代わる「頭脳」をどこかから探してくる。相棒を失った染之助としては、これら二つの選択肢のうち、至急ど ちらかに決めて、手を打たなくてはなりません。

 実際、これまでの市町村の仕事は、窓口業務や決まった書類の処理など、定型的なルーティンワークが大きな比重を占めていました。

 こうした業務では、とにかく間違いがないよう、正確かつ公正な処理が求められます。書類を申請にきた住民の社会的身分や信条などによって、処理が変わっ ては困るし、処理に当たる職員の気分によって仕事の内容が変わるというのも困るわけです。毎日、同じような仕事を同じように、清々粛々と、マニュアルどお りに処理していくことが求められます。染之助が手順を間違えたり、手が滑って傘から升を落としてしまう失敗は、何としても避けなければなりません。

 したがって、染之助的な「肉体労働」の特徴としては、几帳面・定型的・自己完結的、などの点があげられるでしょう。

これまでの仕事とは異なった能力が求められる
 一方、これまで国が引き受けていた仕事(染太郎的頭脳労働)のほうは、企画とか新政策の立案、長期的なビジョンの策定、社会的問題を解決 するための新しい法律の制定など、非常に幅が広いのが特徴です。

 こうした仕事では、それに携わる人の感性や能力、知識や情報の質と量、人生経験、困難を乗り越える精神力とエネルギーなどが求められます。新しい企画や 政策を考えるためのマニュアルなどどこにも存在しないし、そもそもこれまでの政策や仕事の枠組みそのものが大きく変化し、社会的な環境や枠組みから見直し ていかなければならないようなケースが多いわけです。そうしたケースでは、これまでのマニュアルや、マニュアルを成り立たせていた職場の環境そのものを改 革することも考えられます。染太郎の話芸一つで、染之助が汗だくになって演じている芸も生きてくるし、客席(住民)との呼吸も合ってくるわけです。

 染太郎的な「頭脳労働」は、個性的・創造的・非定型的・当意即妙的・発展的などの点で特徴づけられるでしょう。

 よく役所の仕事に対して、「融通がきかない」とか「前例にしばられている」あるいは「杓子定規」といった批判が聞かれます。しかし、職員たちは決められ たマニュアルに沿って仕事をしているのだから、「融通」などきかせようがないし、融通をきかせるというのは、特定の住民にだけ便宜を図るという形で不公 正、不平等を生み出しかねません。「前例主義」というのも、目の前の事例を過去に扱った事例と同じように扱わなければ、時期や世代による不平等が生まれか ねないわけです。

 「杓子定規」というのは、「現場の担当者に勝手に判断させない」ということであり、役所のような大きな組織で、現場が勝手に判断したり、特定の住民にだ け「融通」をきかせることは、次第々々に規律が緩み、公正であるべき行政の基準が揺らいでもくるでしょう。現在の役所の仕組みや仕事のマニュアルをつくっ た人たちは、何よりもそのことを警戒して、杓子定規な規則をつくったのであり、いろいろ批判はあるにせよ、今日までわれわれの社会が発展してきた裏には、 日本の役所のこのような几帳面さや高いモラルが寄与してきたことを、忘れてはいけないと思います。

住民満足度が評価の基軸に
 しかし、今までは市町村は染之助役に徹し、染太郎役は別にいたわけだから、几帳面さ、杓子定規、前例主義だけでよかったとしても、今後は、いままで国が 引き受けてきた染太郎役を、地方の行政組織でやっていかなくてはならない、そういう段階に現在の市町村行政が立たされているととらえる必要があります。染 太郎的頭脳労働では、これまで染之助的肉体労働で美徳とされていた几帳面さや杓子定規よりも、客席(住民)の空気を感じ取ってすぐに染之助役にフィード バックする当意即妙のセンス、企画力、既存の枠組みや発想を超えた斬新なアイデアや構想力などが求められます。

 地域特性に合った独自の政策課題を設定する能力、地域の現状の中から問題を発見し、その解決策を政策として実行していく能力、時代の変化に合わせて新し く法律を作ったり、時代遅れになった制度を見直していく能力、地域間競争で優位に立つ能力等々――。これからの市町村行政に求められる能力は、従来の業務 体系の中からは出てこないし、極言すれば、従来の行政現場での業務スタイルは、こうした能力を押し殺すことで成り立っていた面さえあると思います。

 要するに、ここでぜひとも確認しておくべきポイントは、地方分権時代の自治体行政に要請される能力は染太郎役(企画・政策形成・法務等の能力)であり、 これまでの自治体行政が遵守してきた業務スタイル(染之助役、事業官庁的な能力)とは明確に別物だということです。これらを混同して、現在の役所やそこで 働く職員たちを「融通がきかない」などといって批判したりするのは無意味だし、逆に、地方分権時代を迎えた役所の人たちが、染太郎役を他人事のように考 え、これまでと同じように仕事をしていけばいいという態度にとどまることも許されないと思います。

 今後地域の行政に求められるのは染之助役ではなく、染太郎役であること、間違えずに傘回しができればOKなのではなく、いかに客席(住民)を満足させた かで評価し、合格点をつけますよ、場合によっては不合格をつけて落第もありますよということを、役所と住民の間で明確に確認するステップが、いま最も大事 だと思います。

 そうでなければ、地方分権など進みようがないし、下手に分権などされたら、今まで国が引き受けていた政策形成の担い手がいなくなってしまうということだ から、住民にとって悲惨な状況となりかねません。

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(第2回)足りないのはカネよりもチエ

財源さえ移譲されれば、は本当か

 「権限が国から地方へ移譲されたといっても、財源はまだ国が握ったまま手離さないではないか、これ では地域独自の行政などやりようがない」。

 最近、地方の側がこういう言い方をするのをよく耳にします。

 一見もっともな言い分に聞こえますが、地方の側のこういう主張はたぶんに言い訳であり、自分たちの本当の問題点から目を逸らして、問題の先送りをしてい るにすぎないようにも思えます。

  地方が独自の行政ができないのは、これまで染太郎的な頭脳労働を国に全面的に頼ってきて、現段階では独自の行政を展開するのに必要なノウハウ、人材、シス テムが育っていないからであり、こうしたノウハウ等を身につけていかなければ、仮に財源が国から移管されても、真にそれを生かしていくことはできないで しょう。

 偏差値が低くて志望校に合格する見込みのない受験生が、親が入学金を出してくれるかどうかばかり心配していてもしかたがないではありませんか。そんな暇 があったら、猛勉強をして偏差値を上げる方が先でしょう。

 いくら財源が潤沢でも、それを地域の長期的な発展のために生かしていくことは、それほど簡単なことではないと思うのです。

 そのことをみるために、いわゆる「電源立地市町村」のケースをみてみましょう。


潤沢な交付金を生かしきれない電源地域の不幸
 発電所、とくに原子力発電所は、かなり辺鄙な過疎地域のようなところに建てられることが多いのですが、こうした電源地域では、発電所という一種の「迷惑 施設」を受け入れてもらう地元の市町村に対して、多額の電源立地交付金がかなりの長期間にわたって交付されます。

 ところで、原子力発電所の立地については一部に根深い誤解があり、安全性に問題があるから人があまり住んでいない過疎地に建てるんだろう、電力会社がそ れほど安全だというのなら、いっそ新宿の真ん中に建ててみろというような話が聞かれます。

 しかし、もちろん安全性に問題があるから過疎地に建てるわけではなく(過疎地といえども人は住んでいるのですから)、発電所のような巨額の設備投資に よって、その地域の振興も期待できることから、国の政策として他の産業などの誘致もままならない過疎地域などを立地場所として選んできた経緯があります。

 したがって、電源立地交付金は、一種の「迷惑料」という性格とともに、最初から立地地域の振興を図る意味合いがもたされているわけです。発電所の建設が 決まると、漁業補償費から始まり、建設期間中には国から市町村に巨額の交付金が交付され、また工事関係者などが地元に落とすお金など、地域は大いに潤いま す。

 もともとが人口も比較的少なく、これといった産業もなかった地域が急ににぎやかになり、財政的にも大いに潤うということで、この財政をうまく活用してそ の地域が自立して発展していけるための基盤を整備することが、非常に重要になります。

 しかし、これが非常に難しく、全国の多くの電源地域で成功したという話をほとんど聞きません。代わりに、あちこちの電源地域を訪ねると、人口数千人の町 や村なのに、見上げんばかりの立派な町役場や豪華な公民館、まるで高速道路のような村道といった施設が、交付金で整備されているケースによく出くわしま す。

 立派な町役場や公民館、村道の整備が悪いというのではありませんが、こういうインフラが生きるのは、地域の長期的な発展戦略をきちんとたてて、整備すべ きインフラや施設とその優先順位を決めるなど、総合的な地域戦略の中にきちんと位置づけられてこそだと思います。いわば「面」的な政策パッケージの中で、 個々の整備を図っていくというやり方が必要とされるのであり、施設や道路などを個々ばらばらに「点」として整備していっても、地域の発展にはほとんど寄与 しないのではないでしょうか。

 たとえは悪いかもしれませんが、タニマチ(電力会社)のおかげで急に豊かになったにわか成金が、前後の見境もなく分不相応な御殿を建てて、悦に入ってい る図を連想してしまいます。タニマチから思いがけない収入があったら、子供の教育に回すなり、老後の備えに貯金すべきなのに、親も子も贅沢三昧の生活にお ぼれ、しばらくしてタニマチが去った後は、元の木阿弥というわけです。

 もっとも、電源地域というのは、もともと半島の先端部のような辺鄙な場所であるなど、特殊な地理的条件にあるので、総合的な地域戦略などというものを求 めるのは少し酷な注文かもしれませんが。

竹下さんのチエ
 そこで、もう一つの例として、竹下内閣の「ふるさと創生1億円事業」のケースを考えます。

 竹下登首相が掲げた「ふるさと創生」の目玉として、全国3300の市町村に一律に1億円を交付するから、使い道はそれぞれの市町村の創意と工夫で考えな さいという政策でした。

 この事業をめぐっては、一般には「ポリシーも何もない典型的なバラマキ行政」などと酷評する声が強かったのですが、当時地方に行くと「国が初めて使い道 についてうるさいことを言わず、地方に任せてくれた交付金」と、大歓迎する地域もありました。概してこういう地域は、自分たちで知恵を絞って1億円の使い 道を考え、それなりに有意義な事業に充当したケースが多かったようです。

 いつも「東京」の視点に立って、地方を見下ろすような視線でバラマキ批判などを展開していたマスコミや評論家たちよりも、竹下さんの方が「地方」をよく 知っていたということでしょう。

 一方で、さんざん議論したけれども、いい知恵が出なくて、せっかく国からいただいた1億円を持て余したケースも多くあったようです。

 それまでの交付金や補助金は、すべて中央官庁の縦割り機構の中で、使い道や使い方について、あれこれとうるさい注文をつけられ、それをクリアするために 職員が総出で書類の山を作り、霞ヶ関や永田町との間を何度も往復し、といったプロセスを経て、ようやく交付が決定するというものでした。そのことに多くの 市町村が不平を言い、国の権限移譲、規制緩和を願っていたのは確かでしょう。

 しかし、いざ国が何の制限もつけずにぽんと1億円出してくれるとなったら、逆に戸惑ってしまうというのでは、結局国からの「干渉」がなければ、何もでき ない自治体、権限や財源が国から移管されていないのを口実に政策や企画の勉強をサボっていた地域といわれてもしかたがないでしょう。

 財源だけあっても、それを有意義に活用するチエがなければ、地域は豊かにも楽しくもならないという見本のように思えます。

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(第3回)地域のメシの種を育てる能力

必須科目と選択科目
 たとえば、ごみの収集のしかたが気に入らない場合、われわれは直ちに役所に苦情に行きます。誰もそれを不思議に思いません。一方で、北総線の運賃が高す ぎるから何とかしろ、といって役所に怒鳴り込む人はいません(運賃問題に行政として取り組むよう陳情などはありますが)。

 役所の方も、ごみの収集は100%自分たちの仕事(必須科目)だと考えていますが、北総線の運賃問題については、改善に取り組めるならば取り組むに越し たことはないが、必ずしも自分たちの義務ではない、一種の選択科目と考えているでしょう。

 地方分権というのは、そして地方自治体が政策官庁に変身するというのは、ごみ収集の問題とともに北総線の運賃問題をも行政の「必須科目」として、その解 決に正面から取り組む姿ではないかと思います。

 子供が3人いて、その子らが高校生、大学生になると、通学定期のあまりの高さに、千葉ニューからの転出を考えるご家庭が後を絶ちません。こんなひどい理 由で「人口減」が起きているわけです。

 一方、北総開発鉄道鰍熹゚鳴をあげています。とにかく、千葉ニュータウンの人口が伸びないのでは、経営体としての展望が拓けない(値下げの約束などでき るわけがない)、現在のようなニュータウンの低迷は開発事業者の重大な約束違反ではないか、と。

 要するに、入り口も出口も「人口」問題なのです。

 千葉ニュータウンの人口を増やして、北総開発鉄道鰍フ経営にきちんと展望を与えるととともに、運賃問題の抜本的な解決を図るというテーマに取り組めるの は、地域の行政だけです。運賃値下げを求める住民運動がどんなに頑張っても、こういうアプローチは不可能です。

 人口を増やすためには、この地域の魅力を最大限生かし、企業や人、もの、情報が集まってくる「しかけ」、システムを創り出していく必要があります。長期 的な発展戦略の中で、ニュータウン全体の人口計画をたて、北総開発鉄道鰍ニも連携しながら、この地域を都心と成田の中間にある、利便性に富んだ、住みやす い、安全で安心なまちとして発展させていく。このテーマに対して、国や県に頼るばかりでなく、地域の行政の責任として本腰を入れて取り組んでいく必要があ ります。そのために、自分の市町村だけで力不足なら、周辺同士で合併し、パワーアップして、地域の問題に取り組むべきです。

市町村行政を構成する3つの領域
 以上のようなことを踏まえて、これからの地方行政が扱うべき政策領域を整理すると、以下の3つの領域が考えられます。

 従来の地方行政では、もてるエネルギーのほとんどを@に充当し、せいぜいAの領域でちょっと目新しいメニューを手がけてみる程度であり、Bに至ってはほ とんどそういう発想さえなかったのではないでしょうか。

@窓口業務やごみ処理などの事業領域
 従来から地方の行政機関が着実にやってきた、染之助的な事業領域(現業部門)です。ある意味では、最も市町村の行政「らしさ」を感じさせ る領域であり、この領域の仕事をやっていれば、行政組織としてはそれなりの達成感が味わえるため、それ以外のテーマは選択科目としていられたわけです。

 この領域のニックネームを「肉体系」と呼ぶことにします。


A住民の生活に身近な政策領域
 福祉や環境など住民に身近な問題について、中長期的にどうするか、住民も参加して議論し、方向を定めていく分野です。この領域をスマート に拡大していくことは、地域の活性化、イメージアップに大きく貢献します。

 多くの地域で、住民の民度が上がり、さまざまな知見、専門性をもち、地域の問題に積極的に取り組む住民が増えてきていることを考えれば、こうした住民パ ワーを行政に取り込み、手伝ってもらうことは、「地域力」のアップに不可欠な方向となっています。

 この領域は、住民に身近な分野ということで「ポップ系」と呼ぶことにします。

B根幹的な政策領域
 しかし、地方に権限が移譲される一方で、地方交付税が削られ、国が面倒を見てくれなくなる今後は、地方もまた「いかにメシを食っていくか」が重要なテー マとなります。農業を地域の中心産業とするのか、工業を誘致してくるのか、研究所やソフト産業の集積地をめざすのか、地元の中小企業をどうやって羽ばたか せるのかといった、いわば地域の産業政策をきっちりとたて、実施していくことが、地域の長期的な発展にとって重大な選択肢となります。

 この領域は、住民に身近でもなく、あまり人気もないが最も重要な分野ということで「骨太系」と呼ぶことにします。

 全国のいろいろな自治体を見て感じるのは、ほとんどの自治体にとって、この骨太系領域が最も弱い、苦手な分野だということです。ポップ系の領域では、 ちょっと気のきいた首長ともなると、環境、福祉、スポーツや文化などの分野で目新しいメニューを並べてみせ、全国的に情報発信するなど、それなりの成果を わりと短期間で出すことも可能ですが、骨太系領域で一定の成果を上げるには、首長のセンスだけでなく、そこの自治体組織の総合力が問われます。図らずも地 域の「地金」が露わになってしまう分野であり、また結果を粉飾しにくい分野ともいえます。

 いずれにしても、これからの自治体は、「肉体系」だけでなく、「ポップ系」「骨太系」の政策領域にバランスよく取り組んでいくことが求められます。

 もうひとつ、地方分権をめぐって、最近わりと「流行り」の議論に次のようなものがあります――『分権時代なんだから、行政が何もかも抱えるのでなく、 NPOの力を借りたり、民間に委託することで、行政はもっと身軽になるべきだ』。

 しかし、民間委託になじむのは上記の「肉体系」事業領域の一部に限られるでしょう。またNPOなどと提携することでうまくいきそうなのは、「ポップ系」 の一部であり、「住民参加」の議論も、主に「ポップ系」を想定して行われていることに気がつきます。

 「骨太系」については、行政自身がこうした分野に腰を据えて取り組める体制、業務システムを開発し、この分野での行政のプロを育て上げるしかないと思わ れます。

 「分権」とか「分散」といった耳障りのいい言葉が飛び交うなかで、実はいま地域にとって最も優先度が高いテーマは、(とくに骨太系領域での)行政への力 の集中であり、行政組織の大幅なパワーアップであり、時としてアヒルの水かきのような泥臭い、ジミヘンの努力の積み重ねであるように思います。

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(第4回)豪華なハードにソフト面が追いつけない悲劇

恵まれた条件を十分活かしてきたか

 前回で、原子力発電所などが立地している電源地域の事例を、豊かな財源があるにもかかわらず、それをなか なか地域の自立に役立てることができないケースとしてとりあげました。

 どこかわが千葉ニュータウン地域と似ていないでしょうか。

 電源地域では、発電所(電力会社)がタニマチです。同じように、千葉ニュータウンでは企業庁や都市公団がタニマチとなり、これまで巨額の資金を投じてさ まざまな立派な施設を造り、道路を整備したり、たくさんの企業を誘致するとともに、ニュータウンのあちこちに住宅団地をつくって私たちに住宅を提供してく れました。

 この辺が電源地域とよく似ていますが、違いもあります。

 最大の違いは、千葉ニュータウンが東京からわずか30km程度の首都圏にあり、しかも東京都心部と成田国際空港を結ぶ線上に位置し、数年後にはこの線上 に高速鉄道が開通するという、全国の多くの地域からみたら、よだれが出そうなくらい恵まれた地理的条件にあることです。

 巨額の資金をこの地域に投じてくれるタニマチの存在、都心から30km圏という絶好の地理的条件――、これだけの恵まれた条件を、この地域の行政は十分 活かしてきたでしょうか。

 印西市も白井市も、ここ数十年間の急速な人口の伸びによって、めでたく町から市に昇格しました。企業にたとえれば、ベンチャー企業が順調に業績を伸ばし て、ついに上場を果たすような晴れ舞台です。

 市への昇格を準備する段階で、「市」として必要な施設などのハードの部分を一所懸命整備してきたのはわかりますが、行政の体制、マネジメント能力といっ たソフトの部分では、旧態依然のまま来てしまった部分が相当あるのではないか。

 もしかしたら、われわれ住民は人口5〜6万人を擁する市という目で行政を見ているのに対して、行政自身は相変わらず人口1〜2万人時代の感覚を引きずっ ていて、そこに相互のギャップ、ミスマッチが生まれているのではないでしょうか。

 ベンチャー企業だって、上場する時には社内のマネジメント・システムや組織の見直しをやり、必要に応じて社外から優秀な人材をヘッドハンティングした り、企業としていろいろな問題への対処機能、危機管理能力等々を急いで強化充実する措置がとられます。でなければ、企業の説明責任、透明性等、新たな局面 での社会的な要請に応えることができないからです。

そうした努力をこの地域の行政は十分払ってきたのでしょうか。 

建物をプレゼントするより建物の建て方を教える

 電源地域では、交付金で建てた立派な町役場や文化会館、田んぼの中を一直線に走る町道などは一見豪華であり、この町の豊かさを象徴しているようにみえま すが、実はこうした立派すぎる施設の維持管理費がその後の町の財政を圧迫しているケースが少なくありません。

 千葉ニュータウン地域でも、これまで人口増加に伴って必要となる学校などの施設を公団が次々に建て、その資金も実質的に県が肩代わりする形で整備が進め られてきましたが、この負担金を企業庁が見直すということで大騒ぎになっています。この場合も、これまで公団などが整備してくれた施設が、一転してこの地 域にとって「負の資産」にもなりかねない状況が生まれているわけです。

 このような構図をみていると、開発途上国に対するODA(政府開発援助)をめぐって繰り返されてきた、あの古くて新しい議論を思い出します――「途上国 が欲しがる建物をすぐ援助するのでなく、むしろ現地の人たちに建物の建て方を教える、あるいは建物を建てられるエンジニアを育てる方が、途上国の自立を促 す効果があるのではないか」。

 電源地域や千葉ニュータウン地域を、ODAの対象である途上国と同列に論ずるわけではありませんが、しかし支援する側もされる側も、ハード面の整備に気 をとられて、ソフト面の充実を忘れると、「自立」が遠のくばかりでなく、場合によっては整備されたハードそれ自体が、「負の資産」となって、地域の足を 引っ張るということを肝に銘ずるべきです。

 千葉ニュータウン地域は、途上国よりも自己責任能力、問題解決能力が備わっているし、前述したように他の地域が羨むほどの恵まれた条件にあるわけですか ら、公団や企業庁がハードを整備してくれているうちに、地域の自立した発展をめざしてソフト面の充実強化を図るべきだと思います。

 ハード面は、カネさえあれば、あるいは強力なタニマチが存在することで、比較的順調に整備が進み、一見地域が素晴らしく豊かになった感じも与えますが、 ソフト面の充実は地域が自ら知恵と汗を絞って、経験やノウハウを地道に積み重ねていく以外に王道はないというべきです。

 とくに、前号で提起した「骨太系」領域で、地域の産業育成政策などを強力に展開すること、公団などが整備してくれた高規格インフラを活用して、たとえば 有力なIT企業を誘致したり、SOHO(Small Office, Home Office)など新しい形態の事業所、事業家を育てたり、都市型農業の新しい形をこの地で生み出すなど、多様な可能性があります。

 また、「ポップ系」領域でも、高水準の福祉や環境政策を独自に打ち出し、実行していく潜在的な能力をこの地域は十分有していると思います。 

卒啄同機

 禅宗で「卒啄」(機を得て両者相応ず ること=広辞苑)という言葉があります。「卒」というのは、ヒナが卵の内側から声を発して殻から抜け出る意を告げること、「啄」とは、親鳥が殻をつついて ヒナの出るのを助けることとあり(漢語林)、鳥が卵から孵化する時の習性に語源があるようです。

 市町村合併をめぐる現在の状況は、親鳥(国・県)が外側から殻をつついて、ヒナ(市町村)の孵化を促している光景を連想させます。

 「殻」とは、今まで市町村を保護してきた地方交付税その他の保護(=規制)策であり、親鳥の「啄」とは、国が交付税などを徐々に減額したり、合併特例措 置などで市町村を後押しする動きにたとえることができるでしょう。

 市町村の対応としては、この親鳥の動きを自分たちにとってのチャンスとみて、「啄」に呼応して内から積極的に声を発するか、それとも親鳥の動きを迷惑な 押しつけ・強制と受けとめて、ひたすら殻の中に閉じこもるかの二つに一つです。

 しかし、閉じこもっていれば殻はずーっと保護されるのでしょうか。

 高齢化社会への移行や地方交付税をめぐる状況などをみると、とてもそんなことは期待できそうにありません。ヒナが声を発しようが、殻に閉じこもろうが、 早晩殻そのものが打ち破られ、ヒナは寒風吹きすさぶ外界に放り出される、そんな世界がどんどん近づいているようにみえます。

 情勢の変化を理由に、今まで約束されていた「殻」を「お上」自ら突然破り捨てる――何のことはない、これは企業庁の公益的施設負担金の見直し問題に直面 している千葉ニュータウン地域が置かれた状況そのものではありませんか。

 これからは「殻」などむやみに信用してはいけない、そういう時代に移行しつつあるのだということを、千葉ニュータウン地域は全国に先駆け、身をもって体 験しているのかもしれません。

 ならば、一刻も早く「自立」への準備をし、上述したソフト面の充実を図り、「骨太系」を中心とする地域の政策形成能力を身につけ、自ら殻を破って、逞し く、したたかに歩を踏み出すべきでしょう。

*「卒」は、正確には「クチヘンに卒」と書く。

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(第5回)七人の侍を雇って「村難」から地域を守る

地方分権時代に対応した人材育成策

 地方分権時代に対応した地方公共団体の人材育成については、自治省(現・総務省)が平成九年十一月 に『地方自治・新時代における人材育成基本方針策定指針』を発表しています。

 指針では、「地方自治が新しい時代を迎えようとする中で、政策形成能力、法務能力等の重要性が高まる」という認識から、人事管理や人材育成について基本 的な考え方を打ち出しています。

 しかし、全体の印象として、それほど目新しいメニューは盛り込まれておらず、従来の人事管理、人材育成策の強化をうたうにとどまっている感じです。

 これまでみてきたように、地方分権時代の市町村に求められているのは、従来国が引き受けてきた染太郎的な「頭脳労働」を、これからは自分たちの責任でや りなさいということです。ごみ収集や道路や各施設の管理、住民票などの窓口業務だけでなく、もっと広範囲な地域の問題を発掘して、その解決策を探ることを 自らに課し、住民の視点に立った行政を進めていくことが求められているわけです。

 であるならば、自治体の人材育成の基本も、「指針」に書かれている『学習的風土づくり』とか『庁内公募制』『QCサークル』『出前講演』『職場外研修』 等々のメニューだけでなく、もっと従来の枠を超えた発想、自治体の「構造改革」全体と連動した人事・人材育成政策が求められるのではないでしょうか。

有能な人材をヘッドハンティングする

 黒澤明監督の「七人の侍」では、野武士の襲撃に苦しむ百姓たちが、自分たちの味方になってくれそうな侍を探し、この侍たちの協力を得て、自分たちも死に ものぐるいの戦闘を展開し、何とか野武士を追っ払います。

 「村」をニュータウン地域、「百姓たち」を自治体および住民、「野武士の襲撃」を迫り来る地方財政の窮迫化といった具合に置き換えると、あの映画が暗示 しているように、「侍」つまり外部の有能な人材に命がけで手伝ってもらい、「未曾有の村難」に立ち向かうことが、今後の地域のとるべき方向ではないでしょ うか。

 今まで手がけてきたビジネスが成熟段階に達した企業が、新たなビジネスに挑戦しようとする時、外部から全く新しい人材(社内にはいないタイプの)を調達 してくることは日常茶飯事に行われています。

 地方分権時代の市町村行政もまた、新しい事業に活路を見いだす企業の姿にもたとえられるくらいに、これまでとは異なった領域、テーマ、対外的な関係先、 事業の進め方等に直面することが予想されます。そうした状況では、生え抜きの「社員」を教育するだけでは間に合わず、これまでとは異なった能力、性格、得 意分野をもった「社員」を「途中入社」させる必要があるのではないでしょうか。

 そうした人材の調達源としては、二つのルートが考えられます。

 一つは、中央官庁であり、もう一つは民間企業です。「全国区」で活躍している現役の人材をヘッドハンティングしてきて、地域の仕事に従事してもらうこと は、比較的小規模の市町村行政にとっては、新しい仕事のシステムを構築する上でも、また「生え抜き社員」に新鮮な刺激を与える上でも、かなり効果的だと考 えられます。

 中央官庁のキャリア制度には、根深い誤解というかフィクションがつきまとっているようです。

 最大のフィクションは、キャリア官僚は東大卒と公務員上級職試験合格という二つのパスポートをもっているがゆえに、その後の役人人生では自動的に出世階 段を登っていくというものです。

 しかし、この程度の「パスポート」だけで、その後の出世コースが自動的に保証されるほど世の中甘くありません。中央官庁にだって、嫉妬深い人間や性格の 悪い人間、人の足を引っ張るのが三度のメシより好きな人間等々、一般世間と同じ程度の比率でいるはずであり、「最初から出世を約束された、若手のキャリア 官僚」などという存在は、こうしたネクラ・イジワル組の餌食になるのが落ちでしょう。

 実際に中央官庁のキャリア・システムを支えてきたのは、キャリア組がノン・キャリア組の数倍働く、また働かされる仕組みです。キャリア組は、入省した翌 日から、これでもかというくらいの仕事を与えられ、時間的にもエネルギー的にも、めちゃくちゃ働きます。毎日々々キャリア組のこうした姿を見せつけられる ノン・キャリア組は、やがて「あいつら(キャリア組)にはかなわない」という、一種の諦めあるいは納得感を抱くようになる――これがキャリア・システムを 支えているものの正体だと思います。

 良くも悪くも、一握りの優秀な人材を馬車馬のように働かせるシステムが、日本の近代化、経済大国化を形成してきたのです。この優秀な能力を今後は地域の ために役立ててもらうことが、地方分権時代のスタートに立った今、真っ先に考えるべきことではないでしょうか。


地方の側が、自分たちの地域の問題を見すえながら、新しい政策をつくったり、社会や経済環境の長期的な動向を予測しながら、今から手を打っていくといった 行政システムを確立するためには、今まで専らそうした仕事をやってきた中央官庁のキャリア官僚をヘッドハンティングしてくるというのが、最も手っ取り早い 方法ということになります。

政略結婚から恋愛結婚へ

 ただ、これまでも市町村の特定の部署に、県や国の役人が出向してくるなどのケースはみられました。ここでいう「ヘッドハンティング」は、こうした従来の 「出向」などとどう違うのでしょうか。

 従来の出向などのケースは、いわば「政略結婚」のようなもので、結婚する当人たちが気に入る、気に入らないよりも、家柄(ポスト)で相手が自動的に決ま り、迎える側も相手の能力や性格よりも、先方の財産や格式が目当てだったりします。

 これに対して、ヘッドハンティングというのは、迎える側が相手の品定めを十分にやり、お互いの相性を見きわめ、家柄よりも人物で選ぶ、いわば「恋愛結 婚」です。場合によっては相手の「家柄」を捨てさせ、嫁ぎ先に骨を埋める覚悟を要求さえします。

 この提案には、「地方分権といいながら、中央から人材を引っ張ってくるのは、本末転倒ではないか」との反論が予想されます。

 しかし、この反論は、従来のような「政略結婚」方式で中央から出向してもらう場合には当てはまるでしょうが、ここでいう「恋愛結婚」は、それとは全く事 情を異にします。

 また、これまで見てきたように、地方分権というのは、中小規模の市町村にとってまさに新規事業であり、事業の再構築(リストラクチャリング)そのもので す。今もっとも必要とされるのは、従来の事業とまったく異なった仕事の手法を身につけた「即戦力」人材です。できるだけ優秀な即戦力人材をヘッドハンティ ングし、思う存分力を発揮してもらうとともに、この優秀な人材の仕事のやり方を皆で勉強するというのが、いちばん効果的な方法だと考えられます。

ビジネス感覚に富んだ民間企業人材も魅力

 もう一つの人材供給源は、大手企業の中堅幹部およびそのOB群です。地域の産業振興、特産物の市場開拓など、特定の、高いビジネスマインドを要求される ような事業では、全国規模でのマーケティングなどの経験、ネットワークをもった人材の活躍余地が相当あるでしょう。

 地域の産業おこしなどで大手民間企業出身者を活用する場合、一定の期限を決めて、あらかじめ目標(成果)を明確化し、首尾よく目標が達成されたら「ボー ナス」を出すなど、これまでの人事システムの枠を超えたやり方を導入することも考えられます。

 これまでの県や国からの出向と区別する意味で、これらの人材を「公募」することも考えられます。

 いずれにしても、慎重に吟味した上でこの地域に来てもらう人材には、従来のしがらみや慣習などにとらわれず、自由に思う存分力を発揮してもらい、そうす ることでこの地域全体がこの人材をフルに活用することが望まれます。
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 「七人の侍」の最後の場面では、侍大将役の志村喬が、勝利を祝おうとする部下に向かって言います――「いや、違う、勝ったのは我々ではない、真の勝利者 はあの百姓たちだ」と。

 「侍たち」をうまく活用して、真に自分たちの「勝利」をおさめるのが、これからの地方のとるべき戦略であり、知恵ではないでしょうか。(終)

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