あなたのまちの むかしのすがた
千葉ニュータウン今昔物語

 千葉ニュータウン周辺には数多くの遺跡――2万年を優に遡る石器群、川底から出土したおびただしい量の縄文土器、ヤマト王権が成立した時代に突如現れた当時のニュータウンともいえる集落、仏教の普及を示す瓦焼の七重塔などがありました。

 千葉ニュータウン周辺に所在する様々な遺跡を紹介し、ニュータウン開発により埋もれた過去の痕跡に光を当てていきます。
本埜村教育委員会  杉山祐一
(1)《小室地区》白井先遺跡 
(2)《印旛村瀬戸》大木台古墳群 
(3)《本埜村》宮内遺跡 
(4)《白井市桜台》一本桜南遺跡 
(5)《印西市》向新田(むかいしんでん)遺跡 
(6)《印西市大塚》並塚塚群 
(7)《本埜村》瀧水寺裏(りゅうすいじうら)遺跡 
(8)《印西市木刈》木苅り峠(きかりびょう)遺跡 
(9)《白井市》復山谷(ふくさんや)遺跡 
(10)《印旛村いには野》瀬戸遠蓮(せととおばす)遺跡 
(11)《印西市小倉台》大塚前遺跡
(12)《印西市平岡》馬込(まごめ)遺跡 
(13)《本埜村角田》角田台(つのだだい)遺跡 
(14)《印西市戸神》鳴神山(なるかみやま)遺跡 
(15)《印旛村松虫》松虫陣屋跡遺跡 
(16)《白井市清戸》清戸(きよど)遺跡 
(17)《本埜村角田》弐卜込(にとごめ)遺跡 
(18)《印西市草深》一ノ作遺跡 
(19)《印西市戸神》西根遺跡
(20)(最終回)千葉ニュータウン遺跡群

  
(1)《小室地区》白井先遺跡 
 千葉ニュータウン周辺には数多くの遺跡がありました。この地域は、2万年を優に遡る石器群、川底から出土したおびただしい量の縄文土器、ヤマト王権が成立した時代に突如現れた当時のニュータウンともいえる集落、仏教の普及を示す瓦焼の七重塔など、実は数多くの遺跡の宝庫なのです。

 この連載では、そうした千葉ニュータウン周辺に所在する様々な遺跡を紹介し、ニュータウン開発により埋もれた過去の痕跡に光を当てていきたいと思います。

 今回は、昭和45年(1970)、千葉ニュータウン区域内で最初に発掘調査された遺跡を紹介しましょう。北総線小室駅の北側、船橋市小室町に所在した白井先遺跡です。
古墳時代のニュータウン

 白井先遺跡は調査区によって、それぞれAからDまでの4地点に分けられています。

 A地点はちょうど小室小学校と小室中学校の間の校庭付近に、B地点は中学校北側の住宅地のあたりにありました。C地点はさらに小室駅方面から県道189号にぶつかる交差点の手前右手にある住宅地のあたりに、D地点はその交差点のすぐ北側、現在は小室第一待機宿舎の建物が立つ場所にありました。

 県道189号線を白井市役所方面へ向かうと、神崎川を越える橋から見てちょうど正面の高台に並ぶ住宅地のあたりです。船橋市でも最北端に位置し、あたかも白井市に突き出たような格好の台地にあるこの地区は、神崎川が流れる広い沖積地が東側に広がり、見晴らしが良く緑に恵まれています。

 B・C・D地点では古墳時代中期〜後期の竪穴住居跡があわせて70棟調査されました。それぞれの地点は50mほどしか離れておらず、実際は同一の大きな集落を形成していたようです。ただし、A地点だけは縄文土器が若干出土しているだけで住居跡などは見つかりませんでした。

 古墳時代とは、奈良盆地に誕生したヤマト王権が北海道・東北北部・沖縄を除く日本列島の大部分を勢力下に置いていった時代です。ヤマト王権は、大王(おおきみ)と呼ばれる支配者を頂点とした、有力豪族のゆるやかな連合体として成立しました。豪族と呼ばれる有力者たちは、死後も自らの力が子孫に伝わり共同体の安寧と繁栄をもたらすことを願い、古墳と呼ばれる盛り土でできた墓を造りました。これが古墳時代といわれる所以であり、3世紀中頃から7世紀まで400年近く続きました。
 
 白井先遺跡 (左)B地点、(右)C地点
調理法の変遷
 白井先遺跡の集落は古墳時代中期に誕生しています。ちょうど、大阪平野を中心に大山古墳(伝仁徳天皇陵)のような最大級の古墳が次々とつくられ、大王の権勢が確立した時代です。関東にもヤマトの勢力が強く及んでいたことは、埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した「王賜」銘鉄剣などからも明らかです。まさに白井先遺跡の集落は、この鉄剣がつくられた頃と同時期に誕生しました。

 今から1550年ほど遡る5世紀後半、どこからかやってきた人々が現在の小室に住みつきます。この頃の住居はD地点で20棟見つかっています。当時、食事の調理は縄文時代と同じように掘りくぼめた住居の床につくった炉で行われていました。特殊な出土品として、当時の祭祀に使われた小型の石製ミニチュアがあります。白井先遺跡からは剣形のもの、2つの穴を並べて開けた円板型のもの、勾玉などが出土しています。

 5世紀から6世紀へ移る頃、東日本では調理の仕方が大きく変わります。数千年の間煮炊きの場であった炉に変わり、住居の中央壁から外へ抜ける煙道を備えたカマドが使われるようになりました。白井先遺跡では、住居の新築に際しカマドへと切り替えた様子がはっきり見てとれます。カマドに据え置くため、煮炊き用の甕や米を蒸す甑の形は少しずつ胴長になっていきます。

 おおよそ200年にわたって十数棟程度の住居が建て替えられつつ続いてきたと思われる白井先遺跡の集落は、奈良時代が始まる頃に廃絶します。日本が古代国家として形作られてきたまさにその時代、小室に暮らした人びとがどこへいってしまったのか、今の私たちにそれを知る由はありません。
 
カマドを備えた竪穴住居跡(B地点) 
写真出典 千葉県都市公社1973『千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書T』
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(2)《印旛村瀬戸》大木台古墳群 
身近にある古墳
 その昔、高貴な身分の主人が死ぬと、そばに仕える者たちを生けにえとして生きたままお墓に埋める慣習があったそうです。この慣習を忌み嫌う垂仁天皇のため、皇后が亡くなったとき、野見(のみの)宿禰(すくね)(のみのすくね)が粘土で人や馬の形をした埴輪(はにわ)(はにわ)を作り、それ以後古墳に埴輪を置くようになりました。以上は『日本書紀』の記事です。

 ところが、実際には年代の古い埴輪に人形や馬形のものはなく、古墳から生き埋めにされた人骨は出てきません。ですから、この記事は事実ではないようです。しかし、古墳からたくさんの埴輪が出てくるのは事実です。古墳を造った人々にとって、埴輪を飾る行為が古墳の造営の中で重要な意味をもっていたことは間違いないでしょう。

 そもそも、古墳とは単なるお墓ではありません。特に大型の前方後円墳は、当時の大王(後の天皇)や有力豪族が自らの権力や子孫の繁栄、あるいは死生観を表す政治的かつ精神的な象徴として、多くの人を動員して造営された一大モニュメントでした。しかし、3世紀の中ごろから7世紀にかけて築かれた古墳は、時代によって古墳の分布、規模、形態、副葬品が大きく変化します。それは葬られた人の社会的地位の違いを表しているのでしょう。

 房総半島では、古墳時代後期から終末期と呼ばれる6〜7世紀の中小規模の古墳が多く、そこに埋葬された人物の多くは地域の有力者とその家族と考えられています。古墳というと近畿地方に多いイメージがありますが、全国15万基を超える古墳のうち、千葉県には1万2千基が集中しています。なんと都道府県別では日本一です。千葉ニュータウンの周辺では、栄町にある「房総のむら」で中小規模の古墳が100基以上集まった古墳群(群集墳)をつぶさに見ることができます。

 前回紹介した白井先遺跡は、古墳時代の人々が暮らした場(集落)でした。今回は、そういった集落の有力者が葬られた古墳だと思われる、印旛村瀬戸地区に所在した大木台古墳群を紹介します。 
 古墳と出土した埴輪列
埴輪が語る地域の歴史
 大木台古墳群は、千葉ニュータウンいには野地区から国道464号線を直進して佐倉方面に向かい、印旛村役場を過ぎて坂を上がると右側に「雁又共同墓地」の看板が立つ墓地のあたりにありました。円形をした2基の古墳(円墳)は、現在の国道をつくるため平成4〜5年に調査を行った後に破壊されました。

 1号墳は全長15mで高さが1・3m、2号墳は全長17mで高さが1・6mとほぼ同規模の小型円墳でした。年代的には東側の1号墳が6世紀中ごろ、西側の2号墳が6世紀後半に当たり、白井先遺跡と同時代になります。親子の墓である可能性も否定できません。2号墳では埋葬施設が見つかり、鉄製の刀や鏃なども複数出土しています。

 2号墳からは、驚くべきことに多くの埴輪が造営当時の位置を保った状態で出土しました。墳丘北側の低い部分を半周するように筒型の円筒埴輪が巡り、もっとも北側には9個体の人物埴輪と2個体の馬形埴輪が整然と配置されて発見されています。大量の破片を含めて復原すると、造営当時は2列の埴輪列が墳丘を全周していたようです。このように円筒埴輪が墳丘の周りに配置された理由は、おそらく古墳の内側と外側を分ける結界のような役割を果たしていたためだと考えられています。

 埴輪のおもしろいところは、その個性的なつくりだけでなく、個体の配置にストーリーが与えられている点にあります。女性のグループ、馬をひく男性と飾り立てられた馬のグループ、男性のグループが観察できる2号墳の埴輪列にも、なにかしらの物語が読みとれるはずです。

 現在の霞ヶ浦から印旛・手賀沼にかけては当時「香取の海」と呼ばれた内海が広がっていました。2号墳の埴輪は、この内海一帯で見つかる「下総型埴輪」の特徴を備えています。下総型埴輪がつくられた窯はまだ見つかっていませんが、もしかしたら香取の海を舟か陸づたいに運ばれてきたのかもしれません。1400年前に埴輪が内海を越えて運ばれ、人々の祈りの場を演出するために飾り立てられたと考えると、なにやら歴史のロマンを感じます。
 
 物語を表現した埴輪列
出典 (写真)千葉県文化財センター1996『一般国道464号線県単道路改良事業埋蔵文化財調査報告書』(図)千葉県史料研究財団2003『千葉県の歴史 資料編 考古2(弥生・古墳時代)』  
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(3)《本埜村》宮内遺跡 
それは2万年前のこと 
 県道佐倉印西線を千葉ニュータウン滝野地区から印旛村方面に向かい、本埜村竜腹寺の交差点を左に曲がると、しばらくして右手の高台に建物と野球場が見えてきます。ここが本埜村総合運動場です。この施設の建設に先立ち、宮内遺跡が調査されました。

 遺跡を発掘すると、たいていの場合一時代だけではなく様々な時代の積み重ねであることが分かります。宮内遺跡も、空中写真ではかなり大きな遺跡のように見えますが、実際には非常に長い時代の生活の跡が積み重なった結果なのです。今回は、ひとつの遺跡がどれだけ長い時間をかけてできあがったのか、見ていきましょう。

 宮内遺跡で見つかったもっとも古い人類の痕跡はなんと2万年以上前に遡ります。この時代は氷河期で現在よりかなり平均気温が低く、人類は動物や魚を捕り、木の実を集めて食していました。旧石器時代と呼ばれるこの時代の暮らしの様子を知るすべはほとんどありませんが、この遺跡では石で作られた万能ナイフのような道具が発見されています。人びとは、良質な石材の石器を東北地方から入手して丹念に加工し、大切に扱っていたようです。
遺跡の栄枯盛衰
 氷河期が終わり、1万年を遡る頃から気温が一気に上昇し、暮らしも豊かになりました。その象徴が煮炊きに使われた縄文土器の発明です。宮内遺跡でも縄文時代の土器や炉跡が見つかっており、縄文人が近辺に暮らしていたことは間違いありません。印旛沼には海水が入り込み、おそらく遺跡の真下まで海が入り込んでいたはずです。

 集団で水田をつくり、農耕をはじめた弥生時代の住居跡も7軒見つかっています。印旛沼が淡水化した2千年ほど前、小さな集落を営んだ人々は遺跡近辺に小規模の田畑を耕して暮らしたようです。

 古墳時代後期から奈良・平安時代は宮内遺跡の最盛期です。特に8世紀から9世紀は、10棟を超える竪穴住居跡や掘立柱跡建物が連続して建てられました。長い世代にまたがり、数十人規模の集落がこの台地で農耕生活をおくりました。

 その後しばらく人が暮らした跡は途絶えますが、5百年ほど前、室町時代から戦国時代の人工的な整地の痕跡や、当時の壺などが見つかっています。近辺には鳥見神社や笠神城跡など、古い歴史が残っていることも興味深い事実です。

 このように、遺跡とは太古の昔から繰り返し人々が訪れ、暮らし、そして去っていった残影なのです。
 
 2万年をかけて形成された宮内遺跡の姿
写真出典 本埜村史編さん委員会2008『本埜の歴史』   
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(4)《白井市桜台》一本桜南遺跡 
弥生から古墳へ
 水田での米づくりが広まり、農業が社会の基盤となった弥生時代から、奈良盆地に誕生したヤマト王権が強大な武力を背景に列島各地へとその勢力を広げていく古墳時代(3世紀中ごろ)の到来は、一般の民衆をも巻き込んだ日本列島の一大変革期でした。人びとが争った形跡がほとんどなく、国家を形成するような権力はいまだ発達していなかった弥生終末期の関東地方にも、大きな変革の波が訪れます。

 60軒もの竪穴住居跡が発見された一本桜南遺跡は、印西市と接する桜台3丁目から十余一公園にあり、現在は市街地の一角に変貌しています。

 弥生から古墳に時代が移るころ、まるで現在のニュータウンのように、林野に一斉に住居が建てられました。遺跡からは、弥生時代以来この地域で作られてきた、縄文や撚糸文(よりいともん)で表面を飾り、口縁部に輪積みの跡をはっきり残す壺や甕が出土しています。同時に、刷毛(ハケ)で整形され脚台が付いた甕や高杯(たかつき)といった、ルーツを東海地方にもつ土器もたくさん出土しています。同じ文化圏にある近隣の集落とだけ付き合っていた弥生時代が終わり、遠方の異なる文化の人びとと頻繁に接する新たな時代(古墳時代)がやってきたことをうかがわせます。

 この遺跡の竪穴住居跡は、家族が暮らすのに十分な間取りと施設をもつ大きな建物と、つくりが粗末な小さな建物にはっきり分けられます。小型の建物は一辺が2〜3m程しかなく、家族が生活するスペースはありません。おそらく、小型の建物は特定の地位や職種の者の住まいか、あるいは通常の住まいとは異なる使われ方をしていたのでしょう。
 
 
 現在の一本桜南遺跡(十余一公園入口)
 一辺2mほどの小型住居跡群(一本桜南遺跡)
混じりあう土器と人
 同じ白井市にある復山谷遺跡は現在の国道16号線沿い、復交差点からカクライ家具のあたりに広がっていました。集落の最盛期はちょうど弥生時代と古墳時代のはざまにあたり、37軒の竪穴住居跡と墓が1基見つかっています。一本桜南遺跡と同じく土器にはふたつの系統が見られますが、おもしろいのは口縁部に輪積みの跡を残したハケ整形の脚台付甕があることです。

 これは、地元と外来の技法がひとつの土器に見事に融合したことを示しています。古くからの旧住民と、新たに異なる道具や文化を携えやって来た集団が婚姻などで混じりあった結果かもしれません。

 さて、時代の変わり目に出現したふたつの集落は、次の世代にバトンタッチされることなくいともあっさりと捨て去られます。1700年程前、ニュータウンの先人たちがなぜ自分たちで築きあげた集落をむざむざと見捨ててしまったのか、その理由は謎のままです。
 図版出典 千葉県文化財センター「千葉ニュータウン埋蔵文化調査報告書Y・Z」 
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(5)《印西市》向新田遺跡 
河川は交通の要 
 現在の千葉ニュータウン中央駅の南側、神崎川が開いた谷津を望む台地上には弥生時代の終わりから古墳時代の初めにかけて数多くの集落が栄えました。現在の地名では印西市の武西・戸神・船尾地区、八千代市の佐山・平戸地区にあたります(地図参照)。

 これらの遺跡群は、漁労や水田経営に適した小河川が流れる谷津に面しており、水路によって印旛沼や東京湾方面に通じる交通の要衝にも位置していました。当時の人々にとって非常に恵まれた立地条件だったのです。

 今回は、その中から向新田(むかいしんでん)遺跡を紹介します。
 
  
 新川から遺跡群のあった台地を望む 
 
 神崎川周辺の遺跡銀座
珍しいアクセサリー 
 向新田遺跡は、国道464号線沿いにある東京電機大学キャンパスのすぐ裏手にありました。現在は造成中の区域ですが、発掘によって古墳時代前期に属する83軒もの竪穴住居跡が調査されました。今から1700年程前の紀元300〜400年頃に、複数の世代が継続して暮らした集落ではないかと考えられます。

 特に珍しい出土品として、滑石製のアクセサリー(垂飾)があります。穴にヒモを通し身に着けたのでしょうか。あるいは髪飾りでしょうか。他には、この頃の首飾りとしてよく知られる勾玉(まがたま)や管玉(くだたま)も見つかっています。これらは通常、単なる飾りというより魔よけなど宗教的な意味合いを持っていたと考えられています。

 この遺跡では、魚網用のおもりとして使った土玉(どだま)も多く出土しています。河川で魚を捕った証拠でしょう。土器や石器だけでなく、こういった出土品から、当時のファッションや生業についても様々な情報がもたらされるのです。
 
 
 上・垂飾(アクセサリー)と下・土玉(おもり)
故郷を捨てる人々
 様々な地域の土器が同じ遺跡内に入り混じることから、弥生から古墳に移り変わる時期には大規模な人や情報の移動が想定されています。しかし、向新田遺跡では外部の影響を受けたと思われる土器は少なく、下総地方で定着した土器が大半を占めています。

 一方、この遺跡よりやや古い時期の集落である泉北側第2遺跡などには、北陸地方の土器と極めて似た土器が数多く出土しています。泉北側第2遺跡は、県道印西龍ヶ崎線沿いにあるそば屋「嶺久庵」の少し西側に広がっていた遺跡で、向新田遺跡から北に3kmの位置にありました。時期が近くても土器の系統が隣接する遺跡ごとに異なるということは、それだけ社会が流動的で集団同士の関係も複雑であったことを示しています。

 農業をなりわいとしている人々は土地に対する執着が強いと思われがちですが、少なくとも当時の人々はそれほど土地にこだわらず、あっさりよその土地に移っていきました。

 向新田遺跡など神崎川周辺の古墳前期の遺跡群は、その事実を私たちに教えてくれます。  
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(6)《印西市大塚》並塚塚群 
塚とはなにか 
 塚とは中世から江戸時代に土を盛り上げて作られた記念物で、地域の民間信仰の現れと考えられています。一見すると古墳に似ているため、古墳と勘違いされていることも少なくありません。

 塚の周囲に石碑などが残されている例を除き、なぜ塚が築かれたのかを知る術はほとんどありません。例えば、本埜村竜腹寺の県道佐倉印西線沿いに現存する塚は、石碑から出羽三山信仰に関係する塚であることが判明しています。しかし、かつて千葉ニュータウンに数多くあった塚は、築かれた理由もわからぬまま消えていきました。その中に、今回とりあげる十三塚と呼ばれる不思議な塚もあります。
 
 現在は住宅地となった並塚塚群
住宅街にあった十三塚 
 千葉ニュータウン中央駅北口ビル街にある富国生命ビルの道路向かい、印西市大塚3丁目の新しい住宅地にかつて並塚の十三塚がありました。十三塚とは、文字通り十三の塚が並べて築かれた塚群です。並塚という地名自体が十三塚を表した地名であることは想像に難くありませんが、築かれた由来は地元にも残っていません。

 並塚の十三塚は、実際には十五の塚が並んでいるため、本当に十三塚と呼んでよいものなのかは不明です。しかし、厳密に十三にはならない例も少なからずあるので、一応ここでは十三塚だと考えておきます。並塚の十三塚は、北西から南東方向におおよそ4mおきに築かれ、高さはほとんどが1m未満、直径は5m程度と全体的に貧弱なつくりでした。しかし、調査前にかなり壊されていたものの、中央の塚は特別で、方形状の高まりをもち、高さ1・8m、規模も10mを超えることが判明しました。十三塚の多くは中央に立派なつくりの塚を配するのが普通です。
 
並塚塚群(十三塚)調査時の空中写真
十三の意味 
 十三塚はほとんどが江戸時代に築かれたものですが、当時の文献が塚に言及することは皆無に近く、発掘しても多くの場合なにも出土しません。並塚においても同様でした。

 一般的に、十三塚は十三仏信仰に関連していると考えられています。十三仏信仰とは、初七日から三十三回忌まで合わせて十三回行われる法要の守護仏を指し、室町時代ごろから日本で独自に発達したものです。この信仰が民間に広まる中、各地域で十三塚が築かれたのでしょうか。日本民俗学の第一人者である柳田國男も関心を寄せたように、十三塚はかつての農村においてなんらかの重要な役割を担ったことは間違いありません。

 私たちは、古ければ古いほど昔のことはわからなくなると考えがちです。ところが、十三塚のように二百年前まで残っていた風習ですら、文字に記録されなければわからなくなってしまうのです。
 
 並塚塚群の測量図
図版出典 千葉県都市公社1975『千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書V』 
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 (7)《本埜村》瀧水寺裏遺跡
3万年前の風景
 それは、地球上に最後の氷河期がやってきた時代でした。この頃の日本列島は平均気温が現在より5℃以上低かったそうです。海水面は低下し、朝鮮半島やサハリンと陸続きになった結果、大陸からナウマン象やオオツノジカなどの群れがやってきました。関東平野は、スギ、マツといった針葉樹と、ハンノキのような落葉広葉樹が点在する広大な草原でした。火山活動が非常に活発な時代で、富士山や箱根はもちろん、遠く鹿児島で噴火した火山灰が関東に降り注ぐことさえありました。

 3万5千年前には確実に列島に住みついていたとされる私たちの遠い祖先は、そのような厳しい環境の中、自らの知恵と工夫で逞しく生き抜いたのです。2万年以上続いたこの時代は「後期旧石器時代」と呼ばれ、道具としては石を加工した石器が主に使われました。
 
最古の印西人
 千葉ニュータウン周辺には旧石器時代の遺跡が豊富で、重要な発掘調査も数多く行われてきました。今のところ印西地域でもっとも時代が古い遺跡は、本埜村の瀧水寺裏(りゅうすいじうら)遺跡です。

 この遺跡は、千葉ニュータウン滝野地区から県道佐倉印西線を印西方面へ向かってほどなく正面に見える瀧水寺の前を抜け、小林方面へ至る十字路の手前左手に広がる畑のなかにあります。おおよそ2万7千年前と推定される、立川ローム層第9層という地層から多量の石器が出土しました。

 旧石器時代の遺跡では、住居跡などの遺構が発見されることは奇跡的で、石器以外のものが出てくることもほとんどありません。木、皮、骨などを加工した道具も多く利用されていたとは思いますが、日本の土壌は酸性の火山灰層が覆っているため、有機物は土中で腐ってしまうのです。人骨の発見もほとんど期待できません。
 
環状に出土した石器群
旧石器時代の磨製石器?
 私たちは歴史の授業で、打ち欠いて作る打製(だせい)石器は旧石器時代、磨いて作る磨製(ませい)石器は縄文時代以後のものだと習いました。ところが、斧として使われ、局部磨製石器と呼ばれる部分的に磨かれた石器が、瀧水寺裏遺跡と近い年代の遺跡で見つかることがしばしばあります。瀧水寺裏遺跡からも1点出土しました。学校で習ったことがすべて正しいわけではないという、ひとつの好例でしょう。

 瀧水寺裏遺跡では、もうひとつおもしろい発見がありました。なぜか石器が環状に出土するのです。当時の人々は、ひとつの場所に長く定住せず、小さな集団で獲物を追いながら住まいを頻繁に移動する生活を送っていました。環状に石器が出土する遺跡は、そういったいくつかの集団が季節的に集まって暮らしたキャンプ場ではないかと考えられています。石斧(せきふ)が多く見つかっていることから、ゾウやシカなど大型獣の狩猟や解体の場だった可能性も指摘されています。

 私たちが暮らす千葉ニュータウンが広がる台地上は、1万年以上に渡り原始人たちが獲物を求めてキャンプ生活をしていた舞台でもあったのです。
 
出土した石斧など(中段左の石器が局部磨製石器)
図版出典 印旛郡市文化財センター2004「瀧水寺裏遺跡」、同「印旛の原始・古代―旧石器時代編」  
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(8)《印西市木刈》木苅峠遺跡 
学史に残る発掘調査 
 木刈小学校の西側、木刈4丁目31番地のあたりには、石器が大量に出土した木苅峠(きかりびょう)遺跡がありました。現在は閑静な住宅地となっているこの遺跡は、千葉ニュータウンの造成に伴い昭和47年度に発掘が行われ、千葉県内では初めてとなる、大規模で組織的な旧石器遺跡の調査となりました。

 石器の年代は出土層位から大きく3つの時代に分けられ、特に立川ローム層の第6層と第3層から多くの石器が出土しています。今回は、2万5千年ほど前に姶良火山(鹿児島県)が大噴火し、下総台地にも火山灰が降り注いだ第6層の時代について見ていきたいと思います。
 
 住宅地と化した木苅峠遺跡
後期石器人の能力
  「旧石器人」と聞くと、認知能力が未発達で、原始的な人びとが連想されます。しかし、当時の人びとは本当に原始的だったのでしょうか。

 確かに、彼らは身の回りにあるものを道具に加工し、主に狩猟と採集で生計を立てていました。しかし、彼らは落ちている石を適当に拾って道具にしたわけではありません。木苅峠遺跡の主要な石材である珪質頁岩は東北地方南部から、美しい黒曜石は遠く信州から運ばれてきたものです。100km以上離れた土地から石材がどのように印西の地まで運ばれてきたのかは推測の域をでませんが、当時の人々が非常に広い範囲の集団と接触・交流し、必要な情報や材料を入手していたことが分かります。

 出土した石器を見れば一目瞭然ですが、石器づくりは思いつきで石を打ち欠くのではなく、予め適した石材を選択し、石器の使い方に合わせた完成形をイメージして作りあげています。

 後期旧石器時代に特有の石刃技法と呼ばれる石器は日本列島全域に広がっており、彼らが高いコミュニケーション能力を用いて様々な文化を広域的に共有していたことがうかがえます。狩りや採集もいきあたりばったりでなく、季節や自然環境に応じ、小規模なグループで計画的に移動しながら行われていました。人類学者たちは、後期旧石器人が現代に生まれても、私たちと同じように暮らすことができるだけの知能をもっていたと考えています。
 発掘風景
行政発掘の功罪
 木苅峠遺跡の調査担当者は、さらに石器が出土する可能性があったにもかかわらず、調査期間を延長して発掘を続けることができなったことを報告書の中で大変悔んでいます。開発に先立って行われる行政発掘は高度成長期から爆発的に増加し、その成果は日本考古学を大きく進歩させました。

 しかしその一方で、行政発掘は予算と期限が限られており、調査が終了すれば遺跡は破壊されてしまうことがほとんどです。行政発掘には、このような負の側面もあるのです。
 出土したナイフ型石器
【図版出典】千葉県都市公社1975『千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書V』  
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(9)《白井市》復山谷遺跡 
環境問題と遺跡 
 近年、地球規模の急激な気候変動への懸念が強まっています。とりわけ、私たちの排出する二酸化炭素など温室効果ガスによる地球温暖化は、人類の生存にかかわる環境問題として大きくクローズアップされています。

 しかし、実のところ人類は過去に幾度も気候の大変動を経験してきました。今回はその一例として、氷河期が終わりに向かい、気候が温暖化しつつあった1万5千年前の人々が暮らした遺跡を紹介しましょう。
 遺跡と国道16号線
細石刃(さいせきじん)の登場
 白井市の復山谷(ふくさんや)遺跡は、今はブックオフのある国道16号線復交差点のあたりにありました。古墳時代初頭の集落が見つかっていますが(連載第4回を参照)、旧石器時代の遺跡としても有名で、立川ローム層の第9層から第3層にわたって数多くの石器が発見されています。1万年以上にわたり人びとがこの地をキャンプ地に選んだ理由は、この場所が神崎川本流と支流に挟まれた台地上に位置しており、生活に適した環境だったためでしょう。

 1万5千年前、地球上は氷河期のもっとも寒い時期をすぎ、気候の温暖化が始まっていました。最寒冷期は現在より100mも低かった海水面が上昇をはじめ、下総台地では荒涼とした草原が少しずつ森林へ姿を変えようとしていました。

 そんな時期、復山谷遺跡を含む日本中で、「細石刃」と呼ばれる石器が大流行します。細石刃は幅1cmにも満たない小さな石器で、長さが幅の2倍以上もあるものです。木や骨に溝を彫り、何本もの石刃を差しこんで、槍や銛、あるいは鎌として使われました。
石器実測図(尖った木の棒などに複数の刃をつけて使用した)
旧石器人類の挑戦 
 新しい道具の登場は、気候が温暖化し、狩りや漁の対象が変わったことと関係があるようです。ナウマンゾウのような大型獣は、この時期までにおそらく乱獲や環境の変化により絶滅してしまいます。一方で、暖かくなるとともに種類や数が増えた小型動物や魚を効率的に捕獲する必要が生まれます。刃を付け替えることで様々な用途に対応できる細石刃は、その点でうってつけの道具だったのです。驚くことに、細石刃文化は日本とまだ陸続きだったシベリアや東アジアでも流行し、形態は異なるもののヨーロッパやアフリカでも流行しました。まさに、温暖化に伴う環境変化に適応して世界各地で発明された道具であり、人類の工夫の結晶だったのです。

 復山谷遺跡から見つかった細石刃は、九州など西の方に分布する石器技法で、元は東アジアから伝わったタイプだと考えられています。一見何の変哲もないこの小さな石器には、遠い祖先の英知が隠されているのです。
 
出土した細石刃
【図版出典】千葉県文化財センター1982『千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書Z』  
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(10)《印旛村いには野》瀬戸遠蓮遺跡 
人類の一大発明
 人類史の重要な1ページである土器の発明は、今のところ日本の縄文土器が最古であると考えられています。

 寒暖を繰り返しながら徐々に温暖化が進んでいた1万3千年ほど前、それまでの乾燥した草原に森林が出現してシカやイノシシが増えはじめ、海水面の上昇により魚介類の生息地も拡大しつつありました。そうした時期に、粘土を加工して高温で焼き、容器として使用するための土器が発明されたのです。それは、人類史上初となる化学変化を利用した道具の発明でした。
 
現在の瀬戸遠蓮遺跡(奥に見える建物がふれあいセンター印旛)
旧石器から縄文へ 
 今回紹介する瀬戸遠蓮(せととおばす)遺跡は、現在の印旛村役場入口のすぐ正面にありました。発掘が行われた1971年当時、いには野地区の風景が現在とはまったく異なっていたことが写真からわかります。

 瀬戸遠蓮遺跡では、隆起線文や爪形文と呼ばれる縄文時代でも最古の部類に属する文様の土器が見つかりました。これらは、土器作りがまだ実験的な段階であったためか大変脆く、大抵は小さな破片でしか見つかりません。また、縄文土器とはいっても縄目の文様はつけられておらず、飾りは細い粘土紐を口縁部に貼り付ける程度のものでした。

 学校の教科書には、縄文人は竪穴住居に住み、定住生活を始めたと書かれています。しかし、縄文時代の始まった頃は尖頭器と呼ばれる旧石器が使われ、竪穴住居もほとんど見つかりません。多くの地域ではいまだ旧石器人とさほど変わらない移動生活をしていたようです。生活スタイルは、何百年、何千年をかけてゆっくりと変化していったのでしょう。

 なお、この時期の土器は発見されること自体が貴重ですが、千葉ニュータウンでは北総浄水場の西側にあたる印西市草深の地国穴台遺跡でも出土しています。
 
遺跡の空中写真
縄文土器の恵み
 そもそも、土器はなぜ発明されたのでしょうか。実は学界でも意見が分かれており定説はありません。しかし、土器の発明が結果として人びとの生活に革命的変化をもたらしたことは間違いありません。

 水を通さず火にかけることのできる土器のおかげで、盛りつけや貯蔵だけでなく、煮たり蒸したりといった調理も簡単にできるようになりました。縄文人は、身近な森から採集したドングリなどの堅果類をアクぬきし、ふんだんに肉や魚や根菜を入れ、塩で味付けしてシチュー状に煮込むといった、旧石器人にはできなかった豊かな食生活を実現したのです。

 温暖な気候の中で自然の恵みを享受する新たな時代の幕開けに、土器の発明は欠かせないものだったのです。

 縄文草創期の土器(瀬戸遠蓮遺跡)
【図版出典】千葉県都市公社1974『千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書U』  
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(11)《印西市小倉台》大塚前遺跡 
仏教の広まり
 神道と並び日本人にもっともなじみの深い宗教、仏教。しかし、お墓参りでもなければ私たちが普段から仏を意識することはあまりないかもしれません。現代日本の仏教は概して、葬式仏教などとも言われます。

 そもそも仏教はインド発祥の外来宗教ですが、聖徳太子や天武天皇といった時の権力者の深い帰依を経て、奈良時代には国を護る教えとして定着していきました。とりわけ、東大寺の大仏建立で有名な聖武天皇は仏教の力をもって国を治めようとしました。房総においても、奈良時代には各地で国分寺を中心に多くの寺院が建設されます。

 古代の仏教は、国の積極的な保護を受けて発展したのです。
 柱穴はかつての寺院跡、溝は道路跡
大塚前廃寺
 現在は住宅地となっている印西市の小倉台1丁目に、その昔小さな仏堂がありました。

 建立の時期は、8世紀後半、平城京(奈良)から平安京(京都)に都が遷ろうとする時期にあたります。2棟の掘立柱建物と1軒の竪穴住居からなり、北側には道路状の溝が掘られていました。西側の掘立柱は一辺が3mに満たない小型の建物で、東側の建物にも同じような柱跡がありました。

 ところが発掘の結果、東棟は掘立柱の外側全面に廂を受ける柱が囲む、当時の寺院の典型的な構造であることが分かります。さらにこの遺跡からは、現在の市川市にあった下総国分寺の瓦と同じ型の瓦が出土し、間違いなく当時の寺院であることが確認されました。しかし、このお寺はそれほど長期間使われず、数十年のうちに廃寺となったようです。
 
 
 出土した軒丸瓦(左) と軒平瓦(右) 
民衆の仏堂
 房総でもっとも古い寺院のひとつに、7世紀後半に建てられた栄町の龍角寺があります。この寺を造ったのは、古代印旛郡で権勢をほこり大きな古墳を築いた有力豪族だと考えられています。8世紀中ごろには下総国分寺、上総国分寺(市原市)が相次いで建てられ、房総でも国家仏教が本格的に展開します。

 大塚前廃寺も、仏教が急速に普及する世相を背景に建てられたことは間違いありません。下総国分寺から瓦を供給してもらっている事実からも、その結びつきが窺えます。もしかすると、一般の民衆に仏の教えを広めるため国の役人が建築を指示した出先寺院のようなものだったのかもしれません。

 建設のいきさつはどうあれ、この小さな仏堂は、飢餓や伝染病の流行、高い税の取り立てに苦しんだ農民たちが祈りを捧げ、心の平安を得た場所だったのでしょう。現在の都市的景観からは想像もつきませんが、千百年前、この場所には古代の寺院が確かにあったのです。
 
遺跡はマンション街に変貌した
【図版出典】千葉県都市公社1974『千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書U』   
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(12)《印西市平岡》馬込遺跡 
平岡自然公園 
 小林牧場の入口から県道佐倉印西線を印西方面に進み、次の信号を右折すると、ほどなく斎場、霊園、自然の家からなる平岡自然公園に到着します。施設はまだ完成したばかりですが、整備自体は15年前から始まっており、開発に先立つ発掘調査は約10年前に実施されました。旧石器、縄文、弥生など複数の時代にまたがる馬込遺跡は、瓦塔と呼ばれる平安時代初期(9世紀)の遺物が発見されたことで、一気に注目を集めることになりました。
 
馬込遺跡の現況(右奥の建物は印西斎場)
瓦塔の発見と復元 
 瓦塔とは、文字通り瓦で作られた塔のことです、奈良・平安時代の塔といえば、お寺に建てられた三重や五重の塔のことですから、要するに多重塔の瓦製模型です。瓦塔は少量の破片が見つかるだけでもかなり珍しいのですが、馬込(まごめ)遺跡では大量の破片が広い範囲にばらまかれた状況で見つかりました。

 この破片を丁寧に復元したところ、思わぬ事実が判明します。通常はたいてい五重塔に復元される瓦塔が、なんとふたつの七重塔に復元されたのです。

 印旛沼周辺に七重塔が建っていたかどうかは定かでありませんが、近隣では上総国分寺(市原市)に七重塔があったことが知られています。しかし、実在の塔をモデルにして作られた可能性は否定できないものの実際のところはわかっておらず、またどこの窯で作られたのかもわかっていません。謎の多いふたつの瓦塔は、微妙な違いはあれ大変似ているため、少なくとも同じ工人(集団)によって製作されたと考えられます。
 復元された2基の瓦塔(写真提供 千葉県教育振興財団)
仏教がつなぐ古代と現在
 そもそも多重塔は、仏舎利、つまりブッダの骨を納める古代インドのストゥーパが起源であり、わが国では飛鳥時代以降に寺院の伽藍建築として各地で建立された建築物です。ですから、瓦塔も仏教に関連する道具であったことは間違いありません。

 馬込遺跡では前回紹介した大塚前廃寺のような寺院跡は見つかっていませんが、遺跡から1kmほど西のところには木下別所廃寺跡があります。奈良から平安時代にかけて、この地域では仏教に関わる活動が活発に行われていたようです。

 そう考えると、遺跡のすぐ隣に印西斎場が建設され、人びとが遥か千年以上昔のようにこの地で仏式の祈りを捧げるようになったのは、偶然とはいえなんとも不思議なことです。

 なお、馬込遺跡で出土した2基の瓦塔は、千葉県有形文化財に指定されています。
 図版出典 千葉県文化財センター2004『印西市馬込遺跡』
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 (13)《本埜村角田》角田台遺跡
歴史豊かな角田地区
 日本医科大学病院の北に位置する本埜村角田地区の集落は、緑豊かな里山の中にあり、現存する千葉県最古の建造物、創建1472年(文明4年)の栄福寺薬師堂(国重要文化財)を保存継承してきた地区です。

 栄福寺から谷津を挟んで北西の台地上には、現在は北総線の車両基地となっている角田台(つのだだい)遺跡がありました。遺跡では、栄福寺薬師堂が建てられた同時期かそれ以後の陶器や銭貨、馬土手や道路などが見つかっており、500年前の建物が保存されているという事実がいかに特別なことかが窺えます。2万年以上前の時代の美しい石器も多数出土しています。このように、角田地区には貴重な歴史遺産が数多く残されています。
 角田台遺跡の現況(北総線車両基地)
文字の使用
 話題が飛びますが、印旛地域に文字が出現したのがいつ頃かご存知でしょうか。

 遺跡から文字が見つかるようになるのは、8世紀の奈良時代頃からです。当時は紙ではなく木簡や土器に墨書きするのが一般的でしたが、文字を理解できたのは僧侶や役人などごく一握りの人びとだけでした。残念ながら木は土中で腐ってしまい滅多に残らないため、遺跡から出土するのは土器に墨書きされた文字の記録が一般的です。

 角田台遺跡では、平安時代初期(9世紀前半)の竪穴住居跡41軒と掘立柱建物跡5棟が調査され、「恵」「仟」「千仏」「佛」「財」「信」「寺」といった文字が書かれた墨書土器が多数出土しました。どうやら印旛地域では、奈良・平安時代に仏教の普及と歩調を合わせて、少しずつ文字が使用されるようになったようです。
 
角田台遺跡空中写真
文字は語る
 文字のない時代を知ることは至難のわざです。縄文時代のような無文字時代の研究では、個人名や使われていた言葉、思想や宗教を知ることはできません。本当の意味で「歴史」が語れるのは、文字が使われる時代に限られます。例えば角田台遺跡出土の甕型土器には、次のような文章が墨書きされていました。「匝瑳郡物部黒万呂方代奉ヵ女 神奉ヵ 公申御益方代ヵ 麻 田部官万呂方代ヵ 无似道ヵ」

 冒頭の匝瑳郡(地名、現在の匝瑳市)、物部黒万呂(人名)はおわかりいただけると思いますが、それ以外は解釈が難しい内容となっています。黒万呂など3人の人物が、罪によって冥界に召されることを逃れるため神仏に土器を奉ったという説や、自らの身代わりとして神仏に土器や供物を奉り、ご利益を得ようとしたとする説があります。しかしどちらにしても仏教祭祀と解釈される内容で、当時の人びとの思想の一端が窺えます。また、匝瑳郡は物部氏と関わりの深い土地として知られており、かの地の人びとが角田台に移住して集落を開発した事実を示唆している可能性も考えられます。

 このように、いつ、だれが、どこで、なんのために、なにをしたかという問いへの歴史的考察は、文字があってはじめて可能になるのです。なにやら、物部黒万呂たちが角田台の台地で願いを込め、神仏に祈りを捧げた姿が目に浮かぶようです。
 
 
墨書土器(左)と 書かれた文字(右) 
図版出典 千葉県教育振興財団2006『千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書][』   
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(14)《印西市戸神》鳴神山遺跡 
「印旛」の地名 
 10世紀前半に編纂された「和名類聚抄」には、古代律令制の行政区画として印旛郡と11の郷名が記述されています。そのうち、言美郷、吉高郷、舩穂郷、三宅郷が現在の印西地区にあたると推定され、特に吉高や舩穂(船尾)は現在でも字名として残っています。

 このような郷名は、おそらく律令制が完成した8世紀頃(千二百年前)には成立していたものと思われますが、この頃の船尾郷に当たると思われる遺跡が、近年の発掘調査により姿を現しました。
 
鳴神山遺跡からニュータウンを臨む
古代の船尾
 イオンから千葉ニュータウン中央駅の西側陸橋を越え、戸神台の団地を南へ下った台地上に、鳴神山(なるかみやま)遺跡が広がっています。中央駅からは1キロ程の距離ですが、現在も畑地が広がるのどかな場所です。

 この台地の全域から、奈良〜平安時代前半期に当たる竪穴住居跡が206棟、掘立柱建物跡が43棟見つかりました。発掘の結果、この遺跡と谷津をへだて東側に広がる船尾白幡遺跡が、古代船尾郷の中心村落だったことが判明したのです。千葉ニュータウン内でも最大級の遺跡が、千年以上前の船尾の村落と判明したのは大変な驚きでした。当時は、現在よりも北西に船尾の集落が広がっていたことになります。
 
墨書土器「波田寺」 村落内寺院か?
印西を治めた人びと 
 鳴神山遺跡からは、古代印旛郡の有力氏族である丈部氏に関する墨書土器が複数出土しました。「丈部山城方代奉」、「國玉神上奉丈部鳥万呂」などの墨書は、前回紹介した角田台遺跡の土器と同じく、ある人物(丈部氏)が神仏に土器を捧げたことを示しています。

 このような祭祀土器の出土は印旛地域で特に目立ち、鳴神山遺跡の南側谷津に広がる西根遺跡でも「丈部」「舟穂郷」と書かれた墨書土器が出土しています。これらは、仏教とともに集落が一気に拡大する8〜9世紀の印西地域の発展に、丈部氏が深く関わったことを示すものです。現在の集落の原像ともいえる古代郷は、仏教の求心力を背景に発展したことが発掘の成果から明らかになりましたが、丈部氏は印西地域でその中心的役割を果たした一族だったのでしょう。彼らは元々ヤマト王宮の護衛を担当した軍事氏族で、「壬生部」、「大生部」といった他の有力氏族と同じく当時の印旛地域に数多く分布し、開発を推進した集団でした。

 このような考古学や歴史学の成果から、印西地域は文化的に古代まで遡るつながりを有していたことが明らかになりました。印西地域が少なくとも千二百年前にはひとつの文化圏を形成していたとする証拠は、研究が進むにつれさらに増加することでしょう。

 
 カマドをもつ竪穴住居跡
図版出典 千葉県文化財センター2000『千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書XW』  
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(15)《印旛村松虫》松虫陣屋跡遺跡 
上杉謙信 下総へ侵攻 
 現在放送中のNHK大河ドラマ「天地人」に登場する戦国大名上杉氏は、関東の有力大名北条氏と対立関係にありました。

 永禄9年(1566)、上杉謙信は北条氏に従っていた原氏の居城、臼井城を攻撃します。現在の佐倉市臼井田に所在した臼井城は印旛沼南岸の高台に築かれた城館で、対岸の師戸城(現在の県立印旛沼公園)とともに臼井原氏の拠点でした。本佐倉城(酒々井町)を居城に割拠した千葉氏をはじめ、戦国時代の下総を支配する大名にとって、当時の印旛沼は交通や流通の要衝だったのです。
 
松虫陣屋(手前は成田新高速鉄道の工事現場)
印西地域の城館 
 印西地域も、戦国の乱世と無縁ではありませんでした。印旛沼沿岸には、印西市の小林城跡や本埜村の笠神城跡など、防御施設を備えた城館が多く知られています。今回紹介する松虫陣屋跡遺跡も、そうした城館のひとつでした。

 印旛中学校の西側から、戦国時代後期に築かれた松虫陣屋の跡が残る山林が望めます。ここは国重要文化財の七仏薬師如来像や松虫姫伝説で有名な松虫寺の南側にあたり、歴史的にも由緒ある土地柄です。平成18年度には、北総線の延伸に伴い遺跡の一部が発掘調査されました。

 台地上の南端に位置する松虫陣屋跡は、空堀と土塁で40m×80m程の長方形に囲われた郭と呼ばれる区画を基本構造としています。南側の出っ張りは周囲を警戒する櫓台と思われ、虎口と呼ばれる出入り口は東側にあるようです。

 このように、手の込んだ土塁の築き方や、自然の斜面を利用した複雑な構造から、松虫陣屋は小規模ながらも軍事的な施設としてつくられた城館と考えられます。
 遺跡からいには野地区を望む
戦国の終わりと松虫陣屋
 文献が残っていないため、誰が松虫陣屋を築いたのかはわかっていません。

 しかし、印西庄はこの時期千葉氏の勢力下にあったと推定されることから、千葉氏あるいは原氏に関連する城館ではないかと考えられます。また、江戸時代の軍記物『東国戦記』には、原氏が小林城、笠神城、松虫陣屋を舞台に活躍した様が描かれています。この物語は後世のフィクションにすぎませんが、少なくとも印西地域が戦国の激しい争いに巻き込まれていたことは間違いありません。一説には、松虫陣屋は上杉勢の下総侵攻に備えて築かれた砦とも言われます。

 臼井城は、戦国最強と呼び声高い上杉勢の攻撃にも落城しませんでした。しかし、天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めにより北条氏が滅亡すると、千葉氏や原氏も歴史の舞台から姿を消します。松虫陣屋も、その主と運命をともにし、戦国の終焉とともに歴史の中に埋もれていったのです。

 
松虫陣屋跡の概念図
図版出典 千葉県教育委員会1995『千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書T』  
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(16)《白井市清戸》清戸遺跡 
伝説の泉
 船橋カントリークラブ内に今も残る湧き水「清戸の泉」は、平安時代に大干ばつが起こり、人々が餓えに苦しんでいたところ、諸国を旅する僧が竜神に雨乞いして雨を降らせ、民衆を救ったとの伝説をもつ千葉県指定の史跡です。

 清戸(きよど)は、桜台小学校のすぐ西側、船橋カントリーや白井市福祉センターがある台地上に位置する緑豊かな地区です。江戸時代の牧に関係する野馬土手や宗像神社、それに清戸の竜神伝説など断片的な手がかりはあるものの、そのなりたちはいまだ明らかとは言えません。しかし、近年行われた発掘調査により、2万年前に遡る清戸地区の歴史がおぼろげながらも解明されはじめました。

 今回は、発掘の成果が物語るこの自然豊かな地区の歴史を覗いてみましょう。
 
現在の清戸遺跡周辺
狩りの証拠
 清戸地区で現在知られるもっとも古い人類の痕跡は、旧石器時代にまで遡ります。

 2万年ほど前には、小規模な石器製作の場となっていたようです。清戸地区の西側は神崎川の流れる低地に面しているので、このあたりの水場に集まる獲物を追っていたのでしょうか。

 氷河期が終わり、気候が温暖化する縄文時代にも、人びとはこのあたりで狩りをしていたようです。その証拠に、8千年ほど前の動物を捕らえる落とし穴や、5千年ほど前の矢じりが出土しています。原始時代の清戸地区に集落があった証拠はまだ見つかっていませんが、狩猟が行われていたことは間違いありません。
 
縄文時代の矢じり
集落の盛衰 
 清戸に人が定住した確実な証拠は、古墳時代前期、今から千六百年ほど前のことです。部分的な発掘ながらもこれまで12軒の竪穴住居跡が見つかっており、ある程度の規模の集落が展開したようです。彼らはどこからかやってきて、清戸の南側に広がる谷津に集団で水田を開き、生計を立てたのでしょう。

 次に集落が展開するのは平安時代です。竜神伝説は大同年間(806〜809年)の出来事と伝えられているので、9世紀中ごろを中心とする集落の年代とは50年ほどずれがあります。それでも、当時の集落に暮らした人びとが苦しめられた干ばつが、伝説を生みだす素地となった可能性は否定できません。

 古墳時代も平安時代も、集落はあまり長続きしなかったようです。江戸時代には、広大な幕府の御用牧の一部、つまり馬の放牧地となります。伝説が語るように、かつての清戸周辺は多くの人が暮らすにはあまり適さない環境だったのでしょうか。伝説の手がかりは、もしかしたら今も清戸の土中に眠っているかもしれません。

 干ばつに苦しんだ?平安時代の人々が使ったうつわ
図版出典 千葉県教育振興財団2007『千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書]\』  
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(17)《本埜村角田》弐ト込遺跡 
縄文文化と温暖化
 鳩山首相が新たに打ち出した二酸化炭素の排出削減政策により、環境問題が改めてクローズアップされています。現在の地球温暖化は、化石燃料などの大量排出が引き起こした現代型の環境破壊ですが、実は過去にも自然現象による気候温暖化は何度も起こっています。しかし人類は、環境の変化にうまく適応し、その都度新しい生活様式を生み出してきました。日本においてそれは、1万5千年程前に起こっています。「縄文文化」の誕生です。

 縄文時代と聞くと縄文土器がすぐ思い浮かぶと思いますが、土器の流行も、気候温暖化の副産物と言えなくもありません。気候が少しずつ温暖化し、人びとが同じ土地に暮らす定住化が徐々に進んだ結果、土器のような重くかさばる道具も自由に使えるようになったからです。

 約1万年前、縄文時代早期と呼ばれる時期には、温暖化による自然環境の変化に合わせ人びとの暮らしは大きく変わります。人びとは竪穴住居に暮らし、弓矢で中小の動物を狩り、海や川でさかんに漁労にいそしむ、豊かで多様な縄文文化が誕生したのです。
 
 陥穴 炉穴(縄文バーベキューの跡) 
定住生活の始まり
 発掘された千葉ニュータウン周辺の遺跡からは、炉穴と呼ばれる縄文早期の屋外炉がよく見つかります。穴を掘った地面に土器を設置し、煮炊きして調理した跡だと考えられています。本埜村角田地区の集落の北側、現在は国道464号線と北総線が走る弐ト込(にとごめ)遺跡では、20基もの炉穴が見つかっています。

 縄文土器と言うと縄目がついた土器を連想しますが、この頃は縄文をつけないものが多く、炉穴に差し込めるよう底は尖っていました。他にも、動物を捕らえるための陥穴や矢じり、植物を加工する石器が見つかっています。

 今のところ住居跡は見つかっていませんが、縄文人がこのあたりでさかんに狩りや調理を行っていたことは間違いありません。

 弐ト込遺跡から3kmほど北にある瀧水寺裏遺跡では、この頃ハマグリやシジミなどの貝が炉穴からまとまって出土しています。温暖化で現在の印旛沼にも海水が入り込みはじめていた証拠です。狩猟に適した森に恵まれ、また海産物を捕獲しやすい浅瀬に恵まれた地理条件からか、印西地域の縄文人はこの頃比較的安定した暮らしを営んでいたようです。

 さて、当時と現在を比べる上で忘れてはならないのが、時間の長さです。縄文早期は4千年にも及び、その間に気温は少しずつ上昇していきました。現在のように、人間活動の影響で急激に温暖化したわけではありません。何十世代にもわたる日々の暮らしの中で、成功と失敗を繰り返しながら、人びとは徐々に新しい環境に合わせた生活様式を獲得していったのです。
縄目文様のない縄文土器(炉穴出土)
図版出典 千葉県教育振興財団2008『千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書]]』   
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(18)《印西市草深》一ノ作遺跡 
崖ぎわの集落 
 国道464号線竜腹寺交差点から県道64号線を総武カントリー方面へ進み、谷津田へと向かう坂へと下ると、右手に一ノ作遺跡の所在する台地が見えてきます。

 現在は全体が開発用地となっている崖のすぐ上から、7千年近く前まで遡る縄文時代前期の竪穴住居跡が9棟発見されました。これは千葉ニュータウンで調査された縄文時代の遺跡でも、比較的大きな規模の集落跡に数えられます。
 
 
 現 況
縄文海進とムラの成立 
  6、000年前は、世界中で温暖化がもっとも進んだ時期にあたり、平均気温は現在よりも総じて高い傾向にありました。海水面は現在より3〜4m高く、東京湾深くに入り込んだ海水はなんと栃木県にまで達していました! 

 千葉県でも東京湾奥に面した地域には数多くの貝塚が形成され、集落も大規模化し本格的な縄文ムラが成立します。

 このような恵まれた住環境を背景に、房総では縄文前期から中期にかけ、幸田貝塚(松戸市)や加曽利貝塚(千葉市)など名だたる集落が出現し関東地方の縄文文化は最盛期を迎えます。ところが不思議なことに、千葉ニュータウン地区ではこの時期の大規模集落が見つかっておらず、ちょっとした謎になっています。
 
 遺跡風景
内海の世界 
 海洋資源がおもしろいように獲得できた縄文前期にはおそらく、干潟が豊富で外海にも通じる場所に多くの人びとが集まったことでしょう。彼らは捕獲した鯨やイルカといった大型生物や多様な魚貝類を自分たちで消費するだけでなく、塩を作り、それらを山地の人びとと物々交換していたようです。それに加えて、集落周辺は森林に囲まれ、動植物も豊富に獲ることができました。東京湾岸はまさしく、この頃の縄文人が豊かな生活を営む上で最高の環境を備えていたのです。

 それに比べ、印旛・手賀の水域にも海水が入り込んでいたとはいえ、環境的には東京湾ほど恵まれていなかった印西地区には、さほど人口が集中しなかったのでしょうか。

 それでも、内海や森林でそれなりに魚貝類や動植物を獲得できる環境はあったわけですから、一ノ作遺跡をはじめとする中小の集落遺跡は、このような内海部で形成された縄文社会のひとつのあり方を示すものとも考えられます。

 しかし、歴史はたったひとつの発見で大きく塗り替えられる可能性を秘めているものです。将来、千葉ニュータウン地区でも縄文前期や中期の大規模集落が見つかり、この仮説を訂正しなければならなくなるときがくるかもしれません。それが歴史のおもしろさであり、発掘の楽しさなのです。

図版出典 千葉県都市公社1974『千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書W』
 
 
 住居跡
 
(19)《印西市戸神》西根遺跡 
遺跡発見奇譚 
 平成8年夏、ある少年が川遊びをしていたところ、網の中に土器片のようなものが入っていることに気付き、文化財関係の仕事をしている母親に知らせました。後日、母親と職場の上司が現地を訪れ、川の周辺に土器が散乱している状態を確認します。これが、印旛地区初の低地遺跡、西根遺跡発見につながるエピソードです。

 遺跡の周辺は道路整備に伴う護岸工事が進んでおり、この発見がなければ遺跡は破壊されていたでしょう。まさに、間一髪の救出劇でした。 
 
 現在の西根遺跡。左奥の台地は船尾町田遺跡。
 
川底の遺跡 
 西根遺跡は、北総花の丘公園から県道61号緑を八千代方面に進み、東京基督教大学のキャンバスを下った陸橋の真下に広がっています。

 この遺跡の調査成果は、実に驚くべき内容でした。代表的なものだけでも、3トンを超す大量の縄文土器、古墳時代前期の堰跡や船の部材などの木製品、奈良・平安時代の人名「大生部直子猪」「丈部春女」や、地名「舟穂郷」などが書かれた墨書土器などが挙げられます。この場所は、周辺に多くの集落遺跡があり、また当時の印旛沼とも至近距離にあったことから、水田稲作や船による水運に適した環境にあったと推測されます。

 西根遺跡の調査により、印旛地域でこれまでほとんど未知のエリアだった低湿地にも遺跡があり、それも台地では滅多に見つからない古代の木製品など貴重な遺物が数多く眠っていることが明らかになりました。

 今回は、多くの貴重な成果の中から、大量に出土した縄文土器について見てみましょう。
 
 現れた大量の土器              
 
         出土した縄文後期土器(加曽利B式) 
 
変わりゆく縄文の世界
 今から4,000年ほど前の縄文時代後期と呼ばれる時代は、気候が寒冷傾向にあったため、以前に比べ食糧の獲得が難しくなります。その結果、人口が減ると同時に以前の拠点集落が分散して小型化する一方、社会はより複雑化したと考えられています。また、土偶をはじめとする多種多様な呪術用道具が多く作られるようになります。それはまるで、人びとが神への祈りを通じて、増加する社会不安がもたらす精神的ストレスから逃れようとしたかのようです。このような時代に、圧倒的な量の土器が西根遺跡でまとまって出土したことには、どのような意味があるのでしょうか。

 正直なところ、その理由はまったくわかりません。出土土器はほとんど日常生活で使われた煮炊き用の深鉢や浅鉢に限られており、祭祀で使われるような特殊なものはほとんど見当たりません。石器や木製品、骨なども少なく、貝塚のような巨大なゴミ捨て場とも明らかに異なります。特に不思議なのは、土器の年代が300年にも及ぶことです。つまり、300年もの長きにわたり、日用品の土器のみを水辺の決まった場所に置き続けた、あるいは捨て続けたということになります。なんとも不思議な現象です。

 この貴重な遺跡も、ひとりの少年による偶然の発見がなければ永久に失われるところでした。

 地域の歴史や文化を伝える遺跡や文化財を守る上で、地域住民の役割がいかに大切であるか、このエピソードはあらためてそのことを教えてくれたといえます。

図版出典 千葉県文化財センター2005『印西市西根遺跡』
 
 
(20)千葉ニュータウン遺跡群 
無数の遺跡
 千葉ニュータウン周辺では、これまで多数の遺跡が発掘され、大きな成果を挙げてきました。この連載で紹介してきた遺跡の他にも、広大な面積が調査された松崎遺跡群(現在の松崎工業団地)、古代船穂郷の中心集落だった船尾白幡遺跡、印旛沼沿岸に分布する縄文貝塚群や古墳群など、地域の歴史を語る上で欠かせない遺跡はまだまだあります。前回紹介した西根遺跡のように、未発見の遺跡もどこかに埋もれていることでしょう。

 歴史上の新発見につながる重要な遺跡は、皆さんのすぐ足元に眠っているかもしれません。

 今後は、江戸時代の馬土手や、太平洋戦争のときに戦闘機を格納した掩体壕など近現代の構造物も、地域史の生きた証拠として保存について検討することが望まれます。
歴史との出会い 
 この地域は、様々な歴史資料を生で見ることのできる施設にも恵まれています。白井市郷土資料館、印旛村歴史民俗資料館(現在一時閉館中)、八千代市立郷土博物館などはニュータウンからであればいつでも訪ねることができますし、少し足をのばせば、県立房総のむら(栄町)、国立歴史民俗博物館(佐倉市)などの大規模施設もあります。伝説やエピソードで知られる寺社や史跡にも富んでいます。

 そういった過去の人びとが暮らし、去っていった証を目の当たりにすると、何もなかった場所に忽然と造られた「新しいまち」というこれまでのニュータウンに対するイメージは、大きく変わることでしょう。
 
 
 畑の下には千年以上前の古代集落、鳴神山遺跡が眠る。奥は現代の千葉ニュータウン、千年後はどうなっているのか。
 
そして誰もいなくなった 
 昔の人びとも、今を生きる私たちも、時代や社会環境は全く異なるとはいえ、家族や地域の共同体の中で成長し、伴侶を得て子を産み育て、親を介護し、日々の糧を求めては調理して食し、衣服を編み、新たな家を建てては移り住み、他人とのいさかいに悩み、災害や病気に苦しみ、孫の成長を喜び、そして死んでいくことに何も変わりはありません。遺跡に立つと、そういった昔の人びとの暮らしぶりが目に浮かびます。

 そして、歴史は繰り返し、千葉ニュータウンもいつしか廃墟となり、土の中に埋もれる日がくるかもしれません。そういった意味では、現代という時代も、大地に刻まれる歴史のひとコマにすぎないのです。

 いつの時代も、人びとは自分のまちのさらなる繁栄を信じ、生活していたに違いありません。千葉ニュータウンが、古墳時代前期の向新田遺跡のように短期間で廃墟になるのか、古代の宮内遺跡のように数百年に渡り連綿と続くのかは予想もつきませんが、開発により消えていった遺跡が物語る過去の歴史は、もしかしたら現代を生きる私たちの未来への道しるべとなるかもしれません。(稿了)