「江姫」の時代と印西地域

「月刊 千葉ニュータウン」2011年3月12日号〜12月10日号連載

松本隆志

(印西地域史研究会会員。著書に『下総地方史の発掘』、『下総の名主・平左衛門』)

[一] 江戸時代初期の風景
[二] 師戸城は・・・・兵どもの夢の跡
[三] 家康の関東入国20年後に佐倉城を建設
[四] 旗本高家となった上杉氏 〜260年間、浦辺・野口村を支配〜
[五] 秀忠・江姫の結婚と平和な時代 〜陰で動く平塚村領主・井上筑後守〜
[六] 木下街道を歩いた参勤交代の行列 〜延命寺を本陣にして接待〜
[七] 今も岩戸に残る米津出羽守の位牌 〜不動堂を再建した地頭を慕って〜
[八] 敵方武将を取り立てた徳川秀忠 〜川口宗勝を迎えた瀬戸・師戸など6村〜
[九] 萩原・中根・笠神の領主 杉浦越後守正友
    〜配下の最上家浪人柴橋氏は郡代の後土着〜
[十] 印西に安住の地を見つけた二人 〜布川城主豊嶋氏と板橋城主月岡氏〜

[一]江戸時代初期の風景

戦国時代の印西地方

 昨年の「竜馬」に続いて、NHKの恒例の大河ドラマ「江」(ごう)が始まりました。

 視聴率調査では常に上位にあり人気上昇中のようです。

 ドラマの主人公は織田信長の妹お市と浅井長政の三人の娘たち。その姉妹の末姫「江」の物語です。三姉妹のうち、長女の「茶々」があまりにも有名ですが、江姫についてはあまり知られていません。

 戦乱に明け暮れた時代をしたたかに生き抜いて徳川2代将軍・秀忠の妻になり、3代将軍・家光の母となったのですから、織田家からすると信長・市兄妹の血脈を徳川家に引き継いだ功労者でもあるのです。

 ところで私達の住んでいる千葉県、とりわけ印西地域も同じような戦乱があったのでしょうか。

 15世紀半ばにおきた応仁の乱が戦国時代の始まりですが、関東ではそれより10年以上早く戦乱が起こりました。鎌倉公方の足利成氏(あしかが・しげうじ)が関東管領上杉憲忠(のりただ)を殺害したことに発する内乱、「享徳の乱」が発生したからです。その後は、関東管領をめぐる上杉氏同士の内輪になり、北条氏の台頭により関東の覇権争いに発展し、房総一帯は100年間続いた戦乱の真只中にありました。なかでも国府台合戦は有名な戦いです。

 そして、天正一八(1590)年、豊臣秀吉によって小田原の北条征伐が行われ、事実上の天下統一が実現しました。

 北条方の上総・下総両国の千葉氏等の武将たちはことごとく敗走したのです。一夜にして50城が落城したとも言われています。

『本能寺焼討之図』楊斎延一(ようさい のぶかず)画(明治時代作成の武者絵、名古屋市所蔵)  

下総国印西庄

 現在の千葉県は、上総国・下総国・安房国に分かれていましたが印西地域は下総国の中にありました。現在の印西市、白井市などの一帯を「下総国印西庄」と言っていました。しかし戦国時代の印西庄の領主は誰であったのかを示す明確な資料は残っていずわかりません。現在の佐倉市臼井にあった臼井城の原胤栄(はら・たねひで)だったともいわれています。しかし、印西庄の全域を支配していたのかどうか。本佐倉城の千葉氏の領地が混在していたのかも知れないのです。

イエズス会の画家ジョヴァンニ・ニッコロによる信長の肖像画
(1583〜1590頃作成)
 

 印西市と白井市には中世の城址といわれる場所が今でも30か所以上あります。正確に「城」といえるのか、見張り用の「砦」なのか、武装した地方豪族の「館」なのかもしれませんが、土塁で囲い防壁をつくったとみられる跡が現在も各地に残っているのです。また、印西地域には中世から続く寺院が40以上存在するのです。江戸時代に廃寺になったものも含めると相当な数です。

 お寺があるからには当然ながら昔から多くの人々が暮らしていたのです。中世から続く村の数は印西市域で39村、白井市域で15村、併せて54村ほどありました。

 やがて戦乱がおさまると、敗者となった中世の武士たちも農民になって故郷に戻り始めました。徳川幕府は地方に一斉に役人を送り込み「検地」が行って各村の人口や農地などの生産力を把握してゆきます。さらに埜地や沼を埋め立て田畑に変える大規模な開発が行われ、新しい村ができます。印西市域で30、白井市域で6つの新田や村が造られてゆきます。

 少しずつ江戸時代の黎明期の風景が見えてきました。

 元禄一四(1701)、土井利勝の造った8代目の佐倉城主に越後から稲葉正往(まさみち)が10万2千石で転封してきました。そのとき印西地域の大半の村が佐倉藩領になったのです。

 しかし、それ以前は臼井城の原氏や本佐倉城の千葉氏が落城した天正一八(1590)年以後は徳川の支配地になったことは分かっていますが、印西地域それぞれの村の直接の領主が誰であったのかについてはよくわかっていないのです。
江姫が生きた時代、印西地域にとっての「空白の100年」を数回の連載で考えてみたいと思います。

崇源院(江姫)像(養源院蔵) 

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[二]師戸城は・・・・兵どもの夢の跡

臼井城の支城だった師戸城

 印西市の西南端に県立・印旛沼公園があります。春は梅や桜が見事に咲き印旛沼の湖面がしく映える景勝地です。ここは戦国時代の師戸城祉です。

 江姫が18歳のころ。1590(天正18)年4月には、北条氏の拠点だった小田原城を包囲するように豊臣秀吉軍がじわじわと陣容を整えていました。迎え撃つ北条軍の中には上総・下総の1万余騎も駆けつけていました。本佐倉城からは城主の千葉介重胤以下三千騎、臼井城からは城主・原胤栄の長男の原胤義(22歳)以下二千五百騎も参陣してにらみ合いを続けていました。

 そんな頃、秀吉と家康は留守部隊だけの手薄となった北条方の諸城攻略を計画して別働隊を出動させていたのです。江戸城をはじめとした北条方の城は次々と落城して行きました。

 臼井城と本佐倉城が陥落したのは5月だと言われています。本佐倉城(酒々井町)には徳川家康配下の酒井家次が、臼井城(佐倉市)には同じく内藤家長が攻めてきたのです。下総諸城の守備隊は予期せぬ大軍に反撃するすべもなく恐れをなして敗走したようです。しかし、臼井城主の原胤栄はこの戦いで戦死しているところからみると勇敢に戦ったのでしょう。そして遂に7月、小田原城は豊臣秀吉により陥落しました。

 小田原決戦が終わると、酒井家次は家康の命令で再び臼井城へ向かいました。家康の関東8カ国への国替えが行なわれるからです。臼井3万石の大名となった酒井家次は1604(慶長9)年に高崎5万石の藩主になるまで14年間臼井城主でした。しかし、臼井城はそれ以降、廃城になりました。

百数十基の野の墓に往時を偲ぶ

 臼井城の支城といわれた師戸城主が誰であったのか今では分かりませんが、この師戸地域には僅かの勢力で勇敢にもたたかったという伝承が残っています。

 昭和18年、師戸城址から広福寺につながる道路の拡幅工事の際、遺骨や刀、兜などが多数出てきたといわれています。広福寺前の通りには戦国時代の武士の墓とみられる宝筺印塔を囲むように百数十基の野の墓(無縁仏)が祀られています。

 師戸城址とは、一般に印旛沼に突き出た舌状台地の約1万5千坪のことを言っていますが、城址の東側の小字は根古屋と呼ばれています。現在は2〜3軒の家が建つだけですが当時は城を支えた人々が暮らしていた城下町の跡で城の一部です。師戸城祉の4〜5百b西側の舟戸の隣にも根古屋という小字があります。その一部には今でも土塁が高く積まれています。

 「これは舟戸城址だ」という人もいますが、師戸城に関係する戦国武士の居館跡か砦のような小規模なものです。

 現在の師戸地区の人々の多くは高地の西台や岡台に住んでいますが、師戸城が廃城になって以降も、江戸時代の前期頃までは、漁業を営む人々などが根古屋という低地で暮らしていたようです。広福寺もかつてはこの根古屋地区に在ったといわれていますし、弁天様の石碑に記された1764(明和元)年の年号からもそんな様子がうかがえます。

師戸地区の広福寺前にある宝筺印搭を中心にした野の墓(無縁物) 

兵どもの夢の跡

 家康の関東入国いらい60年間にわたって進められた「利根川の東遷」という大工事により、江戸の町は大洪水から救われましたが、利根川より水位の低い印旛沼には氾濫が度々起こりました。根古屋地区の人々は水害で高地へ移動したのでしょう。

 現在、師戸地区に住んでいる人々が、師戸城で戦った戦国武士たちの子孫であるのかどうか分かりません。

 代々名主を務めた馬場家は江戸時代中期ころまで「出山」という姓を名乗っていたようですが、なぜか中期以降に馬場姓に変更しています。その理由は不明ですがこんな推測も成り立ちます。

 千葉氏の庶族には「馬場」という姓があります。成田市周辺で活躍していた豪族です。もしそうだとすると江戸時代の初期は千葉氏の庶族であることが分かると災難が及ぶ心配から「出山」姓に改称していたのではないか。年月が経ちようやく時代も落ち着いてくると、かつての誇り高い旧姓を復活させたのかもしれません。

 渡辺家も師戸城に住んでいた武将だったのか「城の内」と言われていたそうです。

 「兵どもの夢の跡」ということでしょうか。

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[三]家康の関東入国20年後に佐倉城を建設

関東での最後の攻防

 江姫が徳川秀忠(二代将軍)と三度目の結婚をしたのは文禄四(一五九五)年でした。江姫24歳の時です。秀忠は家康の三男で江姫より6歳も年下のまだ18歳の青年です。江戸城を中心に江戸の町を建設する真最中のころです。

 その6年前の天正一八(一五九〇)年、豊臣秀吉は、徳川家康に後北条氏の旧領である関東の上野(群馬県)・伊豆(静岡県)・相模(神奈川県)・武蔵(東京都・埼玉県)・上総(千葉県)・下総(千葉県と茨城県の一部)の6か国、石高にして二百四十万石余の地に移るよう命じたのです。

 家康は小田原城が陥落すると父祖以来の三河国(愛知県)を離れ、多くの家臣やその家族を引き連れて関東(江戸城)に入国します。そして家康は、直ちに家臣団の配置と所領の割り振りを行いました。

 その結果、上野国(群馬県)は江戸北辺の重要な防衛拠点に位置づけ、石高の高い家臣を配置しました。特に、箕輪城(群馬県高崎市)城主には井伊直政を十二万石で、館林城(群馬県館林市)城主には榊原康政を十万石で配したほか、武蔵国忍(埼玉県行田市)城主に家康の四男、東条松平忠吉を十万石で、下総国結城(茨城県結城市)城主には家康の二男・結城秀康を十万一千石で、上総国大多喜城(千葉県夷隅郡大多喜町)城主には本多忠勝を十万石で配置したのです。

佐倉城(明治5年頃、阿部忠忱撮影)

戦国時代の印旛郡

 戦国時代、千葉氏や原氏が活躍した印旛郡はどうだったのでしょうか。これまでも述べたように原氏の居城であった臼井城(佐倉市臼井)には酒井家次を三万石で配置しましたが、千葉氏の居城であった本佐倉城(酒々井町)には三浦義次を一万石で、岩富城(佐倉市最南端で八街市隣接地・鹿島川上流)には北条氏勝を一万石で、また鹿島城には久野宗能を一万三千石で配しています。こうして家康は関東各地に一万石以上の上級家臣団四十一人と数千の旗本たち中級家臣団を配置したのです。

 家康は江戸に近い下総国の印旛郡地域に拠点が必要な事は承知していましたが、鹿島城のあった要害の地に着目し、臼井城や岩富城を廃止して土井利勝に命じて佐倉城を造らせたのはずっと後の20年後の事でした。

 土井利勝は佐倉城を慶長十六(一六一一)年の正月から7年間をついやし、元和三(一六一八)年ごろに完成させたと言われています。利勝は家康・秀忠・家光の三代に側近として仕え、徳川幕藩体制の基礎を固めた智略の人として知られています。佐倉城の初代大名はこの土井利勝です。

江戸城を取り巻く要衝となった佐倉城

 以来、佐倉城は江戸城を囲む南関東の諸国や海上の動静を窺う拠点城となり、西の小田原や北の川越などと共に江戸城を取り巻く要衝として、徳川譜代の有力大名が次々と封ぜられます。

 佐倉城は北側を印旛沼に面し、西南に鹿島川を眼下に見下ろす鹿島台地に位置しています。周縁は急崖があり、これに添った水堀を廻らし、崖下には深い湿地帯が連なる後堅固の城であった言われています。三層の天守・銅櫓・角櫓・四百畳余のある本丸が、石垣はないけれど土塁や瓦塀で廻らされていたといいます。

 しかし、印西地域の村々が佐倉藩大名の支配下になるのはさらに80年後の元禄十四(一七〇一)年以降の事でした。「下総国各村級分」という元禄十三年ころの文書によると印西市域は五十七人の旗本の知行地になっています。そのうち現在の白井市域の村々には十三人、印西市域の村々には四十四人の旗本の名前が出てきます。

 次回からはその中の印西地域の地頭となった代表的な旗本たち数人を追いかけてみたいと思います。

 現在の佐倉城跡

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[四]旗本高家となった上杉氏

 印西地域に配置された徳川直参旗本・上杉氏

 関東には江戸城を守るように譜代大名と徳川直参の旗本が五千余人、御家人一万七千余人が、きめ細かく配置されました。下総国印旛郡の印西地域に配置された、その一人が浦辺(部)村・野口村の地頭になった旗本・上杉氏です。

 この上杉氏の父親は名門である能登・七尾、畠山家の出身です。

 『寛政重修諸家譜』によれば、越後の上杉に攻められていた畠山家は領地安堵のため人質として幼少の義春を上杉家に差し出しました。義春はやがて上杉謙信の養子となり、以来、上杉を名乗り、謙信について数々の武功をあげます。やがて上杉家の筆頭家臣の上条家に後継ぎが無かったため、再び上杉家から上条家の養子に出されます。「上条上杉」とも言われました。

 謙信の死後、海津城に赴きますが、直江兼続の讒言(ざんげん)により上杉景勝と衝突したため落ちのびて秀吉の臣下になりました。しかし、関ヶ原の戦いで石田三成と袂を分かち家康の指揮下に入っています。

 慶長六(一六〇一)年、義春は息子を連れて家康に面会します。家康のすすめで旧姓・畠山に復しましたが、三人の息子のうち、長男・景広を大恩ある大名・上杉景勝に仕えさせ、そして次男の長員(ながかず)を上杉氏として独立させ、三男・義真(よしざね)に畠山家を継がせたいと願い出ます。そうして次男・三男はともに幕府の儀式や典礼を司る旗本高家となったのです。

浦辺村に拠点をおく

 先の『諸家譜』には、畠山義春は寛永二十(一六四三)年九十九歳で亡くなったと書かれています。五十三歳で亡くなった江姫より、はるか前に生まれ、さらに十七年後までも生きたのでした。

 印西領の浦辺村(現・印西市)六百八十石、野口村(現・白井市)三十五石の地頭になった初代は、この義春の二男、上杉長員です。今でも浦部地域の祭には「上杉源四郎」の幟が立てられますが、源四郎とは長員の幼名です。

 上杉氏は千四百九十石でしたが、明治初頭の『旧高旧領帳』によれば浦部村、野口村の他に柏井村百十六石(現・千葉市)のほか常陸国(茨城県)の上条村四百二十五石、小池村四百七十三石(現・阿見町)、上岩崎村二百六十八石(現・つくば市)、角崎村二百三石、飯出村百三十六石、狸穴村三十七石(現・稲敷市)、薄倉村(現・竜ケ崎市)など合計二千七十五石が上杉氏の支配領地となっています(現印西市の武西村も一時期支配していたといわれますが、いつ頃のことかはっきり判りません)。

 いずれにせよ上杉氏の領地はまとまっていないため、一番江戸に近くてしかも石高が大きく、他の旗本との相給地でない単独で支配できる浦辺村が気に入って拠点をおきました。

浦辺村の名主であった村越家の屋敷(浦部地区)。旗本上杉氏を迎える上段の間が用意されていたが、昭和42年に取り壊されたという。 

観音寺や歓喜院に今も残る書付・文書

 浦部地区の観音寺にも地頭の上杉氏が家族揃って来訪したことを示す書付や歓喜院の仏像の体内からは上杉家の姫女の名前を記した文書などが出てきました。

 浦辺村の名主の一人であった村越家の屋敷は昭和四二年に建て替えられましたが、それ以前は上杉の殿様が来られた時の段違いの間がある大きな屋敷であったといいます。

 同家には年貢割付帳十五点のほか、皆済目録二点、貸地・証文三十点、定用・臨時金受取覚十点、夫食拝借願三点、ほかに義倉関係文書など約九十点の文書が残されています。

 これらの文書を見ていると、幕府は「田畑永代売禁令」を発令していますが、農民は年貢上納に苦労すると金融の一手段として田畑の質入れを盛んに行っていた事が伺えます。これらの農民たちは質草を受け戻すことは大抵の場合は困難でした。やがて上層農民や在方の商人等のところに土地は集まって行きました。

 野口村は所沢村とともに現在の白井市の木地区を構成していた村のことです。この村からは村田方水帳や村明細帳、五人組御仕置帳、鉄砲有無御改書上帳など十数点の古文書が出ています。家数は七軒、人口は三十六人の小さな村でした。

 印西領の旗本領地は江戸時代中期になると次々に大名領に編入されていきますが、上杉氏の浦辺村、野口村の支配は明治維新まで変わる事はありませんでした。上杉氏の江戸屋敷は、現在の地下鉄日比谷線東銀座駅の傍、中央区築地にありました。

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[五]秀忠・江姫の結婚と平和な時代

江姫、秀忠とその子供たちが辿った運命

 文禄4(1595)年、江姫は24歳のとき、6歳下の徳川秀忠(18歳)と再々婚してたくさんの子どもに恵まれました。

 結婚2年後には長女の千姫が誕生しました。千姫は4歳で豊臣秀頼(65万石)に嫁ぎますが、豊臣家滅亡後は姫路新田藩主・本多忠刻(10万石)と再婚します。

 二女の珠姫は加賀藩第2代藩主・前田利常(102万石)に嫁ぎ、第3代藩主・前田光高の母となります。三女の勝姫は福井藩主・松平忠直(32万石)に嫁ぎます。四女の初姫は伯母・常高院(江姫の姉の初)には子供がいなかったのでその養女となり、京極高次の長男(側室の子)である2代目・小浜藩主・京極忠高(11万3,000石)に嫁ぎます。

 そして、長男の家光は、江戸幕府・第3代征夷大将軍になります。次男の徳川忠長は、駿府藩主(55万石)となりますが寛永9年(1632年)に改易され自害しました。五女の和子は第109代・後水尾天皇の女御(にょうご=天皇の寝所に侍すること)として入内(じゅだい)し、後に中宮(皇后)となりました。第109代・明正天皇の母、東福門院のことです。

 あいつぐ戦乱の中、政略結婚や跡継ぎ争いに巻き込まれた前半生とは違い、我が子に将軍を譲って以降も大御台所として安定した後半生を過ごした江姫でしたが、寛永3(1623)年に54歳で江戸城西の丸で亡くなりました。その6年後の寛永9(1632)年の7月、秀忠も同じ54歳で亡くなりました。

東京・増上寺にある愛媛と秀忠の墓。
今年(2011年)は、特別にお参りすることができます。 

家光の旗本・井上政重

 その年の10月に2,000石の旗本・井上政重(まさしげ=48歳)は4,000石に加増され、12月に惣目付(大目付)に任ぜられました。政重より8歳上の兄、井上正就(まさなり)は13歳のとき、まだ11歳の秀忠に勤仕し、采地150石を賜わり、やがては、従五位下主計頭(かずえのかみ)に叙任、1万石となり小姓番頭を勤め、8年後には近江国と遠江国に5万2,500石を領する大名となりましたから、政重の出世は決して早いものではありませんでした。

 しかし、九州熊本で起きた島原の乱の平定などで活躍が認められ、寛永17(1640)年6月、井上政重が56歳のとき、6,000石の新恩あり、すべてで1万石を領し、初めて大名に列し、従五位下筑後守を叙任されています。

 幕府大目付の筑後守政重は、この年もあくる年も、仰せを受けてしばしば西国を往還し、また長崎に赴き、異国の商船及び耶蘇禁制等の事を裁許しています。

 そして数年後に3,000石を加増され、1万3,000石となりました。3代将軍の家光は貿易統制やキリシタン弾圧を強化して寛永18年(1641年)までに鎖国体制を完成させたといわれていますが、井上筑後守はもっとも忠実な僕(しもべ)として働いていたのかも知れません。

政重と平塚村

 慶安3(1650)年、井上筑後守政重が66歳の時、家光の鷹狩りに従ったところ、「老体にして厳寒をしのぎ、しばし供奉する」ことを賞せられ、将軍自ら、着ていた羽織を政重の肩にかけ労らわれたといいます。しかし、将軍・家光はこの年に病気となり、諸儀礼を4代将軍となる家綱に代行させ、翌年4月20日に江戸城内で亡くなりました。享年48でした。

 井上筑後守政重の領地は上総国・下総国に広く分散していましたが、江戸屋敷に一番近い平塚村(白井市)が気に入ったようです。手賀浦(沼)の畔にある平塚村には船戸がありました。当時は下総国香取郡・匝瑳郡、上総国等の領地は霞ヶ浦と繋がっていましたから、あまり他人の領地を通らずに船で往来することが出来たからでしょうか。それに陣屋もまだ決まっていなかったのです。

 家光が死んで7年後の万治元(1658)年12月に大目付の役職を辞任し、2年後の万治3年3月、政重は息子が亡くなっていたため領地を孫たち3人に譲ります。

 長兄の井上政清(33歳)に11,500石を継承し、弟・政則(源蔵、31歳)に1,000石、弟・政明(伊織、15歳)に500石を分地します。そして、寛文元(1661)年、2月27日、井上筑後守政重、は亡くなります。77歳でした。

 次回も井上筑後守と平塚村について続けます。

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[六]木下街道を歩いた参勤交代の行列

平塚延命寺と井上筑後守政重

 現在の白井市平塚は、鎌倉時代の文永年間には北条実時の称名寺領であったといわれる古村です。

 ここには延命寺という真言宗の寺院があります。この寺はそのむかし寛弘二(一〇〇五)年に賢澄上人により開基されたと言われています。

 この延命寺は、井上筑後守政重が平塚村の領主となった寛永十七〜二十年頃(一六四〇〜一六四三)には、焼失して廃寺となっていました。

 村人の信仰の中心である延命寺の本堂は、領主の井上筑後守によって万治三(一六六〇)年に再建され、真言宗の血脈を有する裕誉上人を住職に迎えたのです。また、初代・筑後守政重が亡くなった八年後の寛文八(一六六八)年に、井上家2代目の政清が観音堂を建立しているのです。

 「自分の家の日蓮宗ではなく村人が昔から信仰して来た真言宗の寺を再建するなんていうのは、異国の宗教に振り回されて混乱した時代を見てきた筑後守でなければ出来ないことですよ」。そう語るのは、この春、住職を息子さんに引き継ぎ引退したばかりの稲葉前住職です。

 井上筑後守が香取郡高岡村(旧下総町、現・成田市)に陣屋を構えるようになったのは、延宝三(一六七五)年、3代目・井上政蔽(まさあきら)が十五歳で遺跡を継いだその翌年の事でした。以来、井上家は高岡藩と呼ばれます。

井上筑後守の位牌   延命寺の観音堂

高岡藩井上家の仮陣屋となった延命寺

 初代の政重が愛した平塚村は、高岡に陣屋がおかれるようになって以後も平塚村は、大切に扱われてきたようで、延命寺は仮陣屋のような役目をしていたようです。

 平塚村の古文書の中には、文化十二年十二月十六日に、8代目・井上筑後守正滝が十六歳のとき、城主就任後、初めて高岡に帰郷した記録があります。

 江戸下谷の上屋敷を出発した一行百四十七人は、千住・新宿・八幡・鎌ヶ谷・白井を経由して平塚に泊まります。そのため平塚村は馬二十疋、人足七十二人、雇人足四十九人を用意して白井宿まで出迎えます。

 宿泊する延命寺の本陣には殿様以下二十名が泊り、脇本陣の名主の(山崎)善四郎の屋敷には家老たちが泊り、そして村の十六軒に一行は分宿したのです。

 料理の賄はひらめ、うど、みつば、椎茸などの、牛蒡の身いりの汁、くわい、さかな入りの壺、飯は上白米等でもてなしました。また、宿泊時の手土産として鯉一懸け、篭入り玉子一束を用意したので、これら賄いの諸費用は、酒、八百屋物、さかな代、米、玉子代、鯉こく、炭代、真木代、油、諸使い、白井宿への樽代、一行百四十七人の木銭、茶代など諸経費は合計十二両三分二朱と百二十一文かかりました。

 それに対し、殿様からの御手当金は五両戴いただけだったため、村の持ち出しは収入を大きく上回わり村役人達が負担しています。翌日は高岡に向かうため、平塚から浦辺(部)、亀成、発作、布佐を経由して木下河岸まで荷物を運び見送りもしています。

文化・天保年間の平塚村

 井上筑後守正滝は高岡の陣屋に滞在して四カ月後、再び高岡を出発しています。そしてその日は船橋に宿泊し、翌日に江戸に着いたのです。復路は往路とちがったコースだったようです。

 復路では平塚村の宿泊は有りませんでしたが、平塚村の村役人たちは白井宿までお見送りをしており、この時も玉子70個入りの篭を献上しています。

 文化十一(一八一四)年、平塚村の「村明細帳」をみると村高六百二十八石うち高岡藩支配は高三百三十七石、旗本・井上氏支配が高七十石、残りは幕府代官支配、新田(三か所)二百十九石となっています。

 天保九(一八三八)年の平塚村の家数と人口は八十一軒五百六人(男二百五十二人、女二百五十四人)、うち高岡藩領は六十三軒、三百九十四人でした。旗本・井上領は十八軒百十二人でした。この旗本・井上氏は分家で2代目政清の弟・伊織の家系です。

 印西市結縁寺には、井上筑後守が来訪したおり、源三位頼政の墓がある事に疑いを持ち足蹴にしたところ山林が鳴動したため悔いて五輪塔を建てたという言い伝え(『印旛郡誌』)が残っていますが、これは大名・井上筑後守ではなく、この結縁寺村(高二百二十四石)の当時は地頭でもあった旗本・井上伊織のことです。

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[七] 今も岩戸に残る米津出羽守の位牌

岩戸・造谷地区を知行した米津出羽守

 徳川家康が征夷大将軍になったのは慶長八(一六〇三)年のことでした。しかし僅か二年で将軍職を息子秀忠に譲ります。秀忠二十八歳、江姫三十四歳の時でした。

 そんな頃、三河以来の直参であった米津田政(よねきつ・たまさ)は徳川家の旗本として使番を勤めていましたが、慶長九(一六〇四)年に江戸町奉行となり、武蔵国都筑郡(現・横浜市)、下総国印旛郡・相馬郡・香取郡、上総国・埴生郡などに采地五千石を賜り知行しました。印西市の岩戸・造谷地区は、その領地の一つです。

 4代将軍・家綱の時代、米津田政の長男の田盛(たもり)は、承応二(一六五三)年東叡山宝樹院御方(家光の妾増山)の御宝塔造営の奉行を務めたのが認められ、小姓組番頭から従五位下出羽守の叙任を受け、その後も御書院番の番頭、そして大番頭となり、寛文六(一六六六)年五十一歳の時、大阪定番(城代補佐)となり、やがて一万五千石の大名になりました。

 この米津出羽守田盛の位牌が印西市岩戸地区広台の不動堂(西福寺管理)にあります。

 岩戸地区には、「昔、米津出羽守が堂下の旧街道を通ったとき、小高い所にピカリと光りを感じた」というのです。そこは戦国時代の昔、真言宗の「駒目山円福寺」という寺院のお堂があった場所でした。

 その廃寺の不動堂を米津出羽守が再建したという伝説があるのです。堂宇は二間四方の小さなものですが、境内は六百五十五坪ほどです。再建したのは田盛が二十八歳の時でした。この田盛が亡くなったのは『寛政重修諸家譜』によれば貞享元(一六八四)年正月、大坂定番を勤めていたときのことで六十九歳でした。

米津出羽守位牌 

村人に慕われていた殿様

 不動堂の位牌に書かれた米津出羽守の卒年は「天和二壬戌正月二十五日」とありますが、米津一族の葬地がある東久留米市の米津寺にある位牌には「天和四年正月二十五日歿せり」とあります。天和四年二月に貞享元年と改元されていますから米津寺の位牌が正しく岩戸の記載はどうやら誤りのようです。

 それにしても慕っていた御殿様が赴任先で亡くなったことを知った村人たちが、悲しんで位牌をつくり祀ったものだったのだろうことが忍ばれます。

 明治・大正期に作成された『印旛郡誌』には「米津出羽守の屋敷跡」は、「岩戸区市場、豊田又兵衛の屋敷続きこれなり」と書かれています。「豊田又兵衛の屋敷続き」とは、西福寺入口の豊田貞夫さん宅のことです。「屋敷続き」とは西福寺境内の南側にある畑地のことで西福寺とともに鎌倉時代後期に「岩戸城」があった地点です。豊田さん宅にも米津出羽守田盛の位牌が残っているといいます。

 『印旛村史・通史編T』「岩戸城址」の段には、西福寺境内の南側に「陣屋」とする畑地について記述がありますが、同書は<岩戸城址とは年代が異なる>としているだけで、「陣屋跡とは何を指すのか」については触れていません。

 江戸時代の初期、領地の中で一番江戸に近かった印旛郡岩戸村に米津出羽守は陣屋をつくっていたのかもしれません。

 西福寺不動堂。近年の台風で倒壊した後、再建された。

97年間に及んだ米津家の岩戸・造谷地区の支配

 貞享元(一六八四)年、第3代・米津政武(まさたけ)のとき、領地替えにより武蔵国・久喜に陣屋が造られ、それ以来米津家の久喜藩が成立しました。藩庁(現・埼玉県久喜市久喜本)は久喜陣屋とよばれています。元禄十四(一七〇一)年、第4代・政矩(まさのり)のときの「地方直し」があり、領地替えとなったため、印旛郡の岩戸・造谷地区は、稲葉家佐倉藩の領地に変わります。米津家の岩戸・造谷地区の支配は4代・97年間に及んだことになります。

 延享三(一七四六)年の「岩戸村明細帳」には「寛永二十年の御検地御水帳は、先の地頭米津出羽守様の時につくられましたが、その後類焼にあい失われてしまいました」と書かれています。

 寛政十(一七九八)年、7代目・米津通政(みちまさ)が武蔵国久喜より出羽国村山郡(現在の山形県東根市大字長瀞)に陣屋を移し、それ以来米津家は長瀞藩(ながとろはん)といわれ幕末まで続きます。

 岩戸・造谷地区は稲葉家から堀田家と変わりましたが、百六十数年間佐倉藩が続いたため、地元の殆どの人は佐倉藩以前の歴史は忘れられてしまいました。

 前印旛村々長・佐藤栄一さんのお父さんは、『印旛郡誌』の編纂にも参加していましたが「そういえば親父は寄り合いがあると“ヨネツではなくヨネキツと読むんだ”と昔話を村人たちに伝えていた」と、懐かしそうに話してくれました。

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[八] 敵方武将を取り立てた徳川秀忠

瀬戸・師戸・吉田地区を地頭支配した川口氏

 旗本・川口久助宗勝が、2,500石の采地を印旛郡と葛飾郡に拝領したのは、徳川秀忠が2代将軍に就任した翌年の慶長11(1606)年12月の事でした。

 印旛郡の知行地は現在の印西市の瀬戸・師戸・吉田地区(村)の3村で千百五十二石余です。その後、旗本・川口氏の知行地は印西市の松虫・吉高・萩原地区(村)にも広がっていますが、それらの各村は何時の時点で加増され知行地となったのかなどは分かっていません。

 前回の岩戸・造谷地区の米津出羽守と同様に川口氏の地頭支配は二代・孫作宗信、三代・久助宗次、四代・源左衛門宗恒と90年以上に及びました。

 この初代の川口久助宗勝とはどういう人なのでしょうか。『寛政重修諸家譜』によれば、永禄7(1564)年、17歳の時に織田信長の弓大将として仕え、やがて天正12(1584)年、37歳の時に信長の二男・織田信雄(のぶかつ)に従いますが、天正18(1590)年に織田信雄が出羽国秋田に配流されたため、その後は豊臣秀吉に属しました。川口久助宗勝が43歳の時です。

佐倉市青菅小学校校庭にある川口家四代の墓所

 やがて久助宗勝は慶長三(1598)年、尾張国と伊勢国に一万八百十石を拝領しますが、2年後の関ヶ原合戦では石田三成側に組したため、敗組となりました。高野山に蟄居していましたが、伊達政宗に召預けられました。

 しかし、慶長十(1605)年、二代将軍に就任したばかりの徳川秀忠に召しだされ御家人に加えられ蔵米二千俵が与えられ仕えます。慶長十一(1606)年、さらに五百俵を加増され、そして蔵米取りから采地取りとなり印旛郡、葛飾郡に二千五百石を知行することになったのです。川口久助宗勝59歳の時でした。

 印旛郡以外の知行地は、葛飾郡です。現在の佐倉市の飯重・畔田・青菅地区と八千代市の下高野地区です。現在の佐倉市全域は、江戸時代は印旛郡に属していましたが、元和年間(1615〜1623)頃までの鹿島川以西の臼井地域は葛飾郡だったのです。

 ですから川口久助宗勝の知行地は、2郡に跨っているとはいえ印旛沼の北と南にまとまっていたのです。

 佐倉市ユーカリが丘団地の北側にある地区が青菅地区。その地区の青菅小学校の校庭には大木の生い茂った二つの塚があります。大塚・小塚とか、男塚・女塚と言われていますが、これは川口家四代の墓所とも言われています。

 この旧青菅村には川口家の陣屋が設けられました。現在は見る影もなく寂れた無住寺となっていますが、真言宗・正福寺は川口家四代の葬地となっています。

 青菅小学校校庭には川口家四代の墓(塚)がある。  川口家四代の葬地といわれる旧青菅村の正福寺。
今は無住寺となっている。

青菅七姓

 しかし、元禄十一(1698)年、久助宗勝以来の葬地とし、九十数年間にわたり知行して来た土地を離れ安房国へ移住する事になったのです。知行地は替わることが出来ても、先代たちの墓所は移せません。幾人かがその墓守りとして土地に残ることになったのでしょうか。

 陣屋跡付近には「陣屋口五姓」といわれる小嶋・山崎・長谷川・高柳(揚)家と、「郷口二姓」といわれる奥津・岩井家があり、総じて青菅七姓とよばれています。土着した川口家の家臣の子孫たちといわれています。

 しかし、青菅村は百五十一石程度の小さな村でした。川口家の知行地の中で瀬戸村や師戸村など大きな村が他にもあったにも拘らず陣屋を設置する場所に、なぜ青菅村を選んだのでしょうか。

 瀬戸村と吉田村は単独知行地でしたが師戸村は旗本・永井監物との相給地です。そのうえ当時の印西地区の村々は、印旛沼を船で渡らなければなりませんでした。青菅村を陣屋地に選んだ確かな理由は分かりませんが、一つの村を単独で知行できる村が少なかったこと、江戸への距離が近かったことかもしれません。

 そのためか印西地域の川口家知行地は、6村にも及ぶにもかかわらず今では古文書以外に川口氏の知行した旧跡を探すことは難しいようです。

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[九]萩原・中根・笠神の領主 杉浦越後守正友

「中根村旧誌」に記録された杉浦家の知行地

 家康の父・松平広忠卿と徳川家康に仕え、姉川合戦、三方原役、長篠の戦で活躍し、首級を獲て軍功をあげた一人に旗本・杉浦親次という人がいました。

 その杉浦家の三男、正友は十八歳の時、初めて家康に拝謁し、二十二歳のとき、伏見城に召されて、それ以来、家康・秀忠に仕えました。正友は秀忠より二歳上の青年でした。その二年後の六月の会津征伐にも、九月の関ヶ原の戦いの時にも、さらに慶長十九(1614)年の大阪冬の陣にも、翌年の大坂夏の陣にも従軍して弓同心五〇人を預けられ活躍しています。杉浦正友の青春期から青年期は戦いの連続だったのです。

 「寛政重修諸家譜」によれば杉浦正友は知行地を相模国東郡・鎌倉郡・武蔵国橘樹郡・男衾郡、下総国印旛郡の五郡内に三千四百石を賜ったとありますが、何時の頃か書かれていません。しかし、現・印西市内の中根地区(旧本埜村)には「中根村旧誌」という古文書がありますが、そこには下総国印西領のうちにおいて「去戌の歳千石」(去るイヌの年に千石)を杉浦正友に知行地を与えることになったとして、その地が笠神村(旧本埜村)三百七石、中根村(旧本埜村)五百三石、萩原村(旧印旛村)百十九石であったと書かれています。イヌの年とは元和八(一六二二)年のことと思われます。

 杉浦正友は五十歳の時、従五位下越後守を叙任し、御留守居役を仰せつかり、六十三歳の時、伊丹順斎・牧野内匠頭信成・曽根源左衛門吉次とともに幕府の綱紀粛正の役(諸賄穿鑿=しょわいせんさく)に勤め、六十六歳のとき、さらに知行地が加増され六千石となり、勘定奉行頭を勤めました。

最上お家騒動と杉浦氏

 ところで、元和八(1622)年、山形藩五十七万石の大大名・最上義俊が御家騒動により改易され、一挙に近江大森藩一万石の小大名になりましたが、九年後の寛永八(一六三一)年二十六歳で亡くなりました。この最上義俊の有力な家臣、柴橋図書正忠は、そのとき浪人となり江戸に出て、どういう縁からか、旗本・杉浦正友の客分になったのです。そして息子三人のうち長男・正氏と三男・惟正は杉浦氏の家臣となり、二男・忠次は杉浦氏の家臣の林家の養子となりました。

 柴橋家三男の新兵衛惟正は杉浦氏の知行地であった印旛郡萩原村の陣屋の郡代となり、現地に赴任し、三十年近く郡代として勤めてきました。

 ところが、寛文三(一六六三)年、新利根川の開鑿や布鎌・埜原新田などの開発に伴って、印旛郡の知行地は、幕府の直轄支配地となり、旗本・杉浦氏は知行地を他の土地に移されることになったのです。

印西市中根の柴橋家。表札には『本埜村中根 柴橋金右衛門」とある。 

土着した最上家浪人柴橋氏

 旗本・杉浦氏にとっても親子二代四十一年続いた采地です。郡代として働いてきた柴橋新兵衛惟正にとっても、大きな問題でした。慣れ親しんだ村人たちと別れて、旗本・杉浦様の新しい知行地の代官として、新天地に赴任するのか、それとも現地に残るのか。

 柴橋新兵衛惟正とその養男・金右衛門正世は、その後印旛郡の幕府代官に赴任した守屋助次郎の支配所の手代として歩みだしています。旗本・杉浦家から幕府代官の手代に転身した理由は分かりません。

 新兵衛惟正の養男・金右衛門正世は、「守谷殿の御依頼によって行徳辺りより鹿島辺り迄の御林奉行になった」と柴橋家の古文書は伝えています。

 新兵衛・金右衛門親子は手代の職務の傍ら、耕地を購入して農業を営んでいます。十六年後、幕府代官が変わると、柴橋新兵衛・金右衛門親子は農民として土着し、中根村で暮らすようになりました。『本埜村史』にある「柴橋家由緒書」には山形藩五十七万石の最上家に仕えた柴橋図書正忠の武勇伝が伝えられています。

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[十]印西に安住の地を見つけた二人

33年ぶりのご開帳

 印西市と茨城県利根町は利根川を挟んで筋向いの位置に在ります。その利根町は、昔は布川と呼ばれていました。布川は手賀浦(沼)や印旛浦(沼)が霞ヶ浦と繋がっていた時代、水上交通の要衝でした。

 布川城主・豊嶋氏は佐倉城(本佐倉=酒々井町)を本拠とした千葉氏や小弓城・臼井城を本拠とした原氏などと共に小田原の北条方に属していました。

 しかし、豊嶋三河守貞継は北条氏が小田原城での戦いで豊臣方に敗北したあと印西地域の谷津を分け入り、神崎川の流れる深い森の奥に落ちのびました。同行した家臣は杉森氏と刀鍛冶師の山梨氏の二人だけだったといわれています。

 去る十一月二十日(日)、印西市の多々羅田地区の青年館の中にある厨子に納められている聖徳太子像が33年ぶりに一般に御開帳されるとあって、地域の老若男女六,七十名が集まってお祝いの儀式が盛大に行われました。この聖徳太子像は、江戸時代の初期、豊嶋三河守貞継らが布川の徳満寺から運んで来たという伝承が残っているものです。

33年ぶりにご開帳された多々羅田の聖徳太子像 

豊嶋氏の隠れ里 多々羅田

 印西の多々羅田が豊嶋氏の隠れ里であると書いたのは、明治期の初め佐原の歴史家で『下総旧事考』を著したことで有名な清宮秀堅です。彼は『下総志稿』の中で「豊島の後、今印旛郡多々羅田村に豊島三郎右衛門と称しあり。代々名主ナリ」と記しています。

 二十年前、私は多々羅田の豊嶋氏について取材した時、青年館の脇に遺された墓石の一つに、「紀伊守頼継十三代の孫同名三郎右衛門四男新左衛門」と書いてあるのを見つけました。先月、改めてその墓石を見ると苔むして判読できませんでしたが、その墓石には二百年前の文化四(一八〇七)年に父を亡くし、文化七(一八一〇)年に母を亡くした豊嶋本家の四男・新左衛門が建立したものでした。

 ここに登場する「紀伊守頼継」は、永禄六(一五六三)年に亡くなっていますが、その三年前の永禄三(一五六〇)年二月には頼継寺(現・利根町の来見寺)を建立した人です。布川城主・豊嶋三河守貞継の先代にあたります。

 赤松宗旦が江戸時代の末期に著した『利根川図志』には、頼継は寺へ寺領として「印西の内作屋郷(印西市造谷)十五貫五百文.」、「同所大森(印西市大森)の内二貫八百文」を寄進したという古文書が或る家にあったと書いています。

 布川城主・豊嶋紀伊守頼継は布川や文間(利根町)だけでなく印西の造谷や大森にも領地を持っていたのです。印西市小林の鳥見神社の棟札には、「永禄十一(一五六八)年、大檀那豊嶋新六郎(貞継の幼名)」と書かれています。

 印西の多々羅田村は、万治三(一六六〇)年、旗本・井上織部の領地となっています。元禄時代は高十四石余の小さな村でした。その後、佐倉藩の領地になりますが、幕末期の『天保郷帳』、『旧高旧領帳』では八十三石余(幕府領と佐倉藩領の相給地)に増えています。明治二十四(一八九一)年の戸数は十三軒、人口は九十二人でした。谷津深く分け入った落人の里・多々羅田の目の前は、今は千葉ニュータウン内野地区が広がっています。

戦乱の世から泰平へ

 栄町の龍角寺に続いて古いと言われる別所廃寺跡がある印西市の別所地区は、江戸時代の別所村です。十数年前、この地区の宝泉院にある地蔵仏像の胎内から一通の書付が出てきました。それは寛文五(1665)年に書かれたもので秀誉禅定尼の菩提を弔うために住職の豪安以下、約百名余の檀中の名前が書かれた文書です。筆頭は名主の伊藤家。それに続いて客分として月岡刑部の名前が記されていました。

 月岡刑部とは常陸国新治郡月岡村にあった板橋城主の末裔です。同家には正保二(1645)年の「武術文書」や万治二(1659)年の「氏信知行宛状」等の古文書今も残されています。戦国時代が終わって徳川の時代になってから六十年も経っていた寛文五年に板橋城主・月岡氏の末裔は別所村の伊藤家の客分になったのです。

 2代将軍・秀忠の正室・江姫が亡くなったのは寛永三(1626)年のことです。戦乱に明け暮れた戦国時代、それに続く安土桃山時代、そして江戸時代の慶長・元和も戦乱が続きました。疑心暗鬼から解放され、人々の暮らしが豊かになり、世の中が泰平ムードになったのは江戸時代の中頃、五代将軍・綱吉の時代、元禄期(1688〜1704)を迎えた頃だったのでしょう。

 多々羅田村の豊島家は代々伯楽(獣医)を家業としていたと言われ、別所村の古文書には月岡家は村医者を勤めていたと書かれています。この時代に至って漸く多々羅田村の豊嶋氏も、別所村の月岡氏も印西に安住の地を見つけたのはないでしょうか。