エッセイ明日元気にな〜れ
吉川映子

(1)気分がめいった時は身体を動かす

 子どものころテレビを見ている母が画面に向かって、うなずいたり、相槌を打ったりしているのを見て「アホやなぁ」と笑っていた。アナウンサーが「お早うございます」というと「はい!お早うさん」と返事するのである。ニュースを読み終わると、「ハイ、わかりました」とスイッチを切って家事にとりかかっていた。

 そんな様子をいつも笑いながら見ていたが、最近自分がそうなってきていることに気づいて、愕然としている。番組を見ていて知らないことがあると「へぇ?」「はあ」「ほう」と思わず声を出しているのである。

 小学生が連れ去られる事件があいついだが、「ひどいねえ」「警察が早く犯人をつまかえないから、またこんなこと真似する人が出てくるのよ」「事件は小さいうちに一つひとつ解決しなくっちゃ」と怒っている。

 中継のレポーターが言ったことをスタジオでアナウンサーが繰り返したりすると、「それはもうさっき聞いた!」と、しっかりおばちゃん、いやおばあちゃんしているではないか。

 極めつけは先日、イラクへ行く自衛隊員を見送る人たちの中に小さな坊やをだっこして、涙をこらえながら、二人で思いっきり手を振っている姿を見て「気の毒だなあ、あんな小さな坊やがいては、さぞパパが必要でしょう。ママも不安、何かあっても困るでしょう・・・・。うちなんかもうそれほど・・・・代われるものなら代わってあげたい」と思わずつぶやいていて、そしてそれをすっかり聞かれてしまった。あ、あ・・・・。

 先日シャンソン歌手の海原純子さんのお話を聞く機会があった。

 あなたは気分が落ち込んだ時、どうしますか。お酒、ショッピング、おしゃべり、おいしいものを食べる、などなど。でも、もっと落ち込んだ時「おっくうだから何もしないで家でごろごろ」という方が多いのでは。

 もちろんそれで回復すればいいのだが、ゴロゴロしているとよけいに落ち込むことだってある。

 そんな時どうするか、というお話だった。

 アメリカの精神科医バーンズ博士は「気分がめいった時は身体を動かす」ことを勧めている。

 私もそれに大賛成だ。たしかに身体が疲れている時は身体を休ませる必要があるが、心が疲れている時、身体を休ませすぎると気分が落ち込むものだ。身体を動かすことによってエネルギーが生まれ、気分が上向きになることがある。

 無理をするのはよくないが、ちょっと歩いたり、ストレッチしたりしてみたい。若いころは、買い物も通勤も電車で、よく歩いたものなのに、中年になると歩かなくなる。中年になって気分が落ち込む人が増えるのは、身体を動かす機会が減ってくることともかかわりがあるのではないだろうか。

 さあ春です! 来週から少し身体を動かしたり、歩いたりしてみませんか。
(2004年3月13日)

(2)笑ってる あなたも悲劇の 主人公?

 テロの標的に日本も名指しされるなど、世の中がだんだん物騒になってきた。先月から首相官邸も厳重な警備を始めており、出入口を一つにしたのも警備上の都合なのだろうか。

 わが家の会話――。

 「東京の、それも人の多く集まるところへは、なるべく行くのを控えた方が良さそうだなあ」

 「そうねえ。千葉のこのあたりだとまあ安心かもね」

 「やっぱり爆弾落とす方にしてみたら、人口がまばらな土地だともったいないもんね」

 さて、第一生命が一般から川柳を募集して毎年ベスト一〇を発表しているが、今年は二万四千通余りの応募があり、先日その中から「全国優秀作品一〇〇編」が決まった。ここから投票でベスト一〇が選ばれるわけだが、それに先立ち私が選んだサラリーマン川柳ベスト一〇を発表させていただく。

◆ビール腹? いーやパパのは 発泡腹(あわっぱら)
 昨年は「本物のビール買ったら妻激怒」というのがベスト一〇入りしていた。まさにわが家の光景である。

◆やめるのか 息子よその職 俺にくれ
 切実な願い、ハローワークに行ってもまず年齢で落とされる。

◆停年で 留守番できたと 妻出かけ
 近頃空き巣が頻繁に出没。「あなた、しっかり頼むわよ」

◆『課長いる?』 返った答えは 『いりません!』
 中間管理職の悲哀、嗚呼・・・・。

◆上司辞め あわてて破る 我が辞表
 あいつが嫌いで、会社へ行くのがイヤだった。そいつが辞めるのなら辞表書く必要なし。

◆憎らしい つまんだお腹 肉らしい
 バラ肉、霜降り、ロース・・・・、何でも欲しけりゃ差し上げます。

◆振り向くな うしろ姿の 君が好き
 昔シャンプーのコマーシャルで「ふり向かないで、○○の人」というのがあった。今わが夫「後ろから襲われたら、すぐ顔を見せること、顔だ」

◆意識して とぼけていたのに 「と」がとれて!
 かつては「とぼけたアジ」がまわりから愛されていたが、一文字なくなると、こんなにも違う・・・・。ハケに毛があり、ハゲに毛がなし・・・・あれッ、ちょっと違ったかな?

◆禁煙は 体のためより 金のため
 給料三割カット、当然小遣いもカットされ、金の切れ目が煙の切れ目、おかげで健康になりました。

◆『バカの壁』 読んで夜更かし バカも風邪
 私、誰かに見られている!! 主婦の壁をはらなくちゃ。

 「サラリーマン川柳」も回を重ねること十七回――。そこで、これまでの十七回の中で、私の大好きなベスト3を紹介して終わろう。

◆プロポーズ あの日に帰って ことわりたい

◆タバコより 身体に悪い 妻のグチ

◆「ごはんよ」と 呼ばれて行けば タマだった
(2004年4月10日)

(3)「荷降ろし症候群」と居場所さがし

 風薫る五月に似合う花の一つに「花みずき」がある。アメリカに桜の花を贈ったそのお返しにいただいた花だそうだ。

 ピンクや白の四枚の花びらが風にのってゆらゆらと舞っている。大きな木になった花みずきのゆれている様子は、遠目には岸辺に押し寄せる波のよう。日ごとに濃さを増していく緑を背景に白い波頭は幾重にも続くようにみえる。ゆうらゆうらとゆれている花みずき・・・・。

 ふと耳もとで、

 「ゆれる私は・・・・そう・・・・」

 「君のそばの春風です」

 友人に呼ばれて出かける途中にこの花みずきに逢って行く。私の気持ちはゆったりしていなくっちゃ!というわけで・・・・。

 彼女は五十歳すぎ、娘と息子が仕上がってもう世話をやく必要はない。「荷降ろし症候群」というのだそうだ。まじめで、几帳面の人に多いようだ。

 いろいろ話を聞いて、私が冗談で「ディスコに行くとか、競馬とかパチンコをやってみるとか」というと、滅相もない、といわぬばかりに身を固くする。私も、とても彼女にはできそうもないとむなしい思いが湧いてきた。

 子育てやマイホーム作りに追われている時には、人は眼前に戦う目標があり、ともかくも自分の居場所で獅子奮迅の働きをしてみせる。そしてそれが自分を支える生きがいにもなる。

 しかし戦い済んで日が暮れて、その後はどうすればいいのか。この長寿時代に確たるマニュアルはない。

 すっきりしないまま彼女の家を出て帰途に。

 ふと通りの向かい側を見ると、ゴンドラに乗ってビルの窓を掃除している若者がいる。ゆらりゆらりとゆれながら、実に手早くサッサッときれいに磨き上げていく。見られているとも知らず、若者は窓を拭き終わると、地上に降りてきて仲間とにこやかにおしゃべりをしながら、帽子をとると、長い黒髪がパラリと流れ出た。

 「あっ、女の人だったんだ!」と驚いた。このごろは女性もいろんな所に進出している。男性の仕事だと思いこんでいた分野にまで、頑張りだした。

 私はこの人から元気をもらったような気分で爽やかに帰宅した。

 家へ帰ると、白井の友人からチマキが届いていた。そういえばチマキには哀しい由来がある。楚の詩人・屈原が戦火の中めざましい働きをしながら、国が安定に向かうにつれ王に疎まれ、最後は洞庭湖の近くに身を投げて死んだ。

 人々が彼を憐れんで水面から食べ物を沈め、供養すると、彼の亡霊が現れて「水の底には大きな竜がいる。そのまま沈めるとみんなその竜に食われてしまうから、笹の葉にくるんで投げ入れてほしい」と頼んだという。

 いつの時代もそうなのだろうか。人は平和の中で、かえって自分の場所を見失いがちなものらしい。

 ボーイフレンドがこのコラムを読んで曰く、「以前(千葉ニュータウン新聞)は『女の手帳』だったのが、ついに女を捨てたんだな」と。憎らしい。

 女を捨てても、人間は捨てられないのだ。

 みんな元気にな〜れ。
(2004年5月8日)

(4)初夏の夕ぐれ 父の想い出
 日本列島が一年で一番美しい季節を迎えています。家々の垣根には、バラの花がこぼれ、林の緑をふちどりに麦畑が黄色く熟しはじめています。

 今が美しい季節といわれる理由は、夕暮れの空の見事さのためかもしれません。夏至近く、夕日は西の空をあかね色に染めて、たゆたっていて日はなかなか沈もうとせず、沈んでも薄ら明かりがしばらく続いて、ゆっくり夕刊が読めます。

 「夕ぐれの時はよい時、かぎりなくやさしいひと時」と、くり返しうたったのは、夕ぐれ詩人≠ニいわれていた堀口大学。

 山村暮鳥にも「雲」という題で
   丘の上で
     としよりと
       こどもと
    うっとりと雲を
      ながめてゐる
とうたった五行詩がありましたが、これも今の六月、しかも夕ぐれのように思われてなりません。

 さて六月二十日は父の日ですね。五月の母の日に比べて、華やかさと迫力に欠けるように思いますが、今は亡き私の父の笑えるお話をご紹介いたします。子供の頃の話です。

 ある日の夕方のことでした。私のすぐ下の弟が、近所のガキ大将に泣かされて帰ってきました。父は「男だろう、泣かされて帰ってくるな、もういっぺん行って、この棒でそいつの頭をなぐってこい。なぐって来るまで家には入れん!!」と怒っています。

 弟は泣く泣くその棒を持って出かけて行きました。私は二階の窓から、うなだれて肩を落として歩いていく弟の後ろ姿を見て、「男はつらいよなぁ」等とは云えませんでしたが、心からの声援を送ったのでした。

 私も意気地というか根性というものがなくて、ケンカした時は「もう腹が立つ」と怒っていても、しばらくしてそのケンカ相手の子が遊びに来ると、もう忘れて飛んで行くので、母がいつもくやしがっていたのですが、弟は私に輪をかけてダメでした。

 弟が出ていって三十分ほど経ったでしょうか。「ごめんください」と澄んだ女性の声、父が玄関に出たようです。

 「あのぅすみません、お宅の坊ちゃんが、どうしてもうちの子の頭を棒でたたくと言って泣いておられます。その前にうちの子がお宅の坊ちゃんの頭をたたいたそうなんですが、何とか許してやってもらえないでしょうか。どうしてもたたくまでは家に入れないとおっしゃったとか・・・・」

 近所でも美人の誉れ高いおばさんが、申し訳なさそうに父に謝っています。

 「いいえ奥さま、何も頭をたたけなんて・・・・、男はそれくらいの根性を持てと言ったまでのことでして・・・・、いいえ許すのなんのって・・・・」と、しどろもどろの父。

 そのやりとりを聞いていて、私はおかしくて、おかしくて、笑いをこらえるのが大変でした。

 父の日∞夕ぐれ≠ニいうと、遠い遠いあの日のことが思い出されます。愛すべき、明治生まれの父でした。
(2004年6月12日)

(5)無財の七施でとりあえず≠ノっこり

 私は「無財の七施(しちせ)」という言葉が好きです。いつもニコニコと明るい友人から教わったんですが、お金がなくても七つも良いことができるという教えです。

◎眼施(げんせ)優しいまなざし

◎顔施(がんせ)柔和な顔

◎言施(ごんせ)親切な言葉

◎身施(しんせ)身体を使って

◎心施(しんせ)優しい心

◎座施(ざせ)席を譲る

◎宿施(しゅくせ)家に入れ友になる

 この無財の七施の実行で、人は喜び自分も幸せになれるということなんです。

 この中で、私はとりあえず=u眼施」「顔施」そして「言施」を実行しようと思っています。

 とりあえずといえば、ちょっと話がそれますが、居酒屋でアルバイトをしている知り合いの外人さんが、最初に憶えたのがこの「とりあえず<rール」という言葉だったとか、笑っちゃいました。

 だれかと目が合ったら、とりあえずにっこりしよう、優しい笑顔であいさつしよう、できれば知らない人にもそうしよう。

 海外旅行した時にいつも感心するのですが、どこの国に行っても目が合えばにっこり笑ってくれます。エレベータの中で乗り合わせても、日本の場合は目をそらすか、にらみあうかして知らん顔をしますが、外国ではそうじゃなく、本当ににっこり笑ってくれます。

 若い時は「私が可愛いからかなァ」とちょっとうぬぼれた時もありましたが、もうすっかりおばさん、いやおばあさんになっても(今年もニュージーランドに行って来ましたが)やっぱりにっこり微笑んでくれました。それも、「ベッカムさま」のような素敵な青年がです!

 だから私も、知ってる人も知らない人も、そしてどこの国の人にも、目が合ったらにっこりしようと思います(まちがってもガンつけた!と云われないようにしなければネ)。

 そして「言施」。

 気分が安らぐあたたかい言葉、元気の出る励ましの言葉、思わずプーッと吹き出すユーモアのある言葉、言葉で人を明るくできたらこんな良いことありませんよね。

 ただし、告白しておかないといけませんね。今はこんなこと書けるようになりましたが、若いころ夫婦ゲンカしたときなど、一言で相手が立ち上がれなくなるくらいの言葉はないものか、真剣に探し回ったこともありました。理論闘争では、いつもギャフンと言わされていたもので・・・・。

 でも、歳をとって今ではそんな元気もなくなりました。

 お金もかからず、時間もかからない、口から出る言葉で少しでも心が和めば、と努力したいと思っています。

 でも、心配なんです。いつもひとこと多くて、失敗している私ですから・・・・。
(2004年7月17日)

(6)知らぬが仏 知らぬが感動
 友人に「京都の竜安寺に行くので一緒に行ってもらえない?」と頼まれて少々困っています。

 友人にとっては二度も行きそびれたお寺とのこと。一度は修学旅行で行くことになったが「おねしょ」が心配で行けなかった由。二度目もあったが、この時はお金がなくて行けなかった。おねしょコンプレックスもまだあったが、むしろ貧しくて行けないという理由にほっとした面もある。つらいものが一つだと、いかにもつらいが、つらいものが二つあるとお互いのせいにして、むしろ楽だった、等と話されると、鼻の奥がツンと痛くなり、何とかしてあげなければ・・・・という気になって悩んでしまう。

 ということで、とりあえず私の知っている「竜安寺」について少しでもお仕事の参考になればと、書くことにしました。

 大坂にもお寺の好きな友人がいて帰阪した時は二人で訪れたものです。が、もしも何も知らずに初めて行ったら感動するでしょうね。

 たとえばこのお寺がぜんぜん無名で、たまたまお住職と道で知り合い、「ちょっと寄ってみませんか」などと言われて、気軽にこの石庭の縁側に立ったとしたら、やはり驚くでしょうね。「何?これ!」という感じで、思わず縁側に座り込んでしばらくじーっと眺めてしまうのではないでしょうか。

 でも、今はもうそれを知っています。頭で知っていてそれを演じるということになってしまいます。

 竜安寺に限らず、いまは何ごともそうなんです。「外人になれたらいいな」と思うことがあります。今の世の中で感動を得るには、できるだけ無知でいるに限る?

 竜安寺に行かれた方も多いと思いますが、縁側の手前のところに模型の石庭が置いているのをご存じでしょうか。ミニチュアの石庭で、展示のカードが置いてあって、目の不自由な人のために石庭を指で触って感じてもらう。

 そのための模型なのです。はじめは、えっ、そこまで・・・・と思いましたが、ぼんやり見ているうちに、何だか心を打たれてしまいました。目の見えない人はおそらくそれに触って石庭の様態を知り、それから縁側に出てじーっと座って・・・・。

 もしも感動が数字で測れるとしたら、意外とこの人たちの感動の針が一番大きく振れるのではないかしらと思ったものでした。

 見えることで失ってしまうものもあるのですね。

 さて話は変わりますが、八月十五日は終戦記念日です。日本がどこの国と戦争したのかも知らない人が増えています。「えっ、アメリカと?! ウッソー、小泉さんとブッシュさん仲良しなのに」。

 きちんと揃った靴の音、私イヤなんです、たとえそれが平和のためのものであっても。

 子供心にあの靴音を残して行った、たくさんの若い生命を思い出すから・・・・。
(2004年8月14日)

(7)ため息の功徳 さあ、肩の力を抜いて
 今年の夏の暑さは異常でしたね。皆様お元気でしたか。私はゆで上がりそうになりながら、ひたすら耐えておりました。

 めらめらと燃えるような暑さのため、白髪がドッと増え「ボケ」が急激に進んだような気がします。このまま戻らなかったらどうしようと思うと、とても不安で、思わずため息が出てきます。

 ラジオの「悩み相談」で、ため息を一つつくと一つ幸せが逃げていくと言っていましたが、そうじゃないようです。むしろため息をつくことは良いことだと、大好きな五木寛之さんが言ってます。

 このところずっと自分に言い聞かせているのは「楽に、楽に」ということです。人間起きて半畳、寝て一畳、そんなに無理することはないのです。

   泣くときは泣く
   笑うときは笑う
   怒るときは―、怒らない。

 大声を出したりすると、かえって怒りが増幅されます。怒っているうちにだんだん腹が立ってくるってことありません?

 そういうときは、ため息をつく、それも全身で深々と大きなため息をつくのがいいのですって。

 韓国人の友人にいい言葉を教わりました。悲しみや苦しみ、怒りを抑えきれず、そしてそれを外にぶつけて発散させることができない時は、はーっと思い切りため息をつく。

 わざわざそうしなくても自然に体の底からもれてくる深いため息がある。それを抑えたり隠したりせずに胸一杯の思いを吐き出して猫背になり首をだらりと前に垂らす。そういう人間的なため息のことを恨息(ハンスム)といいます。ハンスム―、なんとなく気持ちがしんとしてくるような言葉の響きです。恨が晴れて、気持ちがカラリと明るくなったときの心持ちは、恨晴(ハンプリ)というのだそうです。晴をプリと発音するのは、日本語の天晴れ(アッパレ)と似ていますね。

 とにかく怒りがこみ上げてきたら、ため息をつく、要するに深呼吸ですね、それを二、三回やると副交感神経が働いてきてなんとなく気持ちが楽になってきます。鴨長明なんかもずいぶんため息をついたようです。「歎異抄」の背後にも、親鸞の深いため息が聞こえるようです。

 「ため息」こそ元気の秘訣。ため息は頭で考えて出るものではありません。からだが思わず、ふうーっと出してしまうものです。ため息をついたときは間違いなくからだの力が抜けています。この脱力感が大事なのです、この感じをつかんで下さい。

 なにかの動作の後に、必ずため息をつくのがいいそうです。たとえばご飯を食べた後に「はあーっ」。お掃除のあとに「ふうーっ」という具合に。

 人目を気にせず、もっと上手にため息をついてからだにこもっている余計な力を抜いて下さい。これまで眠っていたからだの可能性に気づかされ、新しいファイトがきっと湧いてきます。

 では、最後に力を抜いて、ハアーーーーーっ。
(2004年9月11日)

(8)お昼に食べるのは? 「給食!!」

 先日あまりの残暑に耐えかねて、本屋さんに逃げ込みました。涼しくなるまでの三時間余りあれこれの本を拾い読みさせていただくなかで、思わず笑ってしまった本がありました。あまりに手当たり次第拾い読みしたので、書名などわからなくなってしまいましたが。著者の方、ごめんなさい。

 ステーキの焼き加減を聞かれ「一生懸命焼いて下さい!」と答えた水○寺清子、ホワイトハウスはどんなところかと子どもに訊かれて「白いよ」と答えた○ッシュとかもいたが、これらの豪傑(?)もガッツ石松にはかなわないとか・・・。ガッツの本を読んでいると、世間の常識が間違っていて、ガッツの方が正しいのではないかと思えてくるそうです。

 「青いリトマス試験紙を酸性の水につけるとどうなる?」との問いには「濡れる」と答えた石松さん、そうですよね、私もそう思います、間違ってはいませんよね。「エジプトの首都は?」「ピラミッド」には◎をあげたい。

 読んでいて、ふと思い出したんですが、わが家のぐうたら息子が小学生の時テストで「朝食べる食事のことを〈朝〉食といい、夕方食べるのを〈夕〉食といいます。ではお昼に食べる食事は〈 〉食というでしょう?」という問いに、息子は〈給〉食と書いていました!

 もちろん答案用紙には×がついていましたが、私は心情的には納得でき、◎だと思いました。

 話を立ち読みに戻します(本屋さん、ごめんなさい)。

 北斗七星の位置をきかれて「いやあ、この辺の者じゃないからよくわかんねえなあ」。これキワメツキ、こんなふうに考え、世間を眺めて生きていけたら・・・と願ったことでした。

 本屋さんの帰り路、スーパーに寄りました。秋ですね。サンマが一匹九八円でたくさん並んでいました。「今晩はサンマの竜田揚げにしよう」と決めて、そばにあったビニール袋に、大きそうなのを選んで尻尾をもって入れはじめました。

 隣にいたおばさんが「手で取るの、あと匂いがつくわよ、どうしてハサムのを置いてないのかしら」と云うと、おばさんは店の奥に行き、年配の男性店員を連れてきました。

 「すみませんねぇ。置いてたんですけどなくなるのです。今までに一〇本は持って行かれました」「へぇ?!こんなの持って行く人がいるの?信じられないわねぇ」と、おばさんと私。

 私は「ここにちょっと書いとけば、トングは持ち帰らないで下さい、って」と言いましたら、店員さん、大きく頭を振って「そんなことしたら、すごい抗議の電話がきます。私たちお客に対して失礼なこと言わないで!って」。その時の店員さんのうんざりした表情が忘れられません。

 あんなもの持って帰って、何に使うのでしょうか。昔なら炭でも挟むのに使ったかも・・・、今は犬のフン?

 夫がそばで「せちがらい世の中になってきたなぁ。日本列島も惨殺列島になりつつあるしねぇ」とため息をついていました。

 でも、一尾九八円のサンマ、姿良し味良し値段良しでした。
(2004年10月9日)

(9)ン十回目の結婚記念日に

 楽器店の人に聞いた話ですが、机の上に置いてあるフルートが、風で鳴ることがあるんですって。きっと微かに耳に届くような、やさしい音なんでしょうね。

 今日は爽やかな風が吹いています。ベランダから入って部屋の窓をぬけてゆく風、私の頬を撫でて、次はどこへゆくのでしょうか。

 火薬の匂いはしないけれど、もしかして遠く戦争している国から来たのでしょうか。それとも傷ついている人たちを、これから癒しに行くのでしょうか。風さん、爽やかな風さん、お願いだから新潟の方に行ってください。そして不安におののいている人たちにやさしく吹いてあげてください。

 秋風とともに舞い込んできたハガキ、「御結婚記念日おめでとうございます」。北海道紋別直送、帆立貝の結婚記念日特別コース、今すぐ御予約をとあり、笑っちゃいました。そういえば十一月十五日は結婚記念日です。わが家では「結婚○回忌」といっています。式を挙げたのも「仏滅」の日でしたので・・・・。

 今でこそ死語になりましたが、私の娘時代、二十五歳を過ぎると「行き遅れ」といって親も親戚も周りの人もそれはそれは何とか早く誰かと結びつけないと一生嫁のもらい手がなくなると、いろいろ世話をやいてくれました。

 「行き遅れ」と「出戻り」、この二つの言葉は強迫的に迫ってきておちおちしてはおれませんでした。今なら「出戻り」も明るく「バツイチよ!」といってますが、当時はそんな娘でもいようものなら、その親はもちろん、兄弟姉妹までとても肩身のせまい思いをしていました。私も長女の身でそんなことになれば弟たちの縁談にも差し支えると思っていました。今は良い時代になりましたが、その代わり世話をやく人もいなくなりました。

 「降る星のごとく」あった縁談もとぎれて、「ハイごめん、ごめん」とかき分けていた男友達もそれなりに落ち着き、少々あせり気味の時ぶら下がっていた釣り糸に思い切り食いつき、ぎりぎりセーフとあいなりました。「何、結婚指輪?今にグリコのおまけで当ててやる!」という言葉に望みをつなげ、四十二年が経ちました。

 お金には縁がなかったけど、苦労と思ったことはありませんでした。でも一つだけ忘れられない思い出があります。友人に頼み込まれ、そのころ流行していた「プリーツスカート」の寸法直しのアルバイトを始めました。ある時実家の母が訪ねてきましたが、締め切りに追われ、足の踏み場もないところで懸命にミシンを踏んでいる私を見て、ただ黙って片づけ、買い物に出かけ食事を作り、台所、お鍋等、ピッカピカに磨き上げ帰っていきました。母が帰った後、座布団の下からちり紙に包まれた千円札五枚が出てきて、私はその場に号泣しました。

 夫は結婚記念日は覚えていて「今日結婚○回忌やなぁ」と云います。プレゼントはありません。
(2004年11月13日)

(10)未完の文庫本を背嚢にしのばせて
 十二月八日は先の戦争の開戦日です。八月十五日の終戦記念日のように、だれもかれもが口にするわけではありませんが(マスコミも前者のように騒ぎはしません)、絶対に忘れてはならない日です。

 私はまだ小学校にも上っていませんでしたが、次々と兄ちゃんたち(こう呼んでいました)が召集されていき、家の中がガランとして淋しくなったのを覚えております。父が長兄で、弟が三人居りました。次々と兵隊にとられていくのを見て、祖母の心境はどんなだったでしょう。息子を、夫を戦争にとられ、一番悲しむのは私たち女性なんです。今は良い時代です(でも、イラクのこと、税金のこと、ひたひたと迫ってきています)。

 小さなクリスマスツリーを飾った部屋でもう何度「マッチ売りの少女」の絵本を読んでもらったことでしょう。表紙もとじてある糸も取れそうでボロボロになっていた絵本を弟たちと一緒に母が読んでくれるのを聞いたものです。そしていつも「おばあさん、私を連れて行ってちょうだい!!おばあさんはマッチが消えると行ってしまうのでしょう。あの焼いたガチョウや大きくてすてきなクリスマスツリーとともに!」というところへ来ると私は泣きました。何度聞いてもそれは同じでした。

 デンマーク語の原典からという大畑末吉訳「アンデルセン童話集第一巻」が出たのは昭和十三年の冬、二巻、三巻と待ちかねて読んだ大学生はやがて訳者に「完訳を祈ります。さようなら」と手紙を書いて出征して行きました。文庫本のその何冊かを背嚢にしのばせて・・・・。

 戦場にも年の暮れはあり、誰かが持ってきた「マッチ売りの少女」を皆で読み、そのたまゆらの夢があわれで、兵隊さんたちは涙を流したのです。

 もう二度とあってはならない、貧しさが誰の胸にもしみた時代の辛い話が、今年も十二月八日が来ると、思い出されます。
(2004年12月11日)

(11)風邪ひくな 転ぶな 義理を欠け

 新しい年が皆様にとって良い年でありますようお祈りいたしております。

 さて、去年の十月印西市の「高齢者クラブの運動会」で、山崎市長さんが挨拶の中でこう言われました――「風邪ひくな、転ぶな、義理を欠け」。

 これは、私が昨年の年賀状で書いたのと同じ言葉でした。別に先を争う気はありませんが、私の方が市長さんより早かったので、うれしくなってしまった次第です。「歳をとったら」というフレーズが抜けていましたが、省略されたのだと思います。

 私はこの年賀状を四人の方に出しました。中の一人から「義理を欠いてはいけません」と言われ、それはその通りなんですが、市長さんも言われていたように、風邪は万病のもと。冬に多いお通夜、お葬式、寒いなぁを思いながら無理して行くと風邪をひく、こじらせて肺炎にでもなったら大変、だから少々義理を欠いても無理をしない。市長さんのお話を聞きながら、私は得意になって胸を張り空を仰いでいました。

 因みに、この言葉を言われたのは岸信介元首相なんですが、市長さん、ご存じだったのかな?(ごめんなさい、生意気ばかり言って)。

 私はファックスに教育してもらっています。冒頭の言葉もそうなんですが、先日大坂に住む友人が朝新聞の連載小説を読んでいて「大好きな宮本輝がこう言っています」と、ファックスしてきてくれました。

 『死ぬ前の、いったい何年間が満たされたら人間は幸福やろうって考えたんや。人生の何たるかを知り、必要なだけの金があり、生きることが楽しくて仕方がなくて、自分と縁のある人たちもいろいろ悩みはかかえとるが、まあ何とか息災にやっとる。ああ人間に生まれてきてよかった。頑張って生きてきて良かった・・・・そういう時間を人は人生の最後に何年間くらい持てたらええのかなぁと考えると、五年間で十分かなと思ったわけや』

 心にズシン!!ときたファックスでした。
(2005年1月15日)

(12)オムライスを食べながらの至福のひととき

 ぽっこり飛び出した下腹を何とかしようと、運動を兼ねてジャスコへ。下りエスカレータのそばで、イケメンの男性に逢う。にこにこ白い歯を見せながら近づいてきて「吉川先生!」。「えっ、誰だったかなぁ?」と一瞬あわてました。

 「船穂中でお習字教わった○○です」という。「えっ、あの時の悪ガキ? いつも忘れ物ばかりしていた・・・・」というと、「ハイ!」と満面の笑み。「そうか、あの時の子が今は大学生になっているのネ」。わずか一年間のおつき合いだったのに。

 「社会人講師」制度がスタートした年。校長先生、間野教頭先生の熱心さに心打たれて、お引受けしたのでした。選択で習字を学ぶ子に、おばあちゃんが孫に教えるように、私の書道教室の仲間が数人いつも一緒に、正しい姿勢、筆の持ち方等、熱心にみて下さいました。

 「七夕の短冊に先生から願い事を書きなさいと言われて、その中に『長生きしたい』『健康に過ごせますように』というのがあって、先生が『これ、中学生の言うことか』とあきれ、皆で大笑いしたことがあったでしょう」

 「うん、うん、彼女がほしいというのと同じくらいネ」「あれ、先生のこと考えて僕は書いたんだけど」「へぇ、そういう気持ちも込められていたの、意外に良い子たちだったのね」

 「高校受かったら、先生の家に行こうと約束していた友達と三人で探し回って行ったんです。けどお留守でした」

 彼と立ち話をしているうちに、私はもう胸がいっぱいになってきました。遠い日の自分の中学生時代と重ね合わせて・・・・。「子どもって、そんなに変わっていないんだ!!」と自信をもったことでした。

 目をキラキラさせて話してくれる彼を見ながら、今純粋な気持ちをもっているこの子たちがすくすく成長できる世の中であってほしい、この優しく澄んだ瞳が曇ることがありませんように、と願わずにはいられませんでした。

 オムライスを食べながらの至福のひとときでした。
(2005年2月12日)

(13)寝ていたら食べられない、食べたければ寝ていられない

 「どこかにうれしいこと預かってくれる銀行はないかしら。悲しい時おろしたいので」――本気でそんな銀行がほしいと思っていたことがありました。

 今、風邪でダウン、寝床の中で「元気な時にエネルギーのようなものを預けておいて、今のようにぐったりしている時にその元気をもらったら早く快くなるのでは」などと、とりとめのないことを考えています。

 一日目は扁桃腺の熱、二日目はその上に鼻がつまって苦しくて、とうとう朝まで眠れなくて・・・・。さすがに今日は参ってます。「寝ていろ、寝てれば治る」と言われて寝ているのですが、「消化の良いものを食べて、お薬を飲んで温かくして寝るのが一番良い」のはわかっているのです。でも・・・・(悪い人じゃないのですが、わかってないみたい)。

 寝ていれば食事が作れないし、食事の用意に起きて水仕事をするのは、ゾクゾクと寒気がして、身体にこたえます。寝ていて、だれかがおかゆでも作ってきてくれれば、一番ありがたいのですが・・・・。寝ているか(=食べることは犠牲に)、食べることを優先するか、どちらかしか選択肢がないのです。皆さんは、こんなことってありませんか。

 同じ家にいるもう一人の人(繰り返しますが、決して悪い人ではないのです)、に頼めば何とかしてくれるかも知れませんが、頼んでしてもらうのと、黙ってさあーっと出てくるのとでは大変な違いがあるものです。

 随分前の話になりますが、作家の上坂冬子さんにインタビューしたことがあります。「一人暮らしはさびしくないですか」などと、生意気なことをたずねました。「一人居てさびしいよりも、二人でさびしい方がもっとさびしいのでは?」と、笑いながら答えられた表情が忘れられません。

 「風邪の時など困りませんか」の問いには、「一人で十分快適だけど、風邪の時が一番困るわね。一生懸命考えた末、近くの病院に入院させてもらうというアイデアがひらめいたの。以来、風邪だと思ったら枕を抱えて入院ね。温かい部屋で栄養のあるお食事をいただき、お薬飲んでのんびり寝ていると、四、五日もすればすっかり元気になるわよ」。

 どこかにそんな病院ないかしらね。
(2005年3月12日号)

(14)いつから老後? 

 おるお茶会で老後のことが話題になりました。

 「私は昔のように子供夫婦や孫たちに囲まれて生活したいわ」

 「本当は娘夫婦と一緒が良いけど、遠慮がないのでケンカもするでしょうし、ダンナにも気を遣うでしょうし、いっそ仲良しの友達とグループホームのような所で暮らしていけたらいいでしょうね!」

 「私もそう、旅行だって夫と行くよりお友達同士の方がずっと楽しいものね」と、お互い好き勝手なことを言い合っていました。

 「どうですか?」と話をふられたので、「私は娘もいないし、老後はすべてのサービスをお金で受けながら、気兼ねなく過ごせたらいいなァ。そのためのお金十分あるかと聞かれたら、心細い限りだけど、今から少しずつでも貯めなければ・・・・」と言うと、「老後のためにって、今だって十分老後じゃない」と、大笑いされてしまいました。

 私も三十代の頃は、六十代の人は老人だと思っていましたが、今は六十、七十いや八十代でも若々しい人が多いですね。

 話はさらに続きます。

 「人って一度に死ぬのではなく、ある年齢から少しずつ、ゆっくりゆっくり死んでいって、最後に少しだけ死んで終わりなんですって」と私が言うと、皆「へぇー」と驚いたり、「おもしろい」と笑います。続けて「私なんかもう半分以上死んでいるようなもの。あと少しだけ死んだら、ハイ!それまでよ、というわけか。ああ、いやだ、いやだ」と言うと、これが一番ウケました。

 間もなく桜の花も咲きだします。冬の間黒い枯れ木のようにみえたのが、アッという間に花を咲かせ、日本中をピンク色に染めてしまいます。

 パッと咲いて、パッと散るのでこんなに皆に愛されるのでしょうね。

 桜は「散る」といわれますが、正しくは「終わるんだよ、儚さを教えているんだヨ」と教わったことがあります。

 桜はバラ科、百万年かかってトゲのない今の桜になったのですって。私たち人間にはトゲをなくする、その時間はあるのでしょうか。
(2005年4月9日)

(15)厳しいしつけは若者のため

 ちょうちょの目に たんぽぽはオレンジジュース
   子やぎの目に 草の芽はお子さまランチ
      ぼくの目に 雲はわたがし(以下、略)

 春の野原に不景気もどこ吹く風です。今度の日曜日野原へ行きませんか?

 こんなおハガキをはじめ、あちらこちらからお誘いをいただきます。先月も大阪から、大分から来客、わが家は民宿モードでした。

 その時のお話しです。大阪の古い友達(十代からの)、彼女は小さな会社の社長さんなんですが、従業員を育てることに情熱をかけていて、子供に教えるように、箸の持ち方からやかましく言っています。その彼女と喫茶店に入った時のことです。

 コーヒーを注文すると、若い細い(二人とも太めなもので・・・・)女の娘がカップを運んできました。私の前には静かに置いたのですが、彼女のは少し荒っぽく置いたため、コーヒーが少し受け皿にこぼれました。

 彼女はすぐに「取り替えて下さる?」と言い、ウエートレスは黙って引き下がり、やがて今度はこぼさずすーっと置きました。「ありがとうね」と、彼女は優しい声と笑顔をウエートレスに向けます。

 「少しくらいこぼしたって、私なら平気よ。あんたはキツイなあ」というと、「私だって別にかまわないんヨ、でも、あれ何も言わなかったら、あの娘またやるヨ、意地悪のようだけど、あの娘もこれから気をつけると思う。もう二度とやらないよ」。彼女は、つづけて「新しいのを持ってきてくれた時、私思いっきり良い笑顔でありがとう!!って言ったんよ、すべて許します、という意味を込めて」。

 私は返す言葉もなく、感動していました。一日一日を力いっぱい働いている彼女と、ぐうたらぐうたらしている私、その成長ぶりの差に驚いて・・・・。

 ほどなくして、大分のいとこが遊びに来たので、この話をわが家の夕食の時に話してあげました。いとこは、五十代前半、ご主人とともに開業医をしています(言い忘れましたが、大阪の女社長は六十代前半です)。

 と、ここまで書いたところで紙数がつきてしまいました。続きは次号で。
(2005年5月14日)

(16)さらにキツ〜い 女医の見方

 空から光ばかり 降ってきて
   私のからだに 緑の芽が出ました
     心の底にねむっていた
 あなたの言葉から 緑の芽が出ました
   こんなにあなたと遠い今
     やがて花が 咲くでしょうか?

 こんな詩を書き放送されるのを楽しみにしていた私、何十年前のことでしょうか。

 季節は「光薫る」から「風薫る」に変わりました。

 さて先月号のお話し、覚えてくださってますか? 友人の女社長の話でした。コーヒーを運んできたウェイトレスが少しこぼしたので取り替えさせた。我慢できないことではなかったが、彼女のためにあえて注意したので、もう二度と不作法をしないと思う、といった話でしたね。

 その話を従姉妹にしたところ、「臭っさあ!」と笑われました。クサイと言われたので、何か匂うのかと、思わずあたりを見まわしたことでした。

 女医をしている従姉妹が、話を続けて言うには「クサイ話やねぇ、今時の娘はそんなことくらいで変わるもんですか。だいいち、その娘は以前にもそんなことをして叱られているはず、もう二度としないだって? 甘い甘い。『うるせえ、クソババア!』と思っているよ」。

 厳しいお医者さんの世界で胸はってがんばりつづけている彼女、若い医師や看護師さんをずーっと育ててきた人の言葉だけに迫力があり、圧倒されました。でも、どちらかというと女社長の方を・・・・。

 私の狭い範囲の経験からですが、今、そしてずーっと以前から関わってきた学生たちは、そんなことなかったように思います。愛情をもって注意したことはわかってくれていたと思うのです。

 ラジオで、東京の有名な老舗の喫茶店が店を閉じたと話題になっていました。作家や詩人が利用していたお店、大きなチェーン店で、永六輔さんも「コーヒー一杯で何時間も本を読んだり原稿書いたりしても、何も言われず、感じの良いお店でした」と話し、たくさんの人がそんなお店が閉店になることを残念がっていました。

 店主のひと言「ゆっくり従業員を教育することができなくなりましたので、閉じさせていただきました」。

 味深い言葉でした。
(2005年6月11日)

(17)愛(?)・地球博

 「愛・地球博」へ行ってきました。「自然の叡智」をテーマに百二十ヵ国以上が参加して最新技術や巨大設備を導入した企業館やパビリオンが人気と、期待して行ったのですが・・・・。

 会場を回っているうちに「愛・地球博」の「愛」に疑問が芽生えてしまいました。「自然に対する愛」はあるのかも知れませんが、「人間に対する愛」は感じられません。

 まず入場券をもった人が入場するまでにずいぶん待たされます。平日なのに一時間以上待ちました。それほど持ち物検査などをするわけでもないのに、時間ばかりかけているようで、とても「愛」のある応対とは思えませんでした。

 あちこちに作ってある動く歩道も、全然動いていません。

 でも、来たからにはできるだけ見て回らなくちゃ・・・・、まずは冷凍マンモスを見に行くと、横を向いていました。じっと見つめていたかったのに、ほんの数十秒間動く歩道で通り過ぎたというか押し出された感じです。

 大阪万博のメインは「月の石」でしたが、愛知万博のメインは「マンモス」なんですね。だいたいメインというのは「ええかげんなもんやなぁ」というのが、私の感想です。

 どこも待ち時間が長くて、たまにすーっと入れる所は、これがまたつまらなくて! 巨大万華鏡を見に行った人、三時間近く並んで入館したけど「あんなんだったら、並ぶんじゃなかった!」と怒っている人。

 でも、最後に入った「アフリカ館」はおもしろかった。一人で二時間弱過ごしました。

 スーダン、ケニア等の展示台(露天商)にずらりとならんだ指輪、ネックレス、ブレスレットなど、質素なものが多いけど、おばさん、学生さんたちで人だかりができていました。

 高校生二人が指輪を返品したいのだけど、と困っていたので、私が交渉して、それぞれ五百円ずつを返してもらい、二人には喜ばれました。「どうして?」と聞くと、「他のお店で四百円で売っていたので」とのこと。

 別の店ではカタコトの日本語で「カッテ、マケルヨ」と大きな声で叫んでいます。隣のお店では、ターバンを巻いたお兄さんが「ここは、ガクワリあるよ!!」と叫んでいるので、おもしろがっている三人の女子学生と一緒に、私も「学割」で指輪を一つ買わせてもらいました。

 さまざまな環境で生活を営んできた人間同士のじかの触れあい、万国博覧会の醍醐味はこんなところにもあるような気がします。

 ご存じかも知れませんが、マンモスだけを(映像等なしで)見るなら、予約なしで入館できます。
(2005年7月9日)

(18)それにしても戦争責任は・・・・
 今は亡き私の母は買い物をする時、「お肉はこの店」「お魚はあそこ」と、必ず決まった店でしか買いませんでした。戦争中、顔見知りでないと売ってもらえないというにがい経験から、戦争が終わってずっと経った後まで、この習慣が、それこそ亡くなる間際までつづいていました。

 アメリカ、ニューメキシコ州で初の原爆実験が行われた、六十年前の七月十六日。その翌日からアメリカ、イギリス、ソ連の三首脳によるポツダム会談が始まります。

 以前、北欧に旅行した時、ポツダムの会談場になったツェツィリエンホーフ宮殿を訪ねたことがあります。ベルリンの都心から三十分ほどのポツダムはプロイセン王家の離宮があったところで、閑静な木立の中に立つ宮殿は、宮殿というより田舎の別荘といった感じで、会談に使われた部屋など当時のまま保存されていました。

 実験成功の知らせは、「赤ん坊が生まれた」という暗号電報によって、すぐに米トルーマン大統領に届き、数日後には大統領の口からスターリン・ソ連首相にも知らされたといいます。緑したたるたたずまいの宮殿の中で、そんな会話が交わされていたのです。

 日本にポツダム宣言が発せられたのは、原爆実験から十日後の七月二十六日、そして八月六日に広島、九日には長崎に原爆が落とされ、十五日に「玉音放送」が流されます。

 先月、旅の途中に三河湾国定公園に立ち寄った時、そこで見た「殉国七士の墓」に、私はショックを受けました。

 東条英機(陸軍大将)、松井石根(陸軍大将)、広田弘毅(総理大臣)、武藤章(陸軍中将)、板垣征四郎(陸軍大将)、土肥原賢二(陸軍大将)、木村兵太郎(陸軍大将)の墓碑がありました。

 親たちから「東条英機は悪いヤツだ」と聞かされていた私は複雑な思いでしたが、一緒に行った、何でもよくご存じの方も「知らなかった」とおっしゃっていました。近所で最も尊敬申し上げている方(ご自身も戦争に行かれた)は、ぽつりと「あの戦争は仕方なかったんだよ」と・・・。

 誤解を恐れず言わせてもらえば「時代、歴史の流れの中では、仕方がなかったという政治判断はあってはならないものだったはずです。今後もそれを政治指導者に許すわけには参りません。背景はどうあれ、最後の判断は政治指導者に求められるからです。

 私は、小泉首相の靖国参拝にも賛成できません。小泉さんも言われていますが、「死者に鞭を打たない」という考え方があり、亡くなればその方を尊いものとして手を合わせるという美しい慣習、倫理観があります。

 しかしただ一つ、戦争責任に関してだけは、それをしてはいけないと思うのです。
(2005年8月6日)

(19)歳をとるとは、昨日できたことが今日できなくなること

 バス停の近くを手押し車を押して行くかわいいお婆ちゃん。思わず「お母さん!」と叫びそうになりました。ひと呼吸おいて「そんなはずはない。義母はあの日一筋の煙となって天国へ・・・・」それなのに何年経っても手押し車のお年寄りを見ると、ドキッとするのです。

 大阪で八十八歳まで一人で暮らしていたのに、心ならずも千葉へ来ることになり、どんなに不安でとまどったことでしょう。三十代で夫を亡くし、あの戦中戦後を一人で子供二人を育て上げ生き抜いてこられました。

 「今までもう十分がんばってこられたのだから、これからはうーんと楽をさせてあげよう」心底そう誓って大切に接してきましたが、環境が変わったのと、何もしないことで歳相応に頭も身体も弱ってきました。

 足が痛いというので、近くのお医者さんで膝に電気をかけてもらいに行くことになりました。私が車で送り迎えをしていたのですが、毎日のことで私もだんだん大変になってきて、何か良い方法はないかと考えました。

 そして、「少しでもいいから歩いて行ってみてネ」と、はじめは百メートル弱の角を曲がるところまで一人で歩いてもらい、後ろ姿を眺めながら、車で追いかけ医院まで、帰りはすぐ近くの幼稚園の前まで歩いてもらい、そこから車に乗せて帰る。その距離を少しずつ伸ばしていき、三ヶ月ほど経った頃にはバスで一駅弱くらいのところまで歩けるようになってきました。

 「しめしめ、うまくいきそう。この調子だと一人でお医者さんに行けるようになり、その時間私は自由に使える」と喜んでいたら、ある日知らない人からの電話です。「もしもし、高花公園の前に住む者ですが、今お宅のお婆ちゃんが足が痛くてもう一歩も歩けないとすわり込んでおられます。迎えに来ていただけませんか」。大急ぎで車で駆けつけ「申し訳ございません」とお詫びやらお礼を言い、ふとおばあちゃんを見ると、なんとニコッと笑っているのです。

 敵は一枚上手でした。まんまとしてやられました。

 車を降りて、おんぶしようとしたら、スタコラサッサと歩くではありませんか。「もうっ」安心すると同時に腹がたつほどでした。

 このにくめない義母も、九十四歳で亡くなりました。

 昨日までできなかったことが、今日できるようになった、というのが子供。

 昨日までできたことが、今日はできなくなったというのが老人なんですって。
(2005年9月10日)

(20)私の「飲む」「打つ」「買う」

 窓にもたれてお人形が
   三日月さまを見ています
     三日月さまも松のかげ
       やっぱりお人形を
         見ています
 何も話しちゃいませんが
   嬉しそうに見ています
     静かな秋の夕べです
 どこかでコオロギ
   鳴いてます

 幼い頃読んでもらった西条八十?の詩、今もはっきりおぼえていて、目を閉じるとあの頃のお部屋の様子も浮かんできます。

 半世紀以上経った今でも、窓にはお人形がもたれています。そして美しいお月さまを眺めています。

 私は祖母に可愛がられて育ちました。とても良い子だったので、近所の人たちも私のことを「エイコちゃん」といわず「イイコちゃん」と呼んでくれました(本当です。エヘンッ)。素直な明るい、可愛い子供だったようです。その反動か、今では「超いじわる婆さん」やってますが。

 祖母は夫(祖父)に、とても苦労したようでした。何せ「飲む」「打つ」「買う」の人だったそうです。孫の私も、血は争えません。今頃になって女だてらに「飲む」「打つ」「買う」をやっています。

 「へぇー!?」「へぇー!?」と驚かず、まあ聞いて下さい。明治時代のそれとは違って私のは、平成の「飲む」「打つ」「買う」です。

 まず「飲む」ですが、私の場合「お酒」じゃなくて「薬」です。頭痛の薬、高脂血症のためコレステロールを下げる薬、胃の薬等々を飲んでいます。

 次に「打つ」。永年「鍼・灸」に興味を持っていて、親戚のおじさんが鍼灸医院をやっていたのでよく遊びに行っては勉強させてもらっていました。若い頃からひどい肩こり、頭痛持ちだったのですが、鍼を打つことで最近は随分楽になってきました。

 最後の「買う」は、今お友達の間でも流行している「栄養補助食品」サプリメントです。ビタミン剤をはじめ、中高年に良いといわれるコエンザイム○○等々、効果のほどは?ですが、「お若いですね」じゃなく「お若く見えますね」とは云われています、一応・・・・。

 この夏、若さを出そうとブラウスのボタンを一つはずし、スカート丈を短くしました。結果は・・・・、シミ、シワ、タルミがぐっと増えました。あ〜あ。
(2005年10月15日)

(21)歓びも悲しみも人生

 信号待ちをしていたら、さあーっと一陣の風。思わず「風立ちぬいざ生きめやも」と口ずさんでいました。学生の頃愛読した堀辰雄の文章を・・・・。

 初秋の風じゃなく、今ごろのそれは、しっとりと重く心に沁みます。何となく人恋しい季節です。

 いろんなお便り、お知らせが来ます。それらの中に離婚の報告まであって、「こんなハガキが来るなんて、良い時代になったものねえ」と。最後に小さく「お祝いも過分にいただいたのにすみません!!」と書かれていて、クスッと笑ってしまいました。

 食欲の秋、スポーツの秋、そして音楽の秋です。

 クライスラーのおなじみの名曲に「愛の喜び」というヴァイオリンの曲があります。弾むような喜びにあふれたこの曲は、限りなく優美で結婚式などでよく奏でられています。

 ところで、クライスラーはこの「愛の喜び」とともに「愛の悲しみ」という、いわば正反対の曲を同時に発表しています。前者ほど有名ではありませんが、私は、センチメンタルな叙情を湛えた「愛の悲しみ」の方にむしろ強く心惹かれます。

 恋愛、結婚というと、歓びと輝きに溢れた出来事という幻想が、誰の心の中にもあるようです。そのよい例がテレビのワイドショーで、「幸せいっぱい」「キラキラ輝いて」といったありったけの形容詞がまぶされて伝えられます。

 もちろん愛が実り、結婚の決まった人が幸福でないはずがありません。

 しかし、人間とは、人生とはそんな単純なものでもないのです。クライスラーが「愛の喜び」とともに「愛の悲しみ」を同時に発表したように、歓びもまた哀しみに裏打ちされているものなのではないでしょうか。

 至上の歓びを得ることは、同時にとてつもない哀しみも抱え込むことなのです。たとえば恋人や伴侶を得る歓びと同時に、人は嫉妬や不安、さらにはいつかは訪れるかもしれない別れの苦しみを背負い込むことになる、そればかりか人生をともに歩むということは相手の苦悩さえも同時に背負わなければならない運命が待っているかもしれないのです。

 なのに、輝かしき一面だけしか見ないというのは、何と愚かなことでしょう。

 愛の哀しみがあるからこそ、愛の歓びも際立つわけで、人生も味わい深いものになるのだと思います。

 そして何かを得ると同時に哀しみや苦しみも背負い込むことは、少なくとも何も得ないことよりも数段価値のあることに違いないと思うのです。

 幸せな人は力持ちです。喜びと同じくらいの悲しみをかろやかに背負えるのです。
(2005年11月12日)

(22)もみじ 末期にみせる一瞬の美しさ
 紅葉の美しさに見とれていたら、もう師走も半ば近くになりました。一年の何と早いこと、驚くばかりです。皆さんはいかがですか? 私は一年の半分以上を探し物で過ごしているので、アッという間に一年が過ぎていきます。

 冒頭の「紅葉」ですが、紅く色づいた楓(かえで)等の葉をいうのかと思っていましたら“銀杏”のような〈黄葉〉もまた「もみじ」なんですってね。

 随分前に京都の栂尾(とがのお)に行った時に見た「紅葉」の澄んだ赤が今も心に残っています。

 葉の一生が終わり、枯れ葉になって散っていく、その直前の刻々を懸命に尽くさんとする最後の化粧姿といいましょうか。

 初夏の頃の青葉、若葉の瑞々しさに心奪われた者も、この老いの身の末期に見せる一瞬の美しさにはとても及ばないと知るでしょう。

 私も、老いてゆくのは致し方ないとしても、終わりに近づくほどに情念の余分なエゴが振り落とされ、ただ温かく澄んだ美しさが誰からも慕われる、それは厳しい霜の日々を笑顔に包んで耐えてきた者だけに許される、神様の賞賛を受けたいものだと切望しています。

 話は変わりますが、十二月八日は太平洋戦争の始まった日、決して忘れてはならない日です。以前、新聞の短歌欄に、読んだ後涙が止まらなかった歌がありました。

 「半ズボン汚し帰りし幼子を 叱りいたりき戦死せしかな」だったと思うのですが(作者は忘れました)。

 こんなに早く死ぬのだったら叱らずに・・・・」と、このお母さんどんなに後悔したことでしょう。そして、この悔いはこれからもずーっとつづくのだろうと思うと、本当に辛くなりました。

 少し暗くなりました。永六輔さんに聞いたお孫さんのほほえましい話をご紹介します。

 幼稚園児いや小学生の頃かな?二人の男の子が郵便局の受付のそばに置いてある箱に顔を近づけて「ワアーイ、ワアーイ」とか「アーアー」「オーイ、オーイ」と大声で叫んでいます。いったい、何をしているのかと思って、よく見ると、その箱にはこう書いてあったそうです――「お客様へ あなたの声を聞かせてください」。

 子供っておもしろいですね。

 では皆様、お元気で良いお年を!
(2005年12月10日)

(23)初夢や 金も拾わず 死にもせず
 あけましておめでとうございます。今年も本紙と「あした元気にな〜れ」を宜しくお願い申し上げます。

 皆様はお元気で良いお正月でしたか?初夢はどんなのでしたか?

 漱石の句に
      初夢や 金も拾わず 死にもせず

というのがあるのですが、おもしろいと思って、漱石の好きな先生に出す年賀状に引用して失敗したことがあります。

 「初夢や 金も拾わず」というのは、小躍りするほど嬉しい夢でもなかったが、「死にもせず」、さりとて悪夢でもなかった、まず平凡であることが何よりであろうといっているように思われます。

 小津安二郎の映画で老夫婦がしみじみ語り合う場面がありました。「今が一番幸せな時かもしれないよ」。そう思った時が確かに幸せの頂点かもしれません。明日のことは予測できない、という意味ではなく、本当の幸せというものは、そのように些細なことなのだということです。

 下の句にわざと縁起でもない言葉を遣っているところが漱石らしくて、私は好きなのですが。やはり年賀状には向きませんネ・・・・。若かりし頃のほろ苦い思い出です。

 さて私の初夢は、今は亡き父と「お伊勢さん」(伊勢神宮のことを大阪ではこう言っていました)へお参りに行くらしく、近鉄電車に乗っていました。窓から外の景色を眺めていると、大きな看板が目に飛び込んできました。それには「野呂運送」と書いてありました。

 私「おもしろいねぇ、のろい運送屋なんて商売になるの!?」(「のろ運送」というのは、夢ではなく、確かにそういう名前の運送屋さんがありました)。

 父「そんなら、昔近所に「板井歯科」という歯医者さんがあったよ。「痛い歯医者さんなんてごめんだよね」。

 二人で顔を見合わせて笑った夢でした。目が覚めてからも、もっと続きが見たい!と目をつむったことでした。

 お年玉のかわりにもう一つ。

 阪神タイガースのエース、藪投手。今や大リーガーになりましたが、やはり野球選手になって正解でした。間違っても、お医者さんにならなくてよかったですね。
(2006年1月14日)

(24)酷寒の中 猫は恋に身をこがす

 何度も腰を浮かしながら引き止められて帰りきれず、訪ねた家の門をやっとのことで後にした。

 冬の夜は九時を過ぎれば住宅地の人通りは少ない。暖房のきいた家の中から身についてきた暖かさは衿、袖口からどんどん離れてゆき、体は棒のように硬くなって歩いていました。

 駅前につながる広い道に出た途端風の向きが変わり、後から押されてぐっと踏みこたえました。空を仰ぐと、まるで鎌の刃を研いだように光る細い月があります。

 遠い昔子供の頃の記憶につながる月なのですが、さあ何といったのでしょう。三日月さまと呼ぶ、なつかしさのある月ではなく、触ったら切れそうな、ぞっとする怖さのある月なのです。

 鼻も耳も吹きちぎられるような寒さに追い立てられて電車に乗りました。体を包む、その暖かさ、ほっとして今別れてきた友人の話を思い出しました。彼女は推理作家、アガサ・クリスティのファンです。そのアガサが語ったといわれる有名な言葉を教えてくれました。

 アガサ「考古学者というのは、夫としては理想的ですわ」

 その心はといえば「だって奥さんが歳をとればとるほど、高い値打ちをつけてくれますもの」。
「余計な説明はいらないでしょう」と、友人は笑っていました。

 このごろは、おもしろい話を聞いてもすぐに忘れてしまう私。でも、このお話はおぼえておきましょう、と牛のように反芻したことでした。

 やっと家の近くまで帰ってきました。

 私の前をさも用ありげに横切ってゆく猫がいました。それを追って、駐めてある車の下からもう一匹が跳び出します。追いつ追われつ、ボールが弾むように一直線に走っていく。先を行く一匹が一気に塀に駆け上った。追いつこうとする猫の前に、門柱の陰からもう一匹、夜目にも逞しいのが現れて、道を塞いで低く唸った。途端に、ギャギャともつれ合って塀の向こうに消えていきました。

 この寒さのなかで猫の恋が始まっているのですね。恋にやつれて竈のくずれた穴から、ひっそり通ってくる粋な猫はいなくなりましたが・・・・。
(2006年2月11日)

(25)春はあけぼの 気もそぞろ

 久しぶりに清少納言の「枕草子」を読んでみました。

 有名な冒頭の「春はあけぼの。やうやうしろくなり行く山ぎわすこしあかりて、むらさきたちたる雲のほそくたなびきたる」という一節は、もうすでに花の香りのする春の夜明けの、次第に明るくなる情景が、それだけで何か物狂おしい嬉しさを呼び起こすと言っています。

 もちろん清少納言は梅も好きだったでしょうし、春霞にも心をひかれたことでしょう。でも、胸を喜びで強くしめつけるのは、まず春の典雅な夜明けの、とくに山際の白くなる空に紫の雲のかかる姿なのです。

 話は変わりますが、以前相撲を見ていて、インタビューを受けていた横綱・曙が「今場所はいかがですか」と聞かれ、「はい、がんばります。春は曙といいますから」と答えたのを見て、思わず「うまい、座ぶとん二枚!」とさけんでいました。(今回は、冒頭部分の話のみで失礼します。いつかまたつづきを書きたいと思っています)

 大空は 梅のにほひに かすみつつ くもりもはてぬ 春の夜の月
                                 藤原定家

 春一番が吹いたあとは、はっきりと季節が変わったのを感じます。黄昏どきにその空気の違いを感じたりすると、一瞬、違う国に降り立ったのでは?という錯覚にとらわれます。こんなとき、突然、しかもどうしようもなく自然に味覚の欲求がわきおこります。

 貝と分葱の、ヌタで濁酒を・・・・。有り難いことにこのごろはおいしい地酒の濁酒が街の酒屋さんで手に入ります。

 にぎやかにやるなら一升瓶、一人静かにだったら五百ミリリットルもあります。

 貝も、ハマグリでもアサリでもお好みしだい、味噌もいろいろスーパーで選り取り見取り手に入ります。サザエのつぼ焼きを添えてもよいでしょう。

 思えばこれは雛祭りのご馳走でした。

 これでどこからともなく、海の香りが流れてくる朧月夜であればわが世の春です。

 ここでふと思い出しました。ずーっと、ずーっと昔の早春のこと、誰かさんに頼まれて「豆腐の白和え」を作ってあげると約束しました。月日が経って、その人とも逢わなくなり、そんな約束をしたこともきれいに忘れてしまっていました。「あの人お元気かなぁ、お豆腐の白和えのこと憶えているかなぁ」。

 いいかげんなことでごめんなさい。
(2006年3月11日)

(26)独断と偏見で選ぶ 桜のベスト10

 以前「枯れるまで染井吉野と呼ばれたい」と書いた時、すぐに「拝啓 染井吉野様」というお便りが来て飛び上がらんばかりに喜んだことがあります。その染井吉野の季節が参りました。「世の中にたえて桜のなかりせば・・・・」の通り、あちらこちらの桜の便りで浮き足だっています。

 勝手に「好きな桜のベスト10」を選ぼうと苦心して、一位から五位までやっと決めました。

 一位・京都円山公園のしだれ桜。これは一番多く行ったということで。

 二位・同じく京都平安神宮の桜。谷崎潤一郎の「細雪」に出てくることで有名です。

 三位・三春の滝桜。千葉に来てバス旅行で何度か眺めました。

 四位・根尾谷淡墨桜。つぼみはピンク、満開で白、そして淡い墨色へ色を変える。

 五位・盛岡石割桜。岩を押し広げて成長する生命力に参った!

 あと五つをどれにしようか、あれこれ資料を見ていると、一通の手紙が出てきました。故人となった恩師のものでした。「うーん、すごい、これを書かなくっちゃ」と、ランキングはまたの機会にして、この手紙を少し紹介します。

 『陽春四月九段の桜は満開だったと思いたい。靖國神社、桜、そしてはるかに見える宮城=Aこれで決まりという大日本帝国の美の構図である。国のため、陛下のため、ぱっと咲いてぱっと散れ。童児のころからこの歌を耳元に聴きながら育った。教訓どおり、たぶん特攻隊に組み込まれて散る寸前、戦争が終わった(以下略)』

 この四月、九段の桜とすぐそばの千鳥ヶ淵の桜を見ました。ご存じ桜の名所で、対岸の北の丸公園と合わせて、天も地も花また花、壕の縁ぎりぎりまで斜面を桜が埋めつくしていました。桜の下はむろん人また人、夜になればけっこう花見酒に賑わうとのことでしたが、私が歩いた時はまだその気配はなく、人でのわりには静かな夕刻でした。

 天地を埋めつくした桜に包まれ、私は少し気が変になりました。満開の桜には魔性がある。深く垂れた枝の先までびっしりと花をつけた大樹の下に立つと、一瞬、心身を天に吸い上げられる。美しいが怖ろしい花でもあります。

 でも私はこの陽春の一刻が熟れきった果肉のように充実していると思いました。自分の国を嫌っている人間じゃないか、とも。

 千鳥ヶ淵の桜は好きじゃないという人がいても不思議はない。あの極度に日本的な風景とその中を歩く人を嫌うことが筋の通った生き方でもありうることを承知しましょう。しかし、幸いにして私はそうではなかったのです。

 桜の花びらにそっと口づけすると、桜餅の匂いがするのですね。そう思われませんか?
(2006年4月15日)

(27)やっぱり、玉子はエラい!

 「玉子かけご飯」が全国的な話題になっているようです。

 島根県の出雲地方で、町おこしの一環として、昨年十月「第一回玉子かけご飯シンポジウム」なるものが開かれたのが始まりで、それからいろんな所へ広がりをみせたようです。

 ご飯の中に玉子を入れて醤油をたらし、かきまぜて食べるのと、別の器に卵を割り、醤油を入れてかきまぜてご飯にかける、という二つのやり方があり、一番おいしいのは、アツアツの白いご飯の真ん中に少しくぼみをつけて、そこに玉子を割り入れ、醤油をたらし、よくまぜて、いっきにかっこむという方に軍配が上がりました。

 今は、この玉子かけご飯に使う専用のお醤油もいろいろと売り出されています。「元祖玉子御飯専用こんぶ醤油」六百九円でキマリかと思っていたら、「極上玉子かけ御飯」等々、続々と「強豪」の登場で笑ってしまいます。

 それにつけても、玉子はエライ!!」と思いませんか。

 いろんな物が値上がりしているなか、玉子だけは一貫して安い値段のまま、スーパーの棚に並べられています。まさに庶民の味方、いつも冷蔵庫の定位置に並んでいて、うれしくて可愛い存在です。

 でも、私の子供の頃は玉子はかなりの贅沢品で、なかなか食べさせてもらえなかったものです。母は、病気のお見舞いに、箱の中にもみ殻を入れ、その中に大事そうに玉子をおさめ、持って行ってました。

 先日の日経新聞に、作家の出久根達郎さんが書いていました。「玉子にお醤油をかける時、少しでも量を増やそうと、たっぷりかけたので、玉子より醤油の匂いが強かった」と。

 私の思い出の中でも、玉子は貴重品で、たまに食べる幸運に恵まれた時には、できるだけ増量≠オようと、涙ぐましい努力を払っていたことを思い出します。戦後のことですが、母が玉子焼きを作ってくれる時、「玉子の素」という黄色いメリケン粉のようなものを、玉子、水と混ぜて焼いていました。しかし、しょせんは増量剤、ちっともおいしくなかったのをおぼえています。

 落語の「長屋の花見」に出てくる玉子焼きも黄色のたくあんでしたね。

 とにかく貴重品だった玉子、今はいくらでも食べられるようになったのに、高脂血症でストップがかけられ、残念!!

 しかし、アツアツのご飯に玉子をぶっかけて食べる旨さは、何もない時代だったからというのでなく、この飽食の時代に改めて見直される「至福の味」だったのですね。

 やっぱり、玉子はエライ!!
(2006年5月13日)

(28)駆け足のヨーロッパ旅行
 「五月はマリア様の月」という歌があります。花の月とも呼ばれる五月は本当にお花がきれいです。

 この時季に印西市高齢者クラブの人たちとヨーロッパへ行って来ました。私はヨーロッパは今回で七度目、ラッキーセブンで何かすばらしいことがあるかも、と期待していったのですが・・・・。

 まずはドイツへ。リューデスハイムの中世のお城をはじめ、ハイデルベルク城などを観光。森と泉に囲まれたブルーシャトーの世界でした。青一色の空、太陽がさんさんとふりそそぎ、「ドイツって、こんなに明るいんだ!」、まさに童話に出てくるような風景で、以前訪れた、戦争の爪痕も生々しかった東ドイツとは対照的な印象を受けました。

 翌日は朝からライン川下り、ローレライの岩を見ました。

 ローデンブルクで散策中、美しいお城と大きな公園にさしかかりました。公園は、ライラックの花が満開、足元には色とりどりの可憐な花が咲き誇り、雑草一本生えていない手入れの良さに感心しました。そんな風景の中で、ひとり静かにフルートを吹いている青年がいます。同行している皆さんの行方を気にしながらも、フルートの音色に引き寄せられていくと、曲が「ローレライ」に変わり、昨日見てきたばかりの岩の姿を思い出しながら、じっと聴き入ってしまいました。

 曲が終わり、CDを販売しているというので、二枚買ってサインをもらいました。

 ドイツは自然がとても明るく生き生きしていて、車で走っていると、黄色い菜の花畑がどこまでも続き、まぶしいくらい。ゴーギャンの絵の中を走っているようです。

 続いて移動したスイスは雄大なアルプスの山々に抱かれた、おとぎの世界のような国です。ユングフラウ地区から登山列車で、ユングフラウヨッホ標高三千四百五十四メートルへ一気に登ります。

 フランスの誇る新幹線TGVでパリへ移動しますが、乗車前の三十分間でレマン湖も見ました。十年ほどまえに来た時は夏で、たくさんの人が泳いでいるのをみて、私も泳ぎたいと言ったら、ガイドさんから「湖の真ん中あたりが国境ですので、パスポートを持って泳いで下さい」と言われ、皆で大笑いしたことを思い出しました。

 次の日はパリ市内観光。コンコルド広場、ノートルダム寺院、シャンゼリゼ通り、凱旋門、オペラ座、エッフェル塔等々、みんなで精力的に見てまわりました。調子づいて凱旋門の頂上に登り、シャンゼリゼ通りを眼下に見下ろした時は、全員から感嘆の声があがりました。パリ市内の道路が見事に放射状になっているのが一望できるのです。

 以上、旅行と同じく、大急ぎではしょってしまいましたが、ではまたオ・ルヴォワール、そしてメルスィ。
(2006年6月10日)

(29)切なくも悲しい あじさいの便り

 雨に濡れて庭のあじさいがしっとりときれいです。じっと眺めていると、心も澄んできます。

 「私の涙をためて、絹の中でそーっと漉して濃くしていったらこんな色にならないかしら」なあーんて考えています。

 突然郵便屋さんのバイクの音に、センチメンタルバアさんの夢はさめました。ダイレクトメールに交じって一通の白い封筒がありました。ここ数年音信のとだえていた友人からのものでした。

 中に一枚の新聞の切り抜きが入っていて、読み進んでいくうちに、思わず「何で?」「何で?」と叫んでいました。かいつまんでご紹介したいと思うのですが、私の稚拙な文章力ではとても要領よくまとめられず、思いあぐねた結果、そのまま掲載します。

あじさい

 雨に揺らぐあじさいの薄水色の涙の花束、私には心乱れる哀しみの花の季節である。五年前私の人生は変わってしまった。広い庭に咲きそろったあじさいを切って部屋の中を飾り、静かな夕べの花の風情を楽しみながら、息子の帰りを待っていた時、病院に来るようにとの思いがけない知らせを受けた。そして死ということを聞いた時、私は気を失ってしまった。

 あの世へ急ぐわが子の姿を追い求めて狂乱の姿でさまよっていたであろう。涙もなく魂を失った人間のうつろな私となって生きていることに気づいたのはいつからであろうか。心の動揺を気遣って医師の薬で眠らされていた。翌朝、人に支えられて庭のあじさいを全部切って、母の最後の愛を花で飾りたいと、棺に入れるよう願って、また眠らされた。

 薄水色のあじさいに埋まって息子は昇天した。私は死に顔を見ることはなかった。優しく明るい笑顔であじさいの美しい雲に乗って、手を振りながら私に別れを告げていったものと信じている。

 雨に濡れるあじさいは切なくて胸にしみる。そして夕べの静けさのなかにひっそりと白く浮かぶ大きな花束、私の一年間の涙のすべてが、この花に変身して私を慰め、悲しませ、思い出を誘う。

 願わくは、私もこの花のもとで死にたいと思う幻想をおそれて、息子の命日が近づくと全部切ってしまう例年である。日増しに美しくなっていくあじさいの花に、母の嘆きは何年たっても、当時と変わることはなく、永遠の哀しみである。

 私はただ祈ることしかできませんでした。
(2006年7月8日)

(30)未完に終わった絵

 冷房のない時代、せめて言葉で涼をとろうとしたのでしょう。江戸中期の狂歌師、唐衣橘州が涼しいもの三つ並べて歌にしています。

 涼しさは あたらし畳 青簾 妻子の留守に ひとり見る月

 うーん、上手いですねぇ。ひとり見る月ですか。

 さて、八月はお盆の月。一族祖先、わけても亡き子、亡き父母を想う優しい月です。八月はまた原爆と敗戦の月、悲しい月でもあります。

 一番古い記憶として私が思い出すのは、電車に乗って戦地に旅立つ兵隊さんを見送っている風景です。

 召集令状で駆り出された、にわか兵隊さんばかりです。見送りの人たちのバンザイ、バンザイの声と、手に手に打ち振る日の丸の小旗が耳と目にこびりついています。

 少し心細さそうに電車の窓からのぞく顔のひとつは、私の好きな兄ちゃん(叔父)でした。二度と日本に戻れずに散った兄ちゃんでした。「豆腐とネギのみそ汁が食べたい」と言ったのが、最後の言葉だったとか。

 今NHKの朝ドラ「純情きらり」で達彦さんが兵隊にとられ、ガッカリしている私です。

 小さい頃の思い出につながる日の丸の旗を見るのは、ちょっと辛いのですが、サッカーワールドカップやオリンピックなどのバンザイ、バンザイの代わりに、ニッポン、ニッポンの掛け声は、若者だけでなく、私も熱くしてくれます。

 オリンピックも問題点はありますが、人間の闘争本能を消化する代理戦争の役割を果たしています。爆弾を投げ合うよりボールを投げ合っている方がどれだけ健全なことでしょうか。

 友人が「無言館」という本を送ってきてくれました。

 ご存じの方も多いと思いますが、長野の上田に画家の野見山暁治さんが九年前、戦没学生の作品を集め、美術館を建てられ「無言館」とされました。その本です。

 青春まっただなかの清々しい瞳で描き続けた(現東京芸大)学生による絵の数々。健康で若い裸婦の絵も数点ありました。青春たぎる画学生は引き離される恋人の身体を自分のひとみに焼きつける思いで描いたのでしょう。二十歳前後の前途ある青年たちです。今生きていれば、八十歳を超える名画家になっていたかもしれないのです。

 「あと五分、あと十分この絵を描きつづけていたい。外では出征兵士を送る日の丸の小旗がふられていた。生きて帰ってきたら必ずこの絵の続きを描くから、モデルの恋人にそう言い残して戦地に発った。しかし帰ってはこれなかった」ーー本の帯に書いてありました。
(2006年8月12日)

(31)思えば遠し・・・・見るかげなく

     夕涼み 月見て思う 遠き友

 これは、私が小学六年の夏休みの終わりにつくった俳句です。

 中学生になると、

     見ていたい 花火見ている 君だけを

 どちらも新聞に掲載(但し、後者は、先生の手が入っています)していただき、その時はうれしいような、半分恥ずかしいような、複雑な気持ちでした。

 高校三年生の時、ある週刊誌の「替え歌大会」という企画に応募したのがたまたま一位になり、びっくりしたこともありました。

 この替え歌の話ですが、もう五〜六年、いや十年くらい経つでしょうか、白井市の依頼を受けて「講演」をさせていただいたことがあります。テーマはなんと「賢い女性の働き方」。「すごいテーマ! 私の方が聞きたい!!」と思ったことでした。このテーマの仕掛け人が「千葉ニュータウン新聞」の小田隆造さんだったということは、後で聞きました。

 今思えば赤面するばかり、穴でもあったら入りたいくらいですが、その頃は若さと恐いもの知らずでお引き受けしてしまいました。

 講演会途中の休憩時間、ちょっとしたお遊びのつもりで黒板に件の替え歌を書き、皆で一緒に歌ったのです。

 この時出席して下さった方から先日お手紙をいただきました。ご主人の転勤で海外をまわり、やっと帰ってこられた、その方のお手紙には、今でもあの替え歌をうたっていますとあり、とても懐かしくなりました。

 では、お待ちかね、問題の替え歌をご紹介しましょう(一部ですが)。

 本歌は「故郷の空」、夕空晴れて 秋風吹き 月影落ちて鈴虫鳴く 思えば遠し故郷の空 ああ我が父、母いかにおわす

 皆様よくご存じの歌ですね。これが私の手にかかると、

   おっぱい垂れて
     見るかげなく
   頬っぺた落ちて
     虫歯ばかり
   思えば はるか
     娘の日々
   ああ わが乳(父)歯歯(母)
     いかにすべき

 今は、まさに歌のとおりの風貌であることを認めますが、その頃は何しろ「十代の娘が作った」ということで、チョー話題になったものです。

 信じられないでしょうが、その頃の私はなかなかのボインちゃんで、セーラー服の胸のポケットに定期入れが入らなかったのです、エヘンッ。

 その後もいろいろ挑戦しました。フジTVの「三時のあなた」にも生出演し、オーケストラをバックに奥村チヨの「終着駅」を「女の終着駅」として歌ったりしました。この時は、森光子さんも横に並んで一緒に歌ってくれました。

 思えば遠し・・・・、良い時代でした。
(2006年9月9日)

(32)秋刀魚に寄せて

 空があまりに青く気持ちが良いので、歩いてスーパーに行こうと決めて出かけました。途中、畠のそばを通りかかると、秋草の揺れるがまま身をまかせて、動こうともしない老いた「かまきり」を見つけました。若いころは目にもとめなかったこんな光景に、今は足も心もとめてしまう私・・・・。少し離れたところにかわいい花をつけた草を見つけたので、「せめてあの花のそばに移してあげようか」と思いましたが、「いやいや、そっとしておきましょう。自然のままがいいのだから」と、その場を離れました。

 スーパーに行くと、ちょうどタイムサービスでサンマがたくさん並べられていたので、今日はサンマの塩焼きにしようと、四匹買いました。

 まな板の上にサンマを並べ、そのスタイルの良さに眺め入っております。すらりと伸びた姿態、細くシャープな口もと、銀色に輝いているお腹まわり、「何と様子がいいのでしょう!!」と、東京山の手の上品なご婦人ならおっしゃることでしょう。

 今日はカンテキ(コンロ)で焼きたいなぁ。素焼きしたような素朴なカンテキの上に金網をのせて、ジュウジュウと音をたてながら、もうもうと煙を出して焼くのが一番おいしい焼き方です。外へ出てこうして焼いていると、必ずご近所から大根が届けられるというのが、子供の頃の光景でした。

 佐藤春夫に「秋刀魚の歌」という有名な詩があります。

    あわれ秋風よ
      情(こころ)あらば 伝えてよ
        男ありて 
          今日の夕餉にひとり
        さんまを食(くら)ひて
          思いにふける

 この書き出しだけを読むと、何か侘びしい男やもめが貧しい食卓にサンマを食いつつ来し方、行く末を思いやっている詩のように読めますが、

   さんま さんま
      そが上に青き蜜柑の酸(す)をしたたらせて(以下略)

 この詩を書いた頃、春夫は谷崎潤一郎の妻・千代と恋仲にあり、ここに詠われている情景は夫潤一郎のいない小田原の谷崎邸で千代とその小さな娘が春夫と夕餉の団欒をしていた、その折りのありさまなのでした。

 その後春夫は谷崎夫妻と一切の交わりを絶つのですが、千代に対する思慕の情はむしろますます募っていき、彼に幾多の恋愛詩を作らせる原動力となりました。

 下世話な魚を見事な詩情に転じてみせた春夫の手腕はさすがですが、よく考えるとそれが下世話であるからこそ、この寂しい、温かい詩情が得られたのでしょう。これがサンマじゃなく、鯛や平目ではこうはいかないでしょうね。
(2006年10月14日)

(33)北海道を元気にした 日本ハムの優勝

 関東はジャイアンツファンが多くて、そのせいかこのところ元気がありませんね。でも、北海道はスゴイのです。私の古い友人たちはいま、日本シリーズに燃えています。

 先日も「見てくれてた? 日ハムの試合、稲葉がホームラン打ったのを!」と電話の声も興奮気味。札幌ドームに日参している彼女は以前、札幌テレビで一緒に出演していた仲間で、年齢は六十代後半というのに、誰はばかることなく「稲葉・命!!」を宣言して回っています。

 「内野席の最前列から、イナバさ〜ん!!とあらん限りの声で叫ぶと、届くのよ」と、うれしそうに話します。肝臓を悪くして、入退院を繰り返していたのに、元気になってきているのです。きっと稲葉さんから元気をもらっているのでしょう。

 白状すると、私も新庄さんのファンなんです。何をしてもかっこいい、笑うと歯が真っ白できれいです。阪神にいた頃からのファンですが、アメリカから帰ってきてから一層好きになりました。ふつうの選手なら恥ずかしくてできないような格好も新庄なら似合うのです。

 以前、転勤で札幌にいた昭和四十年代は、野球といえばみんな巨人しか知らなくて、円山球場にも何度も行きましたが、女性のお客さんはほとんどいませんでした。

 それがどうでしょう。今年の日本シリーズなど観客席の半分は女性という感じで、驚きです。それも友人たちのような中高年のにわかファンが多く、みんな引きつけられるように球場へ足を運ぶのです。これには新庄さんの力が大いにあると思います。

 こつこつとお客さんを集める努力をしてきましたし、それとファンの後押しがあったとはいえ、チームを一つにまとめる力も偉大でした。今、それらが見事に実を結んだのです。今夜も、シリーズ第五戦を見て、ドームのファンの彼に寄せる熱い熱い応援ぶりに確信をもったことでした。

 四十四年ぶりの日本一、その瞬間ドームは揺れ、道内は熱狂。チームを支え続けたファンは惜しみない賛辞を送りました。素晴らしい日ハムドラマ≠ナした。

 拓銀がつぶれて元気がなかった北海道では、久方ぶりの快挙です。北海道が元気になりました。経済効果も大きいと思われます。居酒屋さんが生き返り、ススキノも活気が出ています。札幌テレビの彼女に夜遅く電話したのですっが、電話に出たご主人はただ笑っておられるだけ。どうやら、彼女は祝杯をあげるのに忙しく、電話に出られる状態ではなさそうです。
(2006年11月18日)

(34)何が、子供は天使≠セ!

 とうとう一枚きりになってしまった月めくりのカレンダーが何とも頼りなげにつり下がっています。

 この一年の早かったこと、驚きです。皆さんはいかがですか? 十代で感じる一年を一≠ニすると二十代は二倍、三十代は三倍早く感じるのですって。

 「どうして?」「それはねぇ、忘れるのですよ」と言われてびっくり。十代はその日あったことなど、克明におぼえているのに、六十代になると、ほとんど忘れてしまってほんの少ししかおぼえていない。それで早く感じるのですって。

 そういえば子供の頃の一日は長かったですねぇ。歳をとると一日も短いです、納得・・・・。

 さて、先日買い物に出かけた時のことです。エレベーターに乗り、ドアを閉めようとした時、三歳くらいの可愛い女の子が走ってきたので、あわてて「開」ボタンを押して待ってあげると、女の子、大きな声で「ママ、早く早く、ばあちゃん一人よ!!」と叫んだのでした。

 「えっ、ばあちゃん!?」と、一瞬言葉もなく、冷たい風にのどをつまらせました。そりゃ、ばあちゃんには違いないのですが、でも人間、本当のことを言われるほど、傷つくことはありません。

 がっくりと肩を落として、家に帰りました。「何が、子供は天使だ!」とつぶやきながら。

 家にたどりつくと、ちょうど電話。今しがたの出来事を話すと、大阪弁で「腹立つやろ、首しめたろかと思うやろ!」と。「思えへん、思えへん!!」と大笑いしたおかげで気分回復。

 後日、白井の友達に話したら「おもしろい、そのことを新聞のエッセイで書いたら」ですって。私のネタのことまで心配してくれる友に感謝です。そういえば、今年の夏はじめて電話を下さった、西白井の町内会の役員さんからも「盆踊り見に来ませんか。沖縄の人たちがライブをやります。見るだけで元気が出るし、エッセイのネタになりますよ」とのお誘いを受けたこともあり、皆さん、気にかけてくださってありがたいことです。

 最後に、この一年読んだ詩のなかで一番好きな、心にズシンと来た詩をご紹介します。

 買いたいもの    園部啓子 53歳

   答えが「ぬいぐるみ」なら
     「チョコレート」なら
       ほほえんでうなずけるのに
   カブールの少女は
     「平和」と言った
       「買いたいものは」と聞かれて
          そう答えたという
(2006年12月9日)

(35)「いいね」「いいね」は元気の素

 お年始まわりのように、庭に舞い降りてきた小さな訪問者「初雀」。

 今朝の雀はいつもと違う感じで、ふだんあんなに喧しくさえずっていたのに、どこか神妙で、物静か。

 心なしか身繕いして、羽にも艶があり、少々気取っているようにみえます。一段とちんまりして可愛らしい。

 新年を迎え、控えめなさえずりに新しい心意気が感じられ、清々しい。踊りもアレンジしてすごく楽しげ、フラダンスも取り入れているようです。夢を振りまいては啄んでいます。平和なお正月、うれしい限りです。

 昔、むかしのお正月は、長い袂のおべべを着せてもらい、おつむには大きなリボンをのせて、畳表のこっぽり履いて、祖母とお宮さんにお参りに行ったものです。

 大勢の人で賑わっていたので、祖母の着物の袖をしっかりつかんではぐれないよう気をつけながら、いろんなお店を見て・・・・。

 うーんと小さかった頃、そのようにしっかり握りしめていたのに、いつの間にか全然知らない人の袖を持っていて・・・・。ふと上を向き顔を見たとたん、びっくりして大声で泣きわめいたことがあります。子供心にも恐ろしい思いをしたので、それ以後は特に気をつけていました。

 皆さんは初詣に行かれましたか? 今年は何をお願いされたでしょうか。

 先日、ケアサービスの仕事をしている友達が「ありがとう、よくやってくれているよ」と言われて感激した話をしていました。

 「今まで主婦をしていた時には、夫はまったく褒めてくれなかった。この仕事をするようになってから、ようやく自分のしてきたことが報われる思いがする」と、目をうるませていました。

 私もじんわり涙が流れてきました。

 このコラムを読んでくださった、いろんな方から「読んでるよ」と声をかけていただくのがとてもうれしいのですが、ただ人間というのは欲張りなもので、「たくさんの人が、どこかで読んでくださっている」という漠然とした実感だけでなく「目の前にいる人から直接評価してほしい」気分になることがあります。

 やって当たり前という仕事ばかりでは元気になれません。いろんな場所で「いいね」と言ってもらえる経験を積み重ね、そして私もたくさんの人に「いいね」と声をかけてあげる人でありたい。

 「いいね」「いいね」は元気の素。今年はこう言えるようがんばります。どうぞよろしくお願いします。
(2007年1月13日)

(36)干し芋からほどけていく思い出たち

 先ほどから寝そべって、干し芋を食べながら本を読んでいて、ガブッと思いっきり頬っぺたを噛んでしまいました。思わず、痛いッと飛び上がるほど。

 血が出てきて止まりません。水で頬っぺを冷やしながら、だらしなくしていたからだと反省しつつ、下から出る血が下血≠ネら、上からのそれは上血≠ニいうのかなあ、などとバカなことを考えたりもしています。

 スーパーの棚に干し芋が並ぶ頃になると思い出すことがあります。

 以前福岡にいた頃、RKB毎日放送で五木寛之さんと対談させていただいたことがあります。終わってお茶をごちそうになっていた時、突然五木さんがバッグの中から、茨木の干し芋を取りだし、「僕の大好物なんだ」とおっしゃるので、「私も好きです。鹿児島のお芋が一番ですよ」と言いながら、五木さんのお芋をいただきました。

 今、朝の連続ドラマが佳境に入っている「芋・たこ・なんきん」とは、大阪の女性の好きなものの代名詞ですが、私の大好物でもあります。

 原作者の田辺聖子さんは私の先輩、おもしろくて、大好きな人です。彼女が通っていた「大阪文学学校」には、私も通っていて、田辺さんはじめ、開高健さん他、才能あふれる人がたくさんおられました。入学試験は小説を書かなければならず、授業も高度でした。

 連続ドラマに出てくるお料理の指導をされているのは、私の料理学校の先生だった故土井勝先生の奥様の土井信子さん。この方からも私はとても可愛がっていただいたので、毎日なつかしくドラマを観ています。

 昔、年頃の娘は洋裁と料理は絶対習わねばならない必須科目でした。親に厳しく言われて、皆習っていました。私はサボっていたので、どれも身についていませんが。

 料理学校で思い出すのは、落としぶた≠フことを「豚肉を上から落として入れる」ことだと思っていた生徒がいたのです。皆でびっくり、そして大笑いでした。

 また、誰かが「ヴィヴァルディの四季って、誰が作ったの?」と言い出して、皆でしばらく真剣に考えたこともありました。

 ・・・・毎朝いろんなことを思い出しながら、テレビの前に座っています。
(2007年2月10日

(37)「菜の花忌」に

 二月十二日は、作家・司馬遼太郎の命日です。彼が好んで植え、眺めた菜の花にちなんで「菜の花忌」といわれています。

 この日、やっと思いがかない、東大阪市にある司馬遼太郎記念館に行って来ました。大阪駅から環状線に乗り、鶴橋駅で近鉄奈良線に乗り換え、「八戸の里」駅で下車、歩いて八分のところにあります。

 ちょっと寄り道しますが、環状線でおもしろい駅名があるのでご紹介しますネ。「桃谷(ももだに)」と「玉造(たまつくり)」という駅名です。千葉に移り住んでから、あるお酒の席で紹介したところ、男性陣「おもしろい!!」「色っぽいのが気に入った!!」とバカ受けしました。

 話を戻します。

 記念館に行くと、案内してくれた弟夫婦の名前が「記念館建設にご協力いただいた方」として、銅板に刻まれています。建設の際、募金を呼びかけたところ、八千人を超える個人や団体が協力したそうで、八戸の里に住む弟たちも募金に応じたようです。

 入口からずーっと道順のように菜の花が咲いていて、庭は司馬遼太郎が好きだった雑木林のイメージ、書斎の前にもずらりと菜の花が植えられています。

 書斎は庭に面しており、机は、ちょっと斜めになって原稿を書く主人の癖に合わせて緩やかにカーブを描いています。地下一階のフロアが展示室ですが、これがまた圧巻、高さ十一メートルの壁面いっぱいに書棚が取りつけられ、二万余冊もの蔵書が展示されています。とにかく、玄関、廊下、書斎と、家の中は本であふれています。

 見るだけでなく、この空間では司馬遼太郎と作品との対話、あるいは自身との対話を通じて何かを考える、そんな時間を持っていただければ、とボランティアの方が力説されていました。

 帰りに一人一人に菜の花をプレゼントしてくれるのも、心憎いもてなしでした。

 司馬遼太郎がよく通ったという喫茶店にも寄りました。「子ども連れは入られへんのよ。静かにせんと注意されるからネ」と、義妹が解説してくれます。

 窓からは道路をはさんで、スーパー西友が見えます。「午後三時頃行くと、いつも奥様と歩いておられ、あいさつを交わしているうちに仲良しになってね」と、義妹は懐かしそうに話してくれました。
(2007年3月10日)

(38)憂いを含んだ美しい女性が二階に

  別れの日、振り向くと
    桜が咲いていました。
  出会いの日、見上げると
    桜が咲いていました。
  別れと出会いを繰り返しながらも
    「桜のように」と
  前を向きました。

 花便りが新聞に載りだすと、何となく浮き足だってきます。日本の春には、桜が欠かせません。入学式の時期はどこの学校でも桜が満開で、お花見の名所では夜遅くまで宴が続きます。

 「枯れるまで染井吉野と呼ばれたい」と、以前書きましたら、その後もずーっと覚えて下さっている方がいて、桜の頃になるとお便りを下さり、元気づけられます。

 時間だけはたっぷりあった学生時代、河原の土手で寝ころび、満開の桜の木の下で軽い文庫本などを読むという楽しみがありました。お金のなかった時代、新刊は高いが文庫ならお小遣いでも買えた上、必読の名作が揃っていたのでせっせと読みふけったものです。

 時々難しい昔の古い字が出てきたこともあり、昔の小学校(尋常高等小学校)しか出ていない母によく聞いたものです。母は覚えやすいように教えてくれました。たとえば「親」という字は「木の上」に「立って」「見る」、それが親だと。その他いろいろ教えてもらいましたが、いちばん心に残っているのが「櫻」という字です。これは「二階の女が気にかかる」と覚えたらいいよ、と。「櫻」は二つの貝≠ニ女≠ェ木<wンにかかっているというわけです。

 この覚え方を知ってから「櫻」という字に、なんとなくなまめかしく、華やかなイメージを感じるようになりました。「憂いをふくんだ美しい女性が二階にいらっしゃる」などと想像してみたり・・・・。

 でも今使われている「桜」という字体では、そうは参りません。

 「櫻」は意味を表す木≠ニ、発音を表す嬰≠組み合わせた漢字です。嬰=Aつまりツクリの部分を草書体でくずして書いた形を楷書にしたのが「桜」です。でも、この「桜」では、二階にあのきれいな女の人は居ないのです。いったいどこへ行ったのでしょうね!?
(2007年4月14日)

(39)老舗の見事な気配り

 朝、新聞をとりに行くと、門にビニール袋がつり下げられていて、太い竹の子が二本。「わあーっ、初物だー」と大よろこび。

 早速糠を入れて茹ではじめる。やがて竹の子の良い香りが・・・・。「ああ、この匂い、京都の・・・・」と思い出していました。

 ずいぶん前になります。大阪へ里帰りした時、中小企業の女社長をしている友人が、「今日一日は私につき合って」と、京都へ連れて行ってくれました。

 四条通りから八坂神社、円山公園と歩き、「ねねさんのお寺」の近くに来ると、何となく懐かしい良い匂いがしてきました。二人は顔を見合わせ、思わず声を揃え「竹の子を茹でてる匂いやねぇ」。

 彼女はつづけて「これはたっぷりの糠でしっかり茹でてる匂い、きっとお料理もおいしいはず。行こう!!」と、食い意地の張った二人の鼻が探し当てたお店へ。

 しかし、営業時間外で、Tシャツにジーンズ姿の娘さんが桜の花を生けています。「お食事させていただけませんか」とたずねると「散らかっていますが、どうぞ」とお座敷へ通されました。

 見事でした。

 床の間のお花をはじめ、トイレのすみずみまで、細かい神経がゆきとどいています。お料理も、たとえばうすい鯛のお刺身が大皿いっぱいにきれいに並べられていて、一つ一ついただいていくと、下には桜の花びらがびっしり敷き詰められているなど、どのお料理にも板さんの心意気が表れています。

 その上、間≠ェよくて、ちょうど食べ終わった頃を見計らうかのように、次の料理が運ばれてきます。

 すっかり気分を良くした友人、お酒の勢いもあってか、ついには女中さんに向かって「あんた、ここでどれくらいもらってるの知らんけど、しょうもない所で働くのやったらここで修行させてもらったらええ。おかみや板さんの顔は知らんけど、この店やったらええ! これだけの雰囲気、内容、どれをとっても見事や。ここでがんばったら、きっと成功するで」

 その子は笑って聞いていました。

 やがてお勘定して、お店を出ようとしたら、品の良い女将が出てきて、「今日はありがとうございました。こんなうれしい日はございません。初めてのお客様にこんなに言っていただいて」とお土産を持たせてくださいました。

 私たちは知らなかったのですが、有名なお店らしいのです。「和久傳」という。

 ジーンズでお花を生けていたのは娘さんで、後で髪をきりりとアップにして、和服姿であいさつに来てくださいました。
(2007年5月12日)

(40)爛熟の味わいをむさぼる
 「一番好きな果物は?」と聞かれたら「桃」と答えます(とはいっても、「宮崎のマンゴー」だけは別格ですが)。

 子供の時の「ひと夏の経験」ですが、お友達の家へ遊びに行くと桃が出てきました。爪楊枝のささった削ぎ切りの桃が山盛りのお皿を目の前にして、あっという間に食べつくした後、家に帰るとまた食卓に同じ山盛りのお皿が出てきて、それもまたたいらげて・・・・。どういうのか、桃はいくらでもお腹に入る果物でした。

 しかし、そんなありがたい時期は長くは続きません。戦争が終わり、疎開先の岸和田から大阪市内に引っ越してきてからは、今までどんなに贅沢なことだったか、身に染みて知り、その後は押し頂いて食べるようになりました。

 そもそも桃は産毛の生える肌といい、そのフォルムといい、色合い・食感といい、色っぽいこと格別です。熟れてじゅるじゅる果汁がしたたる実は、喉の内側を通る時の果肉のつぶれ方にも、唇の脇からこぼれて、おとがいを落ちる果汁の流れ方にも、あまりにも分かりやすい罪深さがつきまとう。

 飲み込むのにあまり咀嚼しないですむところに努力しないでいいというか、気怠さがあってそれが人の心を甘美な堕落へと誘うのではないでしょうか。さらには、その果汁のふんだんさ。爽やかさとは逆の、とろりとした意味深な甘味・・・・。

 歯ざわりのいい林檎が少年で、すっぱくて甘い苺が少女なら、桃は有閑の年増といった風情をぬぐいきれないから、「あぁいけない、いけない」と思いつつ、むさぼるように頬張って食べるのが桃にはふさわしいような気がします。

 一方、桃は穢れを祓う力も持っているそうです。黄泉の国に入っていったイザナギが腐り果てた妻のイザナミに会って逃げ帰る折り、死霊の追っ手を払うために桃を投げて応戦したと聞いたことがあります。

 並んだところは果実の宝石と呼びたい桃をいただきながら、今年の夏もまた、自分とは最も縁遠い、色っぽさというものに思いを馳せる私めであります。
(2007年6月9日)

(41)季節の中で

 最近は世界中が異常季節のように思われます。季節が季節らしさを失って異常になると、つくづく季節がごく自然にめぐっていたノーマルな時代がなつかしくなります。

 夏は暑いに越したことはありません。夏が暑いからこそ「一杯のかき氷」に幸せを感じ、すだれを吹く風の涼しさに「あぁ極楽極楽」と思うのです。

 去年のはじめ「枕草子」を読み返してみて、そこに書かれていたのは四季折々の生きる歓喜といったものだと思いました。そしてそのことを、この「元気にな〜れ」で書き、そうそう「春はあけぼの」で始まる春の頃でした。また、いつか続きを書きます、といってそのままになっていたら、読者の方から「いったいいつになったら書いてくれるのですか?」と言われ、「そうでしたねぇ、申し訳ない」とお詫びして、少し書くことにしました。

 学生時代よく読まされましたが、清少納言が生の歓喜にこれほど陶然と酔いしれている人であるとは考えたことはありませんでした。

 彼女の心をときめかせる夏の風物は「夜」「月の頃」なんです。闇の中を飛ぶ蛍の華麗なはかなさは、どんなに彼女の胸に染みたでしょうか。

 また、秋の夕暮れの空を仰ぎ、鴉が水平に飛んでゆくのを「みつよつふたつなどとびいそぐさへあわれなり」と見つめている心は、まるでマーラーの第三番の哀傷深い終楽章が消えてゆくような感じさえします。

 清少納言は知的な才女といわれていますが、四季の折々に自然と人事がもたらしてくれる生の楽しさを、おいしい飲み物のように味わっています。知的であるよりは微妙な感じ方を楽しむ感性の人であることが分かってきます。

 一見自分の好き嫌いで「をかし」「わろし」と書いていますが、それは価値評価ではなく、喜びがどんなものに強烈に感じられるかの告白と見られるべきでしょう。

 季節の移り変わりを、あたかもスクリーンに映る美しい映像のように眺めた日本人の心の豊かさを書きたかったのだと、今は思えるようになりました。春夏秋冬に訪れる季節の気配を「こよない良い贈りもの」として受けとめる心があれば・・・・。

 思えば、私たちも「季節」の中にいると自覚することで、どんなに日々の無感動な惰性的生活から救われていることでしょう。

 つまらないオマケを書きます。昔、桃屋のCMで三木のり平扮する江戸むらさき式部≠ェ机に向かって原稿を前に『私、お腹がすくと何も書けないのです』と言うのがあって、「私も同じよ!!」と喜んだことがありました。清少納言というと大納言というおいしい小豆を想い出し、とたんに小豆のあんこが食べたくなり、今コトコト煮ています。
(2007年7月14日)

(42)靖国神社直行

 今年も八月がやってきました。原爆と敗戦の月、また戦没者慰霊の悲しみの月です。今、戦争のない平和な日々が続いていますが、いろんな人たちの尊い犠牲の上に今日があることを忘れてはなりません。

 私の心に残っているお話を二つ書かせていただきます。

 以前私は「暮らしの手帖」の熱心な愛読者でした。昭和三十五年頃、この雑誌の編集長でいらした花森安治さんに伺ったお話です。

 ・・・・兵隊さんたちは一人残らず真鍮製の小判型の小さな札を持たされ、両端の穴にヒモを通して肩からじかに肌にかけていました。札には部隊記号とその兵隊の識別番号が乱暴に打ち込んであり、札は、風呂に入る時でも、どんな時でもはずしてはいけないと命令されていました。野戦では、風呂などめったに入れないから白い木綿のヒモはすぐにどす黒くよれよれになり、打ちこまれた数字にはアカとアブラがこびりついていました。

 戦死した時に身元を確認するためのもので、「認識票」というのが正しい呼び名でしたが、兵隊さんたちは「靖国神社のきっぷ」と言っていました。

 行軍に疲れた兵隊さんたちがきまって話題にしたのは、食べ物と家に帰る話でした。ここから日本へ帰るにはどうしたらよいか、大まじめで研究しましたが、いつもぶつかるのは海でした。陸地は何とかたどって行くにしても、朝鮮海峡までくると、それまで活気のあった会話がいつもポワンと切れ、皆黙り込み、疲れた足を引きずりながら「ああ、帰りたいなあ」と思ったそうです。

 そんな時です。ひょっと肌の認識票が意識されるのは・・・・。

 「靖国神社直行」、日本に帰る一番の近道にはちがいないわけです。

 ・・・・ある航空隊で同じ釜のメシを食った戦闘機乗りは、生まれたばかりの子供と対面する間もなく、フィリピン海戦での特効出撃を命じられた、せめてこどもの声だけでも聞きたい。

 上官の計らいでフィリピンの航空基地から日本に電話を入れることができた。が、妻の腕に抱かれた女の赤ちゃんは、おとなしく声ひとつたてない。妻はやむなく赤ちゃんのお尻をわざとつねって、赤ちゃんの泣き声を海のかなたの、まもなく死地に赴く若い父親に聞かせたという。

 ・・・・ここで、書けなくなってしまいました。

 戦争でいちばん悲しい思いをするのは、女性です。最愛の夫を、息子をとられるのですから!!
(2007年8月11日)

(43)カレーによるもの

 「私、目は近いけど、その代わり耳は遠いの」と言って、人を笑わせていた頃がなつかしい。
最近、冗談でなく、耳が遠くなった、とくに左の耳が聞こえなくなった感じがするので、思いきって病院に行って来ました。

 丁寧な診察のあと、先生は「カレーによるものですね」と、さらりとおっしゃいました。「えっ、カレー?」。加齢という言葉がすぐに思いつかず、キョトンとしている私に笑いながら「歳ですね」と。

 少し前までは、「老化ですね」と、言われたものです。

 「目の中に黒いものが飛んでるのですが・・・」「ひざが痛いのですが・・・」「腕が上がらないのです・・・」といったような時、どこの病院でもいわれたのが「老化ですね」だったのですが、最近は「加齢ですね」に変わってきて、そう言われると、何もいえなくて納得してしまうのです。

 本紙に広告を出してくださっている先生、「吉川さん、いつも読んでいますよ」といわれ、顔が赤くなりました。

 結局、加齢によるもの≠ネので、しかたなく帰ってきたのですが、後から、どうして先生に言い返さなかったのだろうと、悔しい思いをしました。「先生、左の耳が加齢とおっしゃったけど、右の耳も同じ歳なんですよ」と。

 これからは「加齢」にも慣れていかなくてはならないでしょうね。開き直って「加齢現象にどっぷり浸かってやろうじゃないか」といえたらいいでしょうね。

 歳をとって、何か良いことあるかしら、と考えてみました。

 ありました!

 ものに驚かなくなります。「大丈夫、なんとかなるさ」とたかをくくることができます。

 ものに執着しなくなりました。生きてきた時間よりもこれからの方がはるかに短い。楽しいことはやっちゃえと、積極的になります。

 優しくもなります。が、耳鳴りがはじまった向こうで夫が何か言っています。今は聞こえないふりをしておこうっと。今日の私は機嫌が悪いのだ。

 さて皆さん、「若返りの泉」をご存じでしょうか。

 ベルリンの国立絵画館にある絵なんですが、この絵の前にくると、皆必ず立ち止まって、ニヤリとします。

 十六世紀ドイツの画家、ルーカス・クラナッハが描いた絵で、森の一角に老女たちが夫に背負われたり、干し草車で泉に運ばれてきます。しばらく水浴すると、だらりとした乳房が盛り上がり、しわだらけの肌がつるりとなり、白髪が金髪になるのですって。こんな泉に足の先から頭まで、どっぷり浸かってみたいです。

 今までの歳月で育てた分別はそのままで、肉体だけ永遠に若く、美しくありたいと願う私です。
(2007年9月15日)

(44)感動を呼ぶマナーとは?
 「ビールは飲みはじめがうまいように、私は秋が始まったばかりの数日が好きである」――これは、草柳大蔵さんの文章の一節ですが、いまはちょうどそんな季節の頃合いじゃないでしょうか。この夏のすさまじい炎暑が長く続いたあとだけに、なおさらそんな感じがします。

 季節の変わり目、いろいろなお誘い、おいしい案内がとどきます。

 なかでも一番うれしかったのが、白井に住んでいた時のお隣の坊やからの、結婚式への招待状でした。ワンパク坊やで足など細く、黒く、まるで棒のようでした。あの子がと思うと、よろこびもひとしおです。少々気が重いのが「マナーについて」というスピーチの依頼です。「さて、何を話そうか」と、頭をかかえていて、ふと思い出したのが、数年前ある年配の女性(Aさんとしておきます)から聞いた話です。

 女性なら訪問着で出席するような華やかな席で、数人の女性が不穏な空気を漂わせながら、ひそひそ話をしています。声を押し殺しての会話なのに、ただならぬ空気が会場の隅々まで伝わってきます。

 「気づいてた?あの人の着物の打ち合わせ、逆なのよ、逆!!」

 教えてあげるべきか、見て見ぬふりをしてあげるのがマナーか、ひそひそ話が止まない中、Aさんは、困るのは当人であり、周りの者がわざわざ人を呼び止めてまで話題にするべきではないと考えていました。しかし、問題はこの後記念撮影が予定されていて、残酷にも決定的な証拠が残されてしまうことでした。

 誰もが固唾を飲んだ、その瞬間、件の女性の身体を半分隠すように立った人がいたのです。みんなの話の輪に入るでもなく、終始一人で隅にいた初老の男性でした。単なる偶然とも考えられますが、この男性は時々にこやかに問題の女性に声をかけていたようです。

 この男性の振る舞いを見ながら、Aさんは一人恥じていました。誰かのマナー違反を目にして、注意してあげるべきか、黙っているのがマナーかばかり考えている人たちの中で、さりげなく話題を変えるなどの配慮ができなかった、自分のマナー違反≠。

 「マナーを心得ている人たち」は、着付け直しが不可能な場所では、他人のミスを指摘しないことがマナーだと考えたのでしょうが、でも実際に皆でひそひそと話題にしてしまった時点で、それはすでに糾弾になってしまっています。

 本当は、一人一人が胸の内にしまい込み、最後まで口に出さないのがマナーなのではないでしょうか。欲をいえば、初老の男性のように、彼女の粗相を本人にも気づかれずに、さりげなく隠してあげることができれば、まさに人の心をふるわせることのできるマナーといえるでしょう。
(2007年10月13日)