中里智子

<1> なぜ自然農を始めたか <2> 眩しいほどの精気が漲る、生命の始まりの季節
<3> 豊穣の時に向かう 野菜、ミミズ、微生物たち <4> 「始末」ということば
<5>  種の力  <6>  冬支度 
<7>  季節に導かれて  <8>  循環について 
<9>  手作業から見えてくるもの  <10>  脱石油!考 
 

<1>なぜ自然農を始めたか

 できる限り草をとらない、肥料をやらない、耕さないという、いわばありのままの自然を生かして作物を育てる方法で野菜などを作り始めて、はや10年余りになる。

 多少の紆余曲折もあったり、必ずしも順調というわけでもなかったが、そんな条件の中でも元気に育つ、さまざまな野菜の姿を前にすると、感動と喜びがあふれてきて力が沸いてくる。

 とはいえ、よけいなことをしないのだから、別名「手抜き農業」とも言える自然農(私自身は、大胆にも「高齢化社会向き農業」と思っている)、実はたくさんの命に支えられている。なかでも、ミミズはまさに縁の下の力持ちだ。刈り取ってはその場に置いた草を見事に豊かな土に変えてくれる。おかげで畑の土はフカフカだ。草は草で土壌の乾燥を防いだり、流出を止めてくれる。大雨でも水たまりができない等、想像以上の役割を果たしてくれている。

 こうして周りの自然に支えられていることを実感できることは、この上ない喜びでもあり、自ずと感謝の思いも深まる。

 そもそもなぜ自然農を始めたかというと、深刻化しつつあったさまざまな環境問題の実態を知ったことや、日本の食糧自給率の極端な低さに驚いたこと等も、動機の一部ではあったが、実はさらに深い本能的かつシンプルなところで、自然とのつながりを求めていたからのように思う。

 この約半世紀、ほとんどの人がより便利で快適な生活を夢みて、「より多く」のかけ声とともにひたすらお金と物による豊かさを追い求めてきた。それは大量生産、大量消費、大量廃棄というシステムの大きな波となって押し寄せてきて、その波のうねりに呑み込まれて、私も多くの物に囲まれて生活しているのだが、ついぞ心の充足感を覚えたことはなかった。

 なのに今、畑に立つと何もないのに心は満たされてゆく。

 たくさんの命とのつながりを実感できることが、生きている喜びを取り戻させてくれる上、ともすれば肥大化しそうな欲望を等身大に戻してくれる。不便であることが楽しさに変わる瞬間を味わえるのも、そんな空間にいる時である。「より多く」ではない方向に、かけがえのない喜びと豊かさの可能性があるのかもしれないということを、自然は教えてくれている気がする。それも静かに淡々と、そして時には大胆に。

(月刊 千葉ニュータウン2005.2.12)

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<2>眩しいほどの精気が漲る、生命の始まりの季節

 畑のいたるところで、草や野菜が顔を覗かせている。昨年それぞれにこぼれ落ちた種が元気に芽を出してくれたのだ。無闇に耕さない畑はまるで生き物たちのゆりかご。周囲の木々も次々と若芽を出したり、花を咲かせている。生命の始まりの季節は眩しいほどの精気が漲る。

 日ごとに北上する桜前線が、国内各地の春の訪れを知らせてくれるようになって久しいけれど、この時節、桜に限らず自然界に息づくあらゆる生命が、日ごとどころか一瞬一瞬変化の中にある。そのように一瞬たりとて同じ状態にあらずというのが自然の本来のあり方であろう。そのことを改めて実感させてくれるのが、たくさんの生命が躍動を始める、二十四節気でいうところの「清明」のまさに今なのだ。そして自然界に存在するものは等しく、自然のリズム(法則とも言える)の中に組み込まれいるという事実も、素直に受け止められる。

 そんな行く春を満喫したいところだが、どっこいこの時期そうも行かない。畑の準備や種まき、苗の植え付けにと何かとすることも多い。でも考えて見ると、それらの作業が出来るのも春の光と土と水等の条件が整ったからこそのこと。案外深く味わっているということかも。

 さてその春の作業の様子が大分変わって来ている。種まきひとつとっても、様々な農業用資材の力を借りてかなり早めになっている。もちろん植え付けも同様に。かつてはその土地の気候風土の中で、季節を迎えれば現れる自然現象等を目安として、様々な作業をしていたと聞く。が、“便利”な資材の出現は、随分状況を変えてしまったようだ。そこには“より早く、効率的に”と考える人間の都合も加わってのことだろうけれど。

 そんな中、自然農の畑はあくまで自然のリズムの中で生命の営みが始まり繰り広げられる。どんなに「もっと早く!」と急かせたところで、光、土、水等の条件が整わなければ芽は出ないし、成長もしない。こぼれ種が芽を出し成長する姿がそれを教えてくれる。なのでそうして育った野菜等を、なるべくそのままにしている。学ぶことも多いし、未熟な私が手をかけた(過ぎ?)ものよりしっかりした大根や菜っ葉だったりもするのだから。

 特に、その逞しい根には驚嘆させられるが、そのような“自立した”野菜を育てたいと思う。そのぐらい生きる力の漲る野菜なら、刻々と進行している地球温暖化にももしかして生き延びてくれるかも知れないと思えて来たりして、温暖化の原因と解決は他のところにあることをわかりつつも、自然の知恵にゆだねたくなる時がある。

(本稿は、4月号掲載の予定でしたが、編集の都合で今号に繰り延べました。季節の話題が若干ずれている感じがするかもしれませんが、ご了承ください)

(月刊 千葉ニュータウン2005.5.14)

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<3>豊穣の時に向かう 野菜、ミミズ、微生物たち

 いよいよ梅雨入りの頃を迎えた畑では、様々な野菜たちがそれぞれの場所を与えられ、豊穣の時に向かう準備についている。今後の気象がどのようになろうとも、ただひたすら受け止めてゆく力を秘めているかのように、まだ小さな苗でも逞しさを感じさせる。やがて夏から秋の食卓をにぎやかに飾っては、豊かな味わいとともに、感謝と喜びの思いをもたらせてくれることだろう。

 例年なら梅雨入りを心待ちするようなことはあまりないけれど、少々待ちわびるような日々が続いた。漸くの雨に、周囲の草木も野菜たちも一息ついた様子で、小さな苗も葉には大きな滴を乗せて、精一杯の姿だ。同時に地面の下の見えない部分でも、生命の営みにつながる自然現象が、ダイナミックに繰り返されていることも想像させてくれる。どんなに水やりをしたところで、雨にはかなわない。量的なことはもちろんとして、やはり雨には自然の循環の中で蓄えられた、何か大切な要素が含まれている気がする。科学的な説明は専門家に譲ろう。雨に濡れて生き生きしている草木の姿はそれを物語る。

 それでも自然農の畑では、野菜の株もとを刈り取った草や落ち葉たい肥等の有機物で覆っているし、土がむき出しのところも少ないので、かなり乾燥は防げている。

 だから雨が少なくとも、草の下にはミミズも微生物も健在である。ご存じの方も多いと思うが、肥沃な土では、一グラムの土に、およそ一億もの微生物がいるという。

 数えたわけではないが、土とかかわり始めて、生命を感じられる土とそうでない土との感覚がはっきりわかるようになったことで、それは十分納得出来る。その働きから言えば、微生物やミミズのような土壌動物もすめない土では、結果的に多肥料にならざるをえないし、それでは生きた土とは言えないだろう。そのことは、広葉樹の森や熱帯雨林のような、自然の循環のみで生命が豊かに育まれてゆくのを見ればわかることである。

 現代社会においては、人間の営みが自然の循環を断ち切ってしまうことが多いのだが、私も土と遠く暮らし生きていた頃は、その実感もあまりなく、自分のしていることの結果にも思いをはせることが出来なかった。でも今は畑の野菜たちや草木の生命とも、土や水を通して見えないつながりの中にいるのを実感できるようになったので、暮らしの中でも、台所から出る物の始末に始まり、少しでも循環の輪を切らずにすむようになったのはうれしい。

 いつの頃からか、たとえ僅かでも本来の生きた土を蘇らせることができたらと思うようになったのだが、それは、他ならぬ、生命の源であるガイア、母なる地球(大地)への感謝の思いが生じてきたからなのだろうか。

(月刊 千葉ニュータウン2005.6.11)

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<4>「始末」ということば

 ごくあたりまえのこととして、播かぬ種は生えないし、播いた種は刈り取らなくてはならない。その上ありがたいことに、ここでは播かずとも生えてくれるものたちもあって、この時期、畑のたくさんの生命は、訪れる者をじっといさせてはくれない。

 梅雨の頃から夏にかけて、驚異的な生命力で伸びてゆく草たち。さすがに野菜たちとの共存の為にはどうしても刈らざるを得ないので、他の作業とともに、滝のような汗を流しつつ草刈りの日々が続いている。一巡した頃にまた、始めた場所あたりの草が伸びている!という訳で永遠に続きそうに思えて来るが、ある程度作物が育つ頃にはその勢いも治まってくれるし、刈り取った草がまた大活躍してくれたりと、草刈りもきついだけではない。それどころかむしろ、草たちからエネルギーをもらっているような気がしている。というのも、殆どを手作業でしているので、いつのまにか雑草たちとも語り合っているのだと思う。

 手を伸ばせばどんな機械でも手に入る時代ではあるけれど、草刈りをはじめ、様々な作業を出来る限り手作業で行っている。手仕事のペースだと、いろいろなことが見えて来る。珍しい昆虫に出会ったり、こぼれ種から芽を出し元気に育つミニトマトやスイカなどの苗に感激することもしばしばであるし、ミミズや草や野菜たちと語り合っては生命の交流が出来る。また機械と違い、何と言っても体力には限界があるので、何かをやり過ぎるということを避けられるし、自ずと我が身の限界を知ることにもなる。

 そんなこんなで続けている手仕事、やはりその原点は、かつての日本で普通に営まれていた「始末のいい暮らし」というような、自然と調和したあり方の出来る「全うさ」への憧れではないかと思っている。

 とても残念なことだが、現在私たちが日頃何気なく使っている品々の断片が土に紛れていることがある。拾ってはいるが、もちろんそれで解決するわけではないし、もし機械だったらと思うと、想像に難くない。ほとんどの有機物は分解してしまうという自然界の“循環”をもってしてもどうにもならないものなのだ。さりとて、石油文明の落とし子は、便利な品々として生活のあらゆる場面で使われている現在だから、全く拘わりを持たないということは難しいことだが、そんなこともあって、以前よりは、使用に対する意識は変わって来ている。

 土に還らないものがあるという事実に直面することは、やがて、自分がどんな暮らしを、生き方をしたら、後に「つけ」を残すことがなくなるのかを考えさせてくれる。

 そんな時である、殆ど自然に還すことが出来るものに囲まれて、始末の行き届いた暮らしを細やかに営むことが出来た昔が、ちょっぴり羨ましくなるのは。

 「始末」ということばには、とても奥深いものがあるような気がして来ては、ますます惹かれてゆく。

(月刊 千葉ニュータウン2005.8.6)

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<5>種の力

 辺りに漂う木犀の香りが、例年の如く秋の記憶をにわかに呼び戻してくれる。けれど、秋を見つける楽しみの前に、「長い夏が終わった!」という思いが先立つのも仕方ない程、近年は毎年のように、各地で暑さの記録を塗り替えているが、それは畑にも影響して来ている。

 さて、夏の間絶え間なくその恵みを与え続けてくれては、食卓を豊かに、また疲れを癒してくれていた、たくさんの野菜たちも、ようやく一段落。収穫も朝夕だったものが、一日一回で済むようになった。そして次々と交代の時期を迎えている。それでも優に人の背丈を超えていたオクラ(熱帯地方原産の作物)は、成長もゆっくりになったとは言え、今でも花を咲かせ実を結んでいる。長く暑い夏は、故郷に帰った気がしたのかも知れない。

 この時期はどこも冬野菜に向けての作業も加わり忙しいはずだが、私にはもう一つ大切にしていることがあって、それは来年に備えて種を採ることである。今では随分減ってしまったようだが、かつては各地でそれぞれの農家が、様々な作物を自家採種しながら作り続けていたということである。当初から関心もあったが、何より種の不思議さや美しさに興味を惹かれ始めたので、我が身の未熟さは承知の上で、知人等から在来種や固定種の種を分けてもらい、数種類から始めてみた。その後数は増して、今では数十種類になっている。例によって自然農の畑では、こぼれ種により更新してもらっている種類もあり助かっている。

 時々、「それらの種の故郷はどこなのだろう」と思うことがあったが、長い旅路を世代交代を繰り返しながらここにやって来てくれたのかと思うと、神秘さを感じるとともに愛しく思えて来る。

 ところで、人間は他の地域から移り住み暮らしてゆくうちに、まあ例外はあるとしても、いつのまにかそこの風土に適応して行くようになるのだが、種もそのような習性があるらしい。とは言うものの、近年の激しい気象や温度の変化を思うと、今後も含めて適応しきれるだろうかと、ちょっと心配になる。明らかに種まきや収穫のタイミングも以前とは違って来ているのだから。それでも驚くような仕組みと本能を備え持つ種の生命力に触れると、生き延びる力を信じたくなるのだが。

 あらためて、近年の異常気象による各地でのあまりにも大きな被害を思う時、やはり考えるのは、地球全体に及ぶ程の気象や温度の激しい変化をもたらしている原因についてである。まあ現代のことだから、その変化に対応するために最先端の研究や技術による取り組みも可能ではあるだろうけれど、あくまでそれは一時しのぎでしかないとしたら。やはり、少しでも本源的な自然のしくみを知ることが、現在の状況をもたらした真の原因を理解することにもなり、解決のための真の方法も見いだすことにつながるのではないかと思う。さらには誰がするのかということも。我々人間だって自然の一部なのだから。そんなことを、この地に降り立っては、精一杯に育って行く野菜や草花が教えてくれている。

 それにしても、この夏の乾燥の中で、刈草を充分敷いたとは言え、肥料も与えてないのに、高く伸びた茎に大きな葉を乗せているサトイモの姿は、かつて東南アジアの島で見た光景と重なってくる。オクラといい、サトイモといい、故郷と勘違いする程の夏だったのだろうか!

(月刊 千葉ニュータウン2005.10.15)

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<6>冬支度

 落ち葉の季節を迎えていながらも、多くの落葉樹は枝に葉を留めていたが、ここに来て色とりどりの葉はにわかに舞い始めた。それもそのはず、いよいよ年の瀬となれば、遅れはしても冬は出番を待っているのだから。今年採種した種はすでに休眠に入っている。

 秋から初冬にかけての時節は、まさに「実りの時」を実感する日々が続く。サツマイモやサトイモ等、見るからに心身をほぐしてくれそうな根菜類、小さくてもその秘めたる力のなせる技か、豊かな気持ちにさせてくれる様々な豆たち。柿や柚子の色調は、頂く前でも元気を与えてくれている。大根や菜葉は、寒さに向かうなかますます生気を漲らせて行く。そんな数々の自然の恵みに囲まれていると、これまでの疲れ等は吹き飛んでしまい、ただ充実感や達成感とともに深い感謝に満たされる。それらは決してお金では得られないもののひとつだろう。

 ありがたい自然からの恵み、無駄にすることなく頂き味わい尽くしてあげよう。たとえ出来映えが一様でないとしても、利用の仕方や食べ方の工夫次第で味わい深くなったりもするのだから、人間の都合で切り捨ててしまうよりはるかに、たくさんの命に支えられていることの実感につながる気がする。

 さて、「実りの時」はまた、「冬支度」に追われる頃でもある。恐らくそれは、現代の生活では殆ど時間や労力を割く必要のなくなってしまった作業でもあろう。私も土と離れて暮らしていた時は、さほど必要とも感じなかったけれど、今は事情が違う。本格的な寒さの訪れる前に、作物の寒さよけや保存の為の作業等、かなりすることがある。もちろん自然農の畑では、冬野菜や小苗の株もとも、充分な敷き草やかわいい雑草たちに守られてはいるけれど、冬本番となれば必要なものもある。

 その冬支度も、かつての日本の暮らしにおいては、現代と比べようもない程に重要なものだったと思う。殆どの家で、一冬の食料やエネルギー(もちろん石油ではない!)を確保しておかなくてはならなかったのだから。取り分け寒さの厳しい地域の冬支度となれば、暖かい地で育った者には想像すら出来ない程のものかも知れない。ただその厳しい条件が、保存の為の知恵と工夫を生み、各地の食文化を育むことになった訳だから、現代の生活では味わえない豊かさもあったに違いない。昨今の様に冬の心配と言ったら、石油の高騰ぐらいで済む暮らしの中で、世界中から輸入された食べ物が目前に溢れるように並び、いつでも手に入るとなると、冬の備えといっても実感は薄らぐはず。でもその状況は、食料自給率40%、エネルギー自給率4%という数字(解釈に多少の違いはあるにせよ、どちらも主要先進国で最も低い!)が示す通り、本来の姿ではない。今後も気候変動の続くことを想うと、危惧を抱く人も少なくはないだろう。

 そんな状況を気にかけつつも、春夏秋冬、いずれの季節においても様々な自然からの贈り物を手にすると、感謝の思いに溢れ、ついそんな心配も遠のいてしまうのだけれど。四季折々移ろい行く自然の美しさに感動しながら、季節を味わい暮らして行く心地よさがそうさせるのかも知れない。そして、「四季」という見事なリズムが、自然からのすばらしい贈り物に思えて来るようになったのは、そろそろ人生を四季に重ねることが出来る程の年を迎えたということの証しでもあるのだろう。

(月刊 千葉ニュータウン2005.12.10)

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<7>季節に導かれて

 梅の古木の枝々を見上げる日が続いている。つぼみも少しは膨らんだとはいえ、この冬の寒さは、一輪ほども綻びるのをためらわせているようだ。

 厳しい寒さに加え、驚異的な豪雪に見舞われた地域の方々にとっては、雪解けの春を待つ気持ちもひとしおであろうかと思う。ようやく日の光にも春の足音を感じられるようになって来たのは何よりである。暖かな陽光は誰の心にも降り注ぐことであろう。

 この冬は、私もあらためて太陽のありがたさを感じる日々が続いた。凍てつく朝の寒気の中、ゆっくり太陽が昇り始めると、霜で一面真っ白だった畑は、きらきらと眩しいほどに輝き出す。触ると折れてしまいそうなまで凍りついた、ブロッコリー・キャベツ・コマツナ等の葉が、そのやわらかな日差しを浴びてゆくうちに、やがて元のしなやかな葉に戻るのだ。寒さに縮んだ人の心や体も、日だまりの中でやがて和み柔らかくなるのと同じように。

 夏の頃の勝手な思いも遠のき、今更ながらも太陽の力に感謝の念を抱きつつ、その恩恵を体感できる厳冬の頃こそ、自然界に息づく「命」の原点を見つめるにふさわしい時なのかも知れない。

 その時期はまた「農閑期」でもあるのだが、農に関わりのある方ならもちろんご存じかと思う。ただその現状はとなると、幸か不幸か多くのところで「農閑期」を持てなくなっているのが実情ではないだろうか。それというのも様々な農業資材や技術による生産手段の出現で、年中作物を育てることが可能になってしまったことで。

 農閑期とはいえ、かつてはその時期ならではの貴重な作業もあったようだが、今は殆どその姿も見かけない。

 まず命の芽吹く春から始まり、その成長ぶりに追われる夏を経て、やがて実りの秋へと、畑も移り行く季節とともに作物や作業も次々変わり続ける。だからその間はついその変化に紛れ、起きたことをじっくり振り返ったり、あり方を見つめ直すというような時を持つのも自ずと限られる。さらに私などは年齢的なことも手伝って、後回しや、やり残してしまうことも年々増えてくるという次第である!

 そんな身にとっては、畑の多くの命が眠り、静けさに包まれた頃に訪れる「農閑期」には、随分助けられていて、とても大切なひとときとなっている。

 日々の流れがますます速度を上げているのではと錯覚するほどに、目まぐるしい変化の続く昨今だから、さらに早さや量的なものを求める代わりに、ぜひお勧めの、“元祖「スローライフ」!”の習慣と思うのだけれど。

 それにしても、各地で気候変動に伴う記録的な寒波や豪雪の知らせが相次いだ。年々その度合いも激しくなっていることも事実であるし、今後様々に影響を与えて行くと思われる。となると、作物を育てたりする上でも、これまでのように予報や技術に頼るのも難しいかも知れない。となれば、様々な自然現象に対して、出来る限り謙虚に、心を澄ませ感覚を研くことが大切になるのではないだろうか。そんな思いはやがて、自分で作物を育てる人たちが増えたらという願いにもつながるのだが。

 「今年はどこに何をどんなふうに」等と、作付けを巡らすことも余裕を持って楽しめるのも今。まもなく、自然に心も体もじっとしてはいられなくなる!昨年集めた落葉もたっぷり雑草と一緒に積み上げてある。まずは来月に入ったら、ジャガイモから植え付けるとしよう!

(月刊 千葉ニュータウン2006.2.11)

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<8>循環について

 細い枝を四方に広げていただけの木々も、いつの間にか日陰を作り出していた。梅、桃、スモモ、辛夷、桜、八重桜と、次々に花開く樹木によって、春の調べはより鮮やかさと深みを増して行く。同時にそれらの樹木は、各地において種まき等の様々な農作業の目安となっていたことを思うと、かつての里の暮らしに大切な役割を果たしてもいたのだろう。

 日ざしに誘われて、弥生の頃よりいそいそと動き始めている。ただ冬の間に少々衰えた筋力や体力の身に、畑の準備、草刈り、種まきと、次々に農作業の待ち受ける春はきつい時もあるけれど、それでもつい畑に出て動き始めると、知らず知らずのうちに体調もよくなっていたりするから驚く!その辺りにも自然の一部である人間としての神秘も隠れているようである。さらには、昨年植えたはずがうっかりその場所を忘れるという記憶の衰えも、“芽生えの季節”は補ってくれもしてありがたい。

 そんなこんなで、多くの作物や樹木や草花が共生している自然農の畑では、それらが次々と姿を現し変化する時節は、大いに楽しみな頃でもある。

 現在畑には、栗やブルーベリー、柿や枇杷等の果樹も、フキやミョウガ、様々なハーブ類も、たくさんの野菜や草花と共存している。畑とはいえ、なるべく本来の自然の姿に近い状態にと思う私は、多種多様な植物を混作している。いわゆる“効率的”という人間にとっての都合にかなう方向とは逆かも知れないが、果樹だけとか野菜だけ(それも単一の)というのは、どうも不自然な気がするのである。

 最近はコンパニオンプランツ(共栄作物)ということでも知られるようになったが、私も詳しい訳ではないけれど、共生の大切さを見直すことになればと思う。

 そんな多くの植物たちの前年に落とした葉や、役割を終えた野菜の残滓や、命を全うした草花は、そのまま畑に残されるかあるいは積み上げられて、そこに留まる。徐々に分解され、土となり養分となって行く。サツマイモの蔓やサトイモの葉も、もはや元の形はそこにない。

 やがて命の始まりの時を迎え、こぼれ種からであろうと、種まきした苗であろうと、宿根の株からであろうと、そこで新しい命となって再びよみがえって行く。見事という他ない!そのたたずまいの中に身を置くと、「循環」が理屈抜きに感じられる。

 だからであろうか、その「循環」の環を断ってしまうような、自然に(ということは未来に)負荷をかけてしまいそうなものや方法を、なるべく使いたくないし避けたいと思えてくるのである。

 “便利”を追求した結果として、暮らしの中の様々な場面や要素のほとんどを、他にゆだねてしまうということになってしまった現代の生活。あらゆるものが「どこから来て、どう始末されどこへ行くのか?」よほど想像力が豊かであるか、自分の目でその実態を確認する機会でもない限り、暮らしの全体像は見えないしつかめない。

 そんな状況で「循環型社会」を唱えられても、正直その糸口が見えない時も長かったが、今ようやく、「持続可能な社会につながる循環型社会の未来図」は、やはり日々の暮らしをたとえわずかでも自分の手に取り戻すことで、その先がまた少し見えて来るという道のりの中にあるのかも知れないという思いに至っている。

 何はともあれ、その見事な「循環」のおかげで今年も、ふきのとう、つくし、よもぎ、菜の花等の季節の恵みを、味覚のみならずすべての感覚を総動員して充分味わうことが出来たのだから、感謝!

(月刊 千葉ニュータウン2006.4.15)

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<9>手作業から見えること

 まわりの風景もすっかり青葉若葉に包まれて、今年もまた、植物の生長にとっても大切な梅雨の頃を迎えた。

 五月晴れの下で薫風の清々しさを味わう機会も少なく、天候不順の続いた5月、たまの晴れには、作業に明け暮れすることとなった。日照不足の影響する作物がなくもないが、やはり今の時期ともなると、その生長や変化は一日がものを言う。

 さらに強風も続いたので、サヤエンドウの茎が折れたりもしたが、しなやかに対応したようで、また次々と花を咲かせ実をつけてくれているから、空を見上げながらの収穫となっている。

 ましてや草たちは、不順な天候もものともせず、すごい勢いで育っているので、これからしばらくは草刈りの作業も待っているのだが、たい肥の材料にもなるし、敷き草にもかかせないので、大切な作業でもある。

 生命力旺盛な植物の影響だろうか、時折、体力ぎりぎりまで作業をやってしまうこともあり、「これも欲?」と、以前からすればかなり物質的な欲は卒業したとはいえ、ふと戸惑いを覚えるのもこの時節なのだけれど。

 ところで近年、これまであまり見かけなかった草が現れては増えている。増え過ぎても困る類もあるので、その対策に追われるようにもなっている。様々な要因が考えられるが、遊休地等が増えたり、農業の機械化で隅々まで細やかな手入れが行き届かなくなったことも、そのことを助長させているのだろうし、さらには地球温暖化の影響もあるかも知れない。何れにしても、耕作地はトラクターで一掃出来ても、そうでないところはやはり人の手によって細やかな手入れをして行く他はない。

 そんなことに気がついたのも、機械や資材に頼らず、殆ど手作業でやっているからのことではないかと思う。前にも書いたが、私の場合、「出来る限り草を取らない、肥料を施さない、耕さない」というような、ありのままの自然を生かして作物を育てる方法を主としている。

 食べ物を作るとはいえ、否そうだからこそなお、自然を壊すようなことはなるべくしたくないし、後に「つけ」を残したくないという思いもあってのこと。

 これまでの体験といってもささやかなものではあるけれど、10数年の間には他の方法も試みたりもしたが、漸く自分の思いと感性と何より体力に適した方法にたどり着いた気がしている。もちろん完全であるはずもないが、自身に無理もなく、楽しさも味わえるから合っているのだろう。

 当然ながら、機械に頼らないということは、かなり“効率“は低いことになる。が、それは様々な対象物にとても近くなることでもあるから、自ずと細やかな観察も可能になる。こぼれ種による苗も着実に生かせるし、草たちの世界も覗けるからおもしろい発見もある。プラスチック等(!)の異物も取り除けるし、ミミズを傷つけることも少ない。

 というように、手と足と頭と心を使い、体力、気力、知力を隅々まで届けることが出来るのも手作業ならではのこと。とは言っても、機械とは違い人間は生身、当然限られた広さまでということになるけれど。まあそのあたりが「高齢化社会向き農業」に適しているのではと思える所以でもあるのだが。

 作物を育てて見ようと思い立った際に、数ある農法、育て方の何れに取り組んだとしても、充分それなりの成果は得られると思う。またいくつかの方法を試みることも、それをする人の感性や体力に相応しい方法を見いだすことに繋がると思えば、貴重な体験にもなるだろう。

 一人ひとりおかれた状況が違うのは当たり前のことであるし、知識や技術が絶対条件でもなければましてや目的でもないのだから、まずは楽しく取り組める方法から試して見ることも一つの手段と思う。性急に結果のみを求めたりしなければ、やがて、思いはもちろん、「生き方」そのものも反映するようになるに違いないのだから。

 願わくは、漸く「食の安全」に対して、多くの人が関心を持たざるをえなくなった今だからこそ、規模の大小にかかわらず、生産にたずさわる際には、自然への負荷の少ない方法も考慮したり、様々な資源の枯渇も視野に入れて、取り組んで行ってほしいものだが。

(写真)どこまで伸びるか楽しみなサヤエンドウ

(月刊 千葉ニュータウン2006.6.10)

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<10>脱石油!考

 自然の様々な形や彩りに満たされた夏の畑は、さながらキャンバスに描かれた完成間近の絵のようだ。すべてが渾然として輝いている。出来ることならもう手を加えることなく、この情景を静かに眺めていたいが、天候や刻々と変化する作物によって、そうもいかない。それが命あるものの証しでもあるけれど。

 「季節の移り変わりがどうもおかしい」と感じ始めてからだいぶ経つ。年々際立ってくる天候不順や気候変動を考えると、今後は作物を育てるのもこれまでのようにはいかないのでは、という思いが年ごとに強まっている昨今の状況だ。

 ただ、ありがたいことに、日照不足や長引いた梅雨と気がかりな天候が続いた今夏も、暑さの戻った現在、これまでの遅れを取り戻すかのように、オクラやスイカ等も、勢いよく丈や蔓を伸ばしている。もちろん幼苗の頃には多少の心配りは必要だったが、全体として見ればほぼ順調に育っている。

 やはり、これまであまり過保護にされずに代を重ねてきたことがよかったのかも知れない。普段から農薬や多肥料に頼らないで作り続けている作物は、自ら育つ力が損なわれず残っているのではないか。どんなに安定的で多収穫になるからといって、様々な「便利な資材」(ほとんど石油が原料)を多用していたら、こうはならなかったろう。

 現代社会は日々の暮らしに始まり、様々な製品の生産、加工、流通、消費まで、「安い石油」に支えられている。私たちの生存基盤のひとつである食料を生産する農業とて例外ではない。社会のすべての土台となってしまった「安い石油」が変調を来すことの影響は計り知れない。

 価格が「高騰」するだけでも多大な影響があるが、これがさらに量的な「減少」と連動するとなると・・・・。最近、「ピーク・オイル」という耳慣れない言葉を耳にした。原油の生産量がピーク(最高点)に達する「ピーク・オイル」は、これまでずっと先と思われていたものが、一説には、まさしく到来しつつあるというのだ(ついにというべきか)。

 以前は1バレル(159リットル)相当のエネルギーを使って100バレルの原油を生産出来たものが、現在では様々な要因から、同じ1バレル相当のエネルギーを投入しても15バレルの石油しか出来なくなっていると聞くと、「減少」も納得せざるを得ない気持ちになる。

 しかし、世界中ではさらに消費量が増えている。そんななかで生産量が「減少」に向かうことになれば!?

 もっとも、「高騰」や「減少」もマイナスばかりでもあるまい。数々の紛争の原因ともなっている上、様々な気候変動の源である地球温暖化の主要な要因でもあるとなれば、かなり手荒い方法にせよ、否応なくその使用を減らさねばならない状況が来ることは、結果的に紛争の火種も減り、二酸化炭素も減ることになるのだとしたら。

 とは言うものの、現状を考えると、すんなり軟着陸するとはまず思えないが。

 少なくとも、生存基盤でもある食料に関して言えば、これまでのように「安いエネルギー」として、生産、加工、流通等に多用出来なくなることを考えると、なるべく無駄なエネルギーを使わずに済むような、地域に合った自給システムに少しずつでもシフトすることが重要になって行くことだろう。

 一例としては、以前ドイツで見た光景がとても印象に残っている。それはさほど大きくない市の郊外に美しく広がるクラインガルテン(都市住民のための菜園)である。世界には他にも、デンマークのコロニーガーデン、ロシアのダーチャ(国民の半数以上が所有し、農地の三分の一以上を占めるというから驚く!)、そしてキューバの例等、それぞれの国や地域で、それぞれの事情や特性を生かした自給や自立のためのシステムがある。

 折しも、「原油の高騰」が様々な方面に影響を及ぼし始めた今であれば、あらためて私たちの日常が、「安い石油」に支えられていることを考えてみるのによい機会でもある。と同時に、一歩ずつでも、「脱石油」を考慮したライフスタイルや社会のシステムを真剣に選択すべき時が、いよいよ到来したということではないだろうか。

(カット・著者作)日ごとに大きくなるオクラはやがて2mにも!(背の高い品種)

(月刊 千葉ニュータウン2006.8.12)

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