[5]草深の森散歩の勧め

できるだけ自然の森を楽しんでもらう

  先日、わが家の愚犬と散歩しているうちに、印西市が整備した「草深の森」に迷い込んだという感じで足を踏み入れた。

 本紙でも何度かとりあげられた、『もともとの植生をできるだけ活かし、近隣の市民が気軽に自然にふれあえる』というコンセプトで整備された公園ということなので、この機会にどんな公園ができたのか見てやろうと思い、愚犬に引きずられながら森の中を一通り見て回った。

 知人から聞いた、中央広場のミツバチの巣の存在は確認できなかった。この知人によると、広場のどの木かミツバチの大きな巣ができていて、ハチに刺されずに巣を何とか回収できれば天然の蜂蜜が味わえるのだという。味わうつもりはないが、そういう話を聞くと、やはり少し気になり、巣を見てみたいという気持ちになる。

 しかし、それ以上に気になったのは、この公園の整備状況であった。本当に『手を加えるのは最低限にとどめ、できるだけ市民に自然の森を楽しんでもらう』というコンセプトに忠実に公園が作られているのか。そうはいっても、お役所の論理で、予算を消化するために不必要な施設を作り、結局自然を破壊した“公園”になっていないか。

 印象からいうと、「必要最低限の手を加え」という印西市のコンセプトはかなり貫かれているといっていいのではないか。私個人からすれば、もともとこの辺りは、少し遠出をしようかという日の散歩コースに入っており、道なきイバラの群生を愚犬と一緒に踏み分けて楽しんでいた場所であり、「必要最低限」であっても、一切“整備”などしてもらわなくてもよかったのだが、しかし従来の「公園整備」の発想からすれば、この程度の“整備”で済んだのは喜ばしい。市の“英断”だという気がする。

「自然破壊型」公園との対比

 もう一つ気になったのは、公園の所々に「狩猟禁止」の看板がかかっていたことだ。この辺りでは、近くの谷津田周辺を散歩中、時々銃声が轟き、びっくりすると同時に、腹が立つことがある。公園として整備された「草深の森」地区で銃を打つのが禁止されたのは当然として、それ以外の地区でもこれだけ人口が増えてきたら、事故を未然に防ぐ措置が必要なのではないか。

 一年ほど前の本紙に「中央公園なんか要らない」と題して、中央駅近くの森を切り開いて県の中央公園が整備されつつある状況を批判する雑文を投稿させてもらった(1997年4月15日付)。ここでは、もともと生えていた樹々を次々に引っこ抜き、代わりにいかにもスマートな樹木をどこかから調達してきて、植えていくという「自然破壊型」の公園計画が延々一〇年くらい続いており、その間この一帯には鉄条網が張りめぐらされ、近隣の住民も閉め出されている。

 「中央公園」予定地にあと何年、土煙をあげるダンプカーと大型クレーンによる工事が続けられ、ずっとシャットアウトされていた住民が、いつここに足を踏み入れられるようになるのかは知らない。さぞかし“立派な”公園ができるのだろう。

 しかし、出口のない不況が何年も続き、国と地方を合わせてGDPに匹敵する借金が問題になっている中で、これだけ長期にわたる大工事を経なければオープンにこぎつけないような公園を誰が希望しているのだろうか。あれだけ鬱蒼と茂っていた森を見るも無残な姿にしなければ実現できない「市民のための憩いの空間」とはいったい何なのだろうか。

公共事業をめぐる数字のマジック

 「公共投資六三〇兆円計画」では、現在日本の一人当たり公園面積は欧米諸国の約半分であり、これを欧米並みに引き上げるには、一〇年程度の間に現在の二倍の公園面積にしていかなくてはならないと建設省が主張して、予算確保の一つの根拠となっている。しかし、その場合の「一人当たり公園面積」という指標には、建設省が管轄する「都市公園」のみが含まれていて、環境庁が管轄する国立公園などの自然公園面積は無視されるという数字のマジックが使われていることは、前回の投稿で書いた。

 仮りに、数字のマジックに目をつぶり、建設省が主張するように都市公園面積を倍増する必要性を認めたとしても、「中央公園」のような大がかりで自然破壊的な工事を前提に考えている限り、いくら予算があっても足りないのではないか。都市公園面積を二倍にという目標の達成を難しくしているのは、ほかならぬ建設省自身という見方もできるのではないか。

 「草深の森」のようなやり方でやれば、はるかに少ない予算で自然を残したまま、多くの人々に喜ばれる「憩いの空間」がいくらでもできるではないか。  「中央公園」を計画・工事監理している人たちに、一日工事の手を休めて、「草深の森」を散歩することをお勧めする。  

(「千葉ニュータウン新聞」1998年6月15日付所載)