[9]「もったいない」のココロ

戦後劇的に消滅した職業

 今の40代後半以上の人たちが子どもの頃までは、いろいろなものを修繕する多種多様な職業が存在した。しかし、高度成長期に入って、この種の職業が短期間に大挙して消滅したのが、戦後の社会の一大特徴だと思う。これはニュータウン地区というより全国規模の話だが、今でも田舎に行くと、少数ながらそうした職業の人がいて、時にニュータウンの各戸を回って注文をとる場合もあるようなので、ここでとりあげたい。

 昭和20〜30年代まで、鍋釜の底に穴が空いたら、鋳掛け屋のおじさんが直してくれた、蝙蝠傘の張り替え屋さんもいた。とにかく故障したり壊れた物は何でも修理して再び使っていたのである。

 物が故障したりするのは、人間でいえば風邪をひくのと同じで、ひき始めに手際よく直してしまえば、またしばらくは役にたつ。現代は耐久消費財でも日用品でもちょっと具合が悪くなったら、その品物の一生は終わりで、あとは墓場(清掃工場)行きとなる。

 その頃と現在と比べて、いちばん多く消滅した職業がこの“修理にかかわる人たち”ではなかったかと思う。そういえば、家庭の主婦の仕事の多くも、衣類などを修理して、再び使える状態にすることだった。繕い物、洗濯、ふとん綿の打ち直し、洗い張り、ミシンかけ等々。亭主がよれよれにくたびれて帰ってきたら、夜のうちにほころびを縫い直したり、”寝押し”したりして、翌朝パリッとした状態で送り出す・・・・?。

何ともちぐはぐな先進リサイクル社会

 最近、何かというとドイツなどがリサイクル先進国として取り上げられ、日本の「遅れ」を嘆く識者が多いが、本連載(5)でふれたように江戸時代から高度成長期前まで、高度に洗練されたリサイクルシステムを築いてきた日本の社会が、欧米のような豊かさを追い求めた結果、大量消費・大量廃棄型の社会構造になってしまったのだから、またぞろヨーロッパの真似をしても、問題の解決にはならないと思う。

 ドイツにしろ、日本にしろ、現代の先進国社会はリサイクルだの省エネという建前が騒々しく叫ばれる裏で、それとまるで逆行したことが行われる、ちぐはぐさがめだつ。

 昭和48年に起きた第1次石油ショックを契機として、代替エネルギー開発の必要性が叫ばれ、昭和50年から太陽熱で発電するサンシャイン計画がスタートした。が、実はほぼ同じ時期に何ともちぐはぐな商品が世に登場したのである。石油ショックと同じ年の昭和48年に三菱電機から発売されたふとん乾燥機がそれである。独身者や夫婦共稼ぎで日中ふとんを干してなどいられない人々が増えたことを背景に、発売されるや、ちょっとしたヒット商品になった。

 つまり、太陽エネルギーで電気を起こす一方、もともと太陽エネルギーで乾かしていたふとんを、苦労して発電した電気で乾燥させるという馬鹿々々しいことを、同時並行的に進めていたことになる。当時も今も、太陽エネルギーの開発に従事している技術者が異口同音におっしゃるのは、地球全体に薄く、まんべんなく降り注いでいる太陽エネルギーを集めて、発電などに利用するのは大変難しいということである。

 そんな、爪に火を点すような思いをして起こした電気でふとんなど乾かしてどうする?

 ドイツなどのリサイクルの話にしても、それほどうまくいっているのなら、時々こうしたリサイクル先進国から途上国にひそかにごみが輸出されるのはどういうわけか。

太陽エネルギーの最も賢い利用法とは

 最近は太陽熱ではなく、光を電気に変換する太陽電池の性能がどんどんよくなっているが、このシリコン製の精密なチップやそれを何枚も組み合わせたパネルを作るのにも、大量の石油や工業製品が使われる。数年前に取材した時には、ソーラー・システムを作るのに使われる石油や工業製品の量と、それで電気が起こされ、石油の消費を節減できる量との収支を計算すると、まだマイナスだという話だった。その後この収支バランスは黒字転換したのだろうか。

 精密なシステムであるがゆえの問題点も多い。太陽光を利用するのだから、日照が多い場所ほどいいかというと、砂漠の国などでは砂嵐ですぐダメになってしまう。あまり暑い国もソーラーには適さないという、なかなか気むずかしい装置なのだ。

 あまりこましゃくれたことを考えずに、ベランダでふとんを干したり、海辺の漁村でアジの干物を天日で乾燥させたり、といった昔ながらの太陽エネルギーの利用の方が、無理して発電などするよりもはるかに素直で賢い選択だと、少なくとも当分の間は断言して間違いなさそうである。

現代の知識と昔の知恵

 学校では、環境教育と称して、燃えるごみと燃えないごみ、資源ごみなどの分別のしかたを教えるらしい。分別法を間違えてごみを捨てようとした親が子どもから注意されたなどといったことが何か美談のように語られるが、そういう問題なのだろうか。

 いまの子どもたちに教えるべきなのは、複雑なごみの分別法なんかよりも何よりも、ただ一つ「もったいない」という、単純な感覚ではないか。ごみの分別について完全な知識を詰め込んだ子どもが、給食のおかずを大量に残したり、風呂に入って頭を洗うでもないのにシャワーを流しっぱなしという光景を目にすると、アホちゃう?と言いたくなる。

 たぶん、現代人は自分たちが考えているほど進んではいないし、昔の人たちは現代人が考えるほど遅れてはいなかった、そのことが次第に明らかになってきているのだろう。

 現代のコミュニティが抱える問題を解決するヒントの多くは、昔ながらの知恵の中に求められるのではないか。これからは、それこそがナウい生き方になるんだっちゅーの。わかったか、ジャンジャン。

 

「千葉ニュータウン新聞」1999年10月15日号所載