[12]暗闇

闇は記憶も想像も寄せつけない
 自身は漆黒の闇の中にいて、光り輝く世界を想像するのと、明るい世界から暗闇を思い描くのと、どちらがむずかしいかといえば、おそらく後者だろう。闇の中で光を想像するのはさしてむずかしくないが、逆はほぼ不可能に思われる。二十一世紀初頭の日本に住む
私たちは、久しく暗闇を忘れ、もはや真の闇を想像することさえできなくなっているのではないか。

 街の夜が明るくなった。街灯ばかりでなく、コンビニ、パチンコ店、自販機等々、至るところで惜しげもなく光が流れ出し、通りを明るく照らしている。闇のまま残されている空間はほとんど存在しない。しかし、昭和三十年代の頃まで、夜の街路は今では思い出すことも想像することも困難なほど暗かった。

 夜が暗かった昔、人々の「
もっと光を」という欲望と、松下幸之助さんの「もっと売上げを」という野望がドッキングして、日本の夜が次第に明るくなっていったまでは目出たいのだが、何ごとも「過ぎたるは・・・・」というやつで、今から十数年前頃になると、ついに「二十四時間眠らない都市」モードに突入してしまった。

いいとこ取りの現代文明
 夜の明るさは
安全・安心・便利を意味し、暗闇の危険・不安・不便から人間を解放してくれた。しかし、もともと光と闇、明と暗はコインの裏表であり、裏(闇・暗)と切り離して表(光・明)だけを享受することは、物理的にも生理的にも本来成り立ちえない営みだったのではないか。

 「
影の闇の深さがあってこそ光が輝く。光は影を照らすことによって光であり得るのだ」(五木寛之「日本人の心」4)。

 過去数十年の先進国の文明は「いいとこ取り」の文明であり、嫌いなニンジンを残して、ハンバーグばかり食べたがる
偏食児童と同じく、光ばかりを享受してきた、栄養の偏りがいつか心身によからぬ影響を及ぼすのではないか。いや、すでにそうした「偏食」は、二十一世紀の先進国に住むわれわれとその子どもたちを襲いつつあるように感じる。

私が公を侵食する現代社会
 「偏食」は、いろいろなものに姿を変えて、自らを正当化しようとする−−民主主義、改革、不況からの脱出、差別撤廃、近代化、等々。

 たとえば、
ニムビィ現象*が、先進国の都市型社会を立ち往生させている。発電所やごみ処理施設など、社会的に必要であることには同意するが、わが地域、わが家の近くに建てるのには絶対反対…。

 平穏な生活を守ろうとして反対に立ち上がる住民の気持ちは十分理解できるし、もちろん誰もそうした住民の行動を批判などできない。しかしその結果、社会全体でみると、どこの地域からもはじき出された「迷惑施設」は、最終的には行き場を失い、ブーメランのようにわれわれの社会全体に跳ね返ってくる。

 
総論賛成、各論反対で、自分たちの地域に「だけ」はごみ処理場を建設させない社会は、やがて社会全体がごみにまみれるほかないだろう。

「大きな政府」を育ててきた近代のライフスタイル
 何しろ、二十四時間眠らない都市で生活する現代人は忙しい。朝早く家を出て、電車で数十キロ離れた都心のオフィスに通い、疲労困憊して夜遅くわが家にたどり着く。

 家族ともろくに顔を合わせられない生活、地域のことにも概して無関心という
千葉都民や埼玉都民が、高度成長期を通じて増加してきた。

 しかし、日本の夜が暗かった昭和三十年代の頃までは、隣近所のつきあいや共同作業に参加することは、一家の主人の重要な務めだった。地域の側も各戸からの参加を促す、
有形、無形の強制力をもっていた(今は、個人に対する強制力のほとんどは「会社」が一人占めしている)。ご近所での寄り合い、道普請、消防団、防火や防犯のパトロール、等々。

 高度成長期以降、こうした業務は、地域の行政や一部の有志が引き取り、おとうさんたちは都心への通勤に専念するようになっていった。闇を切り捨て、光だけを享受するスタイルの浸透は、地域や行政からのサービスは当然のこととして受け取るが、これに奉仕したり協力することには極端に消極的な人たちを生み出し、
私(private)と公(public)の間のgive and takeのバランスを崩してきた。

愛は地球を滅ぼす
 経済学の教科書では、市場に参加する人たちが、善意、悪意に関わらず、それぞれの欲望に沿って行動すれば、「
神の手」に導かれて、全体のニーズとシーズがうまくマッチすることになっている。

 しかし、現代の社会は、アダム・スミスが描いた予定調和の世界にはおさまりそうもない。「人は生まれながらにして平等(であるべきだ)」「昨日より明日はよくなる(べきだ)」等々をバックボーンとする、
みんなの行動の総和が、結果として全体の破綻を招来するシナリオの方がリアリティに富んでいるようにみえる。

 それが、切り捨てられた影・闇による復讐(リベンジ)なのかもしれない。

 「愛は地球を救う」というのは、某テレビ局の看板番組のキャッチコピーだったが、某物理学者が人類と宇宙の将来を語ったインタビュー記事には、「愛は地球を滅ぼす」というサブタイトルがつけられていた。

 民主主義、自由、平等、進歩、調和等々の概念は、それ自体正しい思想、概念であることに誰も異を唱えるわけにはいかないが、これらが地球規模で集積すると、「神の手」どころか「
悪魔の手」によって、最悪の結果が導かれるおそれがある。

 それが、二十一世紀の先進国が直面する最大の難問かもしれない。

* ニムビィ現象=NIMBY(Not In My Backyard)。社会的には必要な施設だが、私の裏庭に建設するのはやめてほしいという主張により、公共施設の計画などが進捗を阻まれる傾向。

月刊 千葉ニュータウン2002年9月14日号所載