[17]玄関の土間に応接セット

合理的で賢い生活スタイル

 千葉ニュータウンに引っ越してきて、軽いカルチャーショックを受けた経験が何度かある。

 自然環境に巧みに手を加えながら、自然と共生している里山地域──。そうした里山地域の民家では、玄関の土間に簡単なテーブルと椅子が置いてあることが多い。

 来客は通常ここでその家の主人と打ち合わせ、相談をするしきたりであることに、この地に住んでしばらくしてから気がついた。

 玄関の土間だから、来客は靴を脱がずにそのまま椅子に座って主人と話ができる。しばらくすると奥さんがお茶を出してくれるが、茶を置くと、そのまま奥へ引っ込んでしまう。奥の部屋からは子どもたちの楽しそうな笑い声やテレビの音声が流れてくる。

 かくて、玄関先の応接空間は主人と来客だけで家族に遠慮せずに、打ち合わせや相談ができる。また、家族の方も、来客の存在を気にしたり、自分たちの生活ペースが客の〈侵入〉によって乱されずにすむ。

 これは大変な発明であり、ニュータウンに隣接する在来地区の人たちが、非常に合理的で賢い生活スタイルを築いてきたことを想像させる、格好の素材だと思う。

来客が家族に与える負担

 実際、日本の家屋に来客を迎えるのは、その家の家族にとってなかなか大変なことなのである。奥さんは、客をあれこれともてなさなくてはならないし、その他の家族も、(時にホウキを逆さに立てて)じっと息をひそめて客が帰るのを待たなければならない。

 漫画「サザエさん」で、マスオさんが突然会社の同僚数人を家に連れてくる場面がある。

 迎えるサザエさん、しかたなく一人々々の来客に笑顔で挨拶するが、内心は「この忙しいのに、勝手にお客を連れてきたりして・・・・」とか何とか、マスオさんに対して憤懣やるかたない。中に一人マスオさんによく似た客がいて、サザエさん、この客を鬼のような形相でにらみつけ、サザエさんの形相に件の客は震え上がるが、後で間違いとわかって、夫婦は大赤面する。

 一家の主人が外で会った知人に「ちょっと寄っていけよ」などといって、不意の客を引っ張り上げる――、映画や小説などでよく登場する場面だが、あれのほとんどは男の見栄ないし危険な背伸びだろう。見栄を張った代償に、後で男がどんな凄惨なお仕置きを鬼の形相の奥方から受けることになるのか、映画も小説もそこまでは描写しない。

 もっとも、見栄だろうと何だろうと張れるうちが華であり、わが家などは見栄すら張らせてもらえないのです、トホホ・・・・。

豊かな交流の文化

 それはともかくとして、日常のちょっとした来客を玄関の土間でさばく、あるいは陽当たりのいい縁側がお婆ちゃんたちの社交場になるというのは、在来型の家屋、昔風の生活スタイルが豊かな交流の文化を育んできたことを証明している。

 翻って、ニュータウンの家々ではどうしているかというと、わが家の周辺で最もよく見かける光景は、玄関先(門前)での立ち話である。立ち話だから、長居は無用であり、用が済んだらそそくさと帰っていく、またはっきりした用がなければ訪れない。

 しかし、本当の交流というのは、用がなくても立ち寄れる場所が不可欠だし、むしろ用件が終わった後の世間話から親しいおつき合いが始まるものといってもよい。

 そうした遊びがニュータウンの家作には存在しない。だから、交流も生まれにくいのが、ニュータウンというまちのつくりといえる。

 少なくともこれまでのニュータウンの家々では、交流の必要を感じても、簡単な応接セットを置けるほどにも玄関の土間は広くないし、そのような工夫、応用力を働かせることのできる〈遊び〉もない。近所のお婆ちゃんがやってきて腰掛けられる、日当たりのいい縁側もない。

まちづくりのパンフレットとは裏腹に・・・

 ニュータウンには、○○会館だの××センターとか、さまざまな施設があって、多くの人が毎日利用したり、相互に交流している。しかし──。

リサイクルをやかましく叫ぶ社会ほど、本当は大してリサイクルの実が上がっていないケースが多い。

・国名に人民だの民主だのを冠している国に限って、人民を飢えさせたり、どこをどう突いても民主の臭いさえ感じられない独裁者がのさばり、挙げ句の果ては隣国の罪もなき人民を拉致したり・・・・。

 同様に、交流だのふれ合いといったキャッチコピーがあふれている街ほど、実際には交流やふれ合いがないがしろにされる構造になっているのが現実かもしれない。

月刊 千葉ニュータウン(2003年6月14日付)所載