[18]男・小トイレ

消費生活の進展とともに失われた男の立場

 
女権は理によって拡張され、男権は利によって衰亡する――

 女性たちおよび女権拡張論者たちは、戦後一貫して『男女平等』『雇用機会均等』『男女共同参画』といった、正面切って言われると誰も反対できない(言い換えれば退屈な)理屈を掲げて《理想》を追求してきた。

 一方、男たちは戦後、理念、理想といった世界を極力避け、「利」すなわち経済活動に邁進した。しかし、世の中が豊かで快適になる(「利」の成果が上がる)にしたがって、社会および家庭内での男権は急速に弱まっていき、ついには家庭内で《おとうさんの居場所》がなくなるといったケースも報告されるに至る。

 女権の拡張を支えている価値概念が、終戦直後からの民主主義思想を背景にしたものであるのに対して、男権の衰亡現象は、昭和三十年代以降経済の高度成長期に日本人の生活スタイル、消費パターンが急激に変化する中でなし崩し的に進んだといえる。

家の単機能化と親父のエイリアン化

 生活スタイルの変化は、何よりも家の単機能化という形で顕著に現れる。

 伝統的な地域社会では、家庭は(曾)祖父母から赤ん坊まで、多様な年齢層、構成員から成っていたが、現在は親子二世代が中心の核家族化が進んでいる。伝統社会では《出産》《婚姻》《死亡》をはじめ、人生のいろいろな営みがすべて家を舞台に展開されたが、現在これらイベントのほとんどは家の外で行われる。

 そうして、高度成長期以降の家は「消費単位」としての機能に次第に特化していき、家族が豊かな消費生活を楽しむ場でしかなくなっていった。

 家庭が消費単位と化していく中にあって、生産の臭いプンプンのおとうさんは異物であり、ダサさの象徴となる。おとうさんだって、会社のオフィスで部下にあれこれ指示している場面などはなかなかカッコいいのだが、そんな姿は家からはみえないし、そういう要素を消費単位と化した家庭に持ち込むこと自体ウザったがられるのである。

A級戦犯は銀行とハウスメーカー

 要するに、男権の衰亡は女権の拡張に押されてその分後退したという面ばかりでなく、明治維新や敗戦といった歴史的な激動期にもそれほど大きく変わることがなかった庶民の生活スタイルが、ほとんど根こそぎ変更されることになる高度成長期以降の社会の変化に、より多くの影響を受けているということができる。

 企業などさまざまな経済主体も、こうした社会的生活スタイルの変化を織り込んだり、時にそれをプッシュする動きを示した。そうした動向をやや漫画チックに総括すれば、男権衰亡のA級戦犯として銀行と住宅メーカーの名をあげることができる。

 銀行の責任は、言うまでもなく給料の口座振込みなどという余計なものを発明したことである。また、ハウスメーカーのほうは、家庭内における男の立場というものにあまりにも無頓着に家づくりを進めてきた。

 仏壇、神棚、床の間、大黒柱といった《装置》がもっていた記号論的な意味は、「低コストで大量の住宅を供給する」という経済原則の前に簡単に無視され、給料の自動振込システムも、社長から社員に、夫から妻に給料を手渡す行為の記号的な意味を、何の顧慮もなく無視し去った。

 最近の刑事裁判の判決によく登場するフレーズを借用するならば、銀行業界も住宅業界も『身勝手で短絡的な』商品づくりを重ねてきた責任はまことに重いといわねばならない。

罪深きは洋式トイレ

 高度成長期以後の都市型住宅の単機能化、その中でおとうさんの居場所がないがしろにされてきた例を三つほどあげよう。

 一つは、書斎ないし仕事場。新興住宅地で建てられる住宅のほとんどで、子どもたちの個室はあっても、おとうさんが会社の書類を持ち帰って目を通したり、一人になってホッとできる《男の隠れ家》的な空間はどこにもない。どうしても一人になりたければ、読みかけの小説でももってトイレに閉じこもるしかない。

 第二は、応接空間。前号でもみたように、伝統的な家ではご近所同士の交流を受け入れる最低限の応接空間や、そうした工夫を施す余地が残されていたが、最近の都市型住宅ではそうした機能は基本的に削り落とされている。家の交流機能の低下は、男の対外的な面子が犠牲になる傾向が強い。

 第三は、トイレ。

 作家の田辺聖子氏が昔、週刊誌に連載していたコラムで、ご主人(カモカのおっちゃん)が田辺氏に向かって、最近の新築住宅の(男性の小用を兼ねた)洋式トイレのことで悲憤慷慨する場面がある。たしかこんな会話が田辺夫妻の間で交わされていた。

 カモカ「あんな狭い便器では、男のオシッコはでけしまへん。外へ飛び出してしまいます」

 聖子「でも、男の人はホースがあるんだから、狙いをつけられるでしょうに」

 カモカ「アホッ、男のシャワーは二筋の放物線を描くんや。一筋は何とか朝顔の中におさめても、もう一筋は制御不能、どっちへ飛ぶかわからへんのです」

 さすがの女流文豪も、男のシャワーが二本の放物線を描くことまではご存じなかったとみえて、聖子さん絶句したところでコラムが終わる

十数年の間にこの落差

 このコラムを読んだのが、たしか一九八〇年代半ば頃だったと記憶する。

 その後ほどなくして、九七年元旦の中国新聞に衝撃的なルポが掲載された。

 記事の中で、夫が洋式トイレで小用する時、飛沫が飛ぶから便座に座ってオシッコをするよう厳命する妻が登場する。立ったままジョボジョボやっていると、音を聞きつけた妻がどこからともなく飛んできて、《規則》の周知徹底をはかる。結果、ついにこの家では夫が座ってオシッコをするようになったという実話が報告されている(『男はつらいよ―妻の王国』、中国新聞一九九七年一月一日付)。

 二つのエピソードの時間差は、二十年にも満たない。このことは、この間家庭内での男権の衰亡がいかに急速に進んだかを示しているといえないだろうか。

 カモカのおっちゃんは、最近の住宅の狭苦しい洋式トイレでオシッコをさせられることに憤慨、抗議の声をあげつつも、男性特有の生理を堂々と主張しているのに対して、後者のエピソードでは、夫は男としての主張・抗議すら許されず、もっぱら便器の都合に合わせて、有史以来初めて(だろう、たぶん)、立ちション・スタイルを放棄(それも、女性から強制的に)させられているのである。

 繰り返すが、女性の権利拡張は、正面からの議論、理屈を主張するので、目に見えやすいが、男の立場は砂上の楼閣というか、知らぬ間に足元の砂が浸食されるが如く・・・という形なので、気づきにくいのである。

 おのおの方、油断めさるな(なんちゃっても、もはや手遅れみたいね)。

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月刊 千葉ニュータウン(2003年7月12日付)所載